第33話 運命の軋み
血と泥に塗れた過酷な金策の果てに、一行はついに目的の武具を全て手に入れた。
バハルの規格外の膂力にも耐えうるであろう、青白い冷気を纏った『フルム・ノルニル(凍結飛竜)の魔鉄斧』。
そして、物理と魔導の両面で最高水準の防御力を誇る、崖蜘蛛の甲殻と魔鉄合金を加工した『グラート・シュピンネの大鎧』。
巨漢の龍人は、新調した怪しく黒光る魔の装甲をさっそく身に纏い、満足げに打ち鳴らしている。
ディオンの腰には、魔導剣術の媒体としてうってつけの『アイゼン・イーゲル(鉄針山嵐)の魔鉱石から鍛えられた魔剣ヘルグリム』が帯びられていた。
持ち主の魔力を流し込むことで威力が爆発的に跳ね上がる代物であり、古代エルフ言語魔法の魔導剣術を操る彼との相性は抜群だった。
アルベローゼは、非金属の魔力素材で編まれた『ネーベル・ヴィスペ(霧灯精)の手甲』を身につけ、目を輝かせている。
彼女はさらに『アイゼン・ゲヴァイ(魔鹿)』のなめし革で作られた深い緑色の短衣とスカート、そして足元には『冷狼のブーツ』を揃え、森の妖精のような軽快さと可愛らしい外観を見事に両立させていた。
ライナスが纏うのは、希少金属ミスリルが緻密に編み込まれ、回復系神聖魔法の効果を増幅させる『聖星のローブ』。
白銀の糸が鈍く光り、彼が持つ『水の短聖杖』の透き通った魔力結晶と美しく調和している。
だが、何よりも彼らパーティー全員が熱望し、必死の思いで手に入れた高額な品が一つあった。
エリカが身に纏う――『月光石のローブ』である。
淡い真珠色の輝きを放つそのローブには、強力な精神の安寧効果が付与されている。
魔法を行使するたびに自らの内に巣食う悪霊が干渉し、底知れぬ殺意に苛まれているエリカにとって、それは何にも代えがたい救いになるはずの品だった。
さらりと肌を滑る真珠色の布地をそっと撫で、エリカはその上から『雪飛龍のマント』をふわりと羽織った。
ローブが放つ穏やかな波動が、胸の奥で蠢く泥のような悪霊の気配を、静かに押さえ込んでくれるのを感じる。
エリカは、このローブに込められた仲間たちの『想い』を、ひどく温かく……そして強く感じていた。
エリカが皆の優しさに笑みを浮かべながら羊皮紙の地図を広げた。
「ここから西へ九十ライン(キロメートル)。大運河の街『アクア・フェリス』よ。定期馬車で行くわ。そこを越えれば、王都ルーン・ヴィークはもう目の前。途中で三十ライン先の、麦と葡萄と酒の街『セーフ・フィカコ』が中継ポイントになるわね」
「馬車は先頭と最後尾の車両だけ、必ず戦闘に参加しなければならない規定があるのですが……その代わり、乗車賃は破格の安さなのです。通称『戦闘馬車』……我々はこれに乗ります」
ライナスが穏やかな声で補足した。
フェルゼン・ハフトの正門前。
西へと向かう定期馬車は、一定の間隔を保って進む六台の重厚な車列だった。
緊急時の離散を想定した運用は、ヴィルヘルの脅威が日常であるこの街道における鉄則である。
一行が乗り込んだのは、隊列の前後を固める戦闘員用馬車。
ヴィルヘルの襲撃時に戦う義務が生じる車両だ。
戦闘員の不足により発車が遅れることもしばしばだが、一行を乗せた馬車は、いななきと共に盛大な砂煙を上げてようやく動き出した。
道中、馬車は一クロス(時間)に一回から二回という高い頻度でヴィルヘルの襲撃を受けた。
そのたびに一行は馬車から飛び出し、迫り来る魔物の群れを危なげなく屠っていく。
草原に出没するヴィルヘルはさほど脅威ではない。
それに加えて、聖都から程近いこの街道は警護役の騎士団や魔導師団の定期的な巡回ルートとなっており、旅人にとって比較的安全な道のりであった。
揺れる馬車の窓からは、駆け出しの冒険者たちが広めの野営地でテントを広げ、夜を明かす準備を始めているのどかな光景が見て取れた。
過剰な警戒心が微笑ましい。
太陽が傾き始めた頃。
車列は、荒れ狂う海に面した断崖絶壁をくり抜いた、長大な海沿いのトンネルへと差し掛かった。
外の眩しい陽光から一転、視界は急激に暗く沈む。
トンネル内は、壁面に埋め込まれた天然の魔導結晶が放つ、ぼんやりとした青緑色の燐光だけが頼りの薄暗い回廊となっていた。
右手の岩壁には等間隔で自然の通気穴が開けられている。
そこから吹き込んでくるのは、ひどく濃厚な潮の香りと、岩礁に打ち付ける波の飛沫。
ザパーン、ゴォォォ……という、海がうめき声を上げているかのような轟音が、腹の底に響くようにトンネル内で重く反響し続けていた。
その絶え間ない轟音に紛れるように、岩肌を這い回る「不気味な摩擦音」が近づいてきていた。
ギチ……ギチギチ……。
硬質な何かが石の表面を削り取るような、ひどく耳障りな音。
「来るぞ!上だ!」
警戒を怠っていなかったディオンの鋭い警告が響いた。
その声と同時、トンネルの高い天井の暗がりから、岩塊のような巨大な影がボトボトと次々に降ってきた。
重い着地音が響き、馬車の前に立ち塞がる。
洞窟特有の湿気と暗闇を好む甲殻魔獣――『メーア・クラーベ(海大蟹)』の群れだ。
全長は優に三ガルイ(メートル)を超え、鋼鉄よりも硬い青黒い甲殻で全身を覆っている。
そして何より脅威なのは、鋼板すらも一撃で両断する凶悪な巨大鋏だ。
通常、この辺りの海域には出現することのない、極めて稀な強敵である。
生態系のイレギュラーとも言えるこの魔獣の群れに遭遇すれば、駆け出しの冒険者や経験の浅い傭兵などは、文字通り「瞬きする間に全滅」する。
現に、後続の馬車に乗る他の護衛たちは、その圧倒的な威容に青ざめ、武器を構えたまま完全に足がすくんでしまっていた。
だが、幾多の死線をくぐり抜けてきたこの五人にとって、それは絶望ではなく、格好の試金石に過ぎない。
「ガハハハッ!ちょうど新しい鎧の試し斬り……いや、試し受けがしたかったところだ!」
バハルが鼓膜を震わせる咆哮と共に、誰よりも早く前へ躍り出た。
メーア・クラーベの一匹が、獲物を唐竹割りにしようと、その凶悪な巨大鋏を猛烈な勢いで振り下ろす。
バハルは逃げるどころか、新調した『グラート・シュピンネの大鎧』の分厚い肩当てと、黒鋼の大盾を正面に突き出して、その一撃を真正面から受け止めた。
ガィィィンッ!!
激しい火花が散り、鋼と鋼が打ち付けられたような衝撃音がトンネル内を激しく揺らした。
普通の人間なら両腕が粉砕され、地面にめり込むほどの重い一撃。
しかし、歴戦の龍人は一歩たりとも退かない。
それどころか、巨大蟹の方が予想外の硬さに体勢を崩した。
「へっ、この程度なら傷一つつかねぇか!」
バハルは獰猛な笑みを浮かべると、弾き返した反動をそのまま利用し、手にした『フルム・ノルニルの魔鉄斧』を真横に一閃した……斧が空気を裂く軌跡に、青白い冷気が立ち上る。
バキィィィッ!
魔力による凍結と、規格外の物理的膂力の融合。
強固なはずの青黒い甲殻は、まるで薄氷のように容易く砕け散り、魔獣の上半身は完全に粉砕されて吹き飛んだ。
「アルベローゼ!トンネル内の湿気を利用しろ!」
「言われなくても分かってるよ!」
バハルが暴れる後方から、ディオンの言葉がアルベローゼに飛ぶ。
アルベローゼはすでに軽やかに跳躍し、馬車の屋根に降り立つと、愛用の『黒魔樫の弓』をギリィッと限界まで引き絞っていた。
彼女の両腕を包む『ネーベル・ヴィスペ』の手甲が、淡い光を放って彼女の魔力を自然のままに増幅させる。
番えられたのは、ジグザグの意匠が施された『魔雷の矢』。
ビュッ! と空気を裂いて放たれた矢は、迫り来る群れの先頭の魔獣の眉間へと正確に突き刺さった。
バチンッ!!
激しい放電音が鳴り響く。
だが、今回の魔法効果はそれだけでは終わらなかった。
トンネル内に充満する重い湿気と、通気穴から吹き込む塩分を含んだ海水を完璧な導線とし、さらに壁面に埋め込まれていた「雷属性を含む天然の魔力結晶」が、矢の魔力に共鳴して即座に連鎖反応を起こしたのだ。
バリバリバリィィィッ!!
青白い閃光が、まるで意思を持った蛇のように群れ全体へと伝播して弾け飛ぶ。
天然の地形と環境を味方につけた雷撃により、分厚い甲殻を通して神経を焼かれた魔獣の群れは、完全に麻痺し、その場に釘付けになった。
「一気に減らす!」
敵が硬直したその刹那の隙を突き、ディオンが滑るように群れの懐へと入り込む。
彼の手にある魔剣ヘルグリムの刀身が、青白い純粋魔力の光を纏い、ヴィィィンと低い風切り音を立てた。
「――《マギ・アンベル・ヴェルン(純魔力・刀身増幅)》!!」
亡き父から受け継いだ、美しく流麗な古代エルフの魔剣術。
ディオンの銀の閃光が、雷撃を浴びて強度が落ちた甲殻の関節部を、まるで濡れた紙を裂くかのように次々と滑らかに切り裂いていく。
「《ルーメン・ストラール(聖光線)》!」
ディオンの死角から襲いかかろうとした別の一匹の顔面を、凄まじい光量の浄化光線が直撃した。
後方で構えるライナスが放った神聖魔法だ。
希少金属ミスリルが編み込まれた『聖星のローブ』の恩恵を受け、彼は中級術式を無詠唱に近い速度で連射していた。
暗闇の環境に特化していたメーア・クラーベたちの複眼は、強烈な聖なる光に焼かれ、ギィャァァァッ!と鼓膜を劈くような悲鳴を上げてのけぞる。
完璧な連携。
そして、エリカが少し小高い岩肌へと駆け上がる。
彼女は氷のように滑らかな『雹雪木の杖』を高く掲げた。
先端に鎮座する蒼い輝石に、極寒の魔力が急速に練り上げられていく。
「これで終わりよ……!」
魔法を行使すれば、必然的に湧き上がる悪霊の底知れぬ殺意。
しかし今、彼女が身に纏う『月光石のローブ』が放つ淡い真珠色の波動が、胸の奥で暴れようとする泥のような衝動を、優しく、けれど力強く押さえ込んでくれている。
仲間の想いが詰まったこのローブがあれば、もう恐れることなく魔力を解放できるはずだった。
「《フリョーズ・スプレング(氷・爆裂)》!!」
エリカの凛とした詠唱が響き渡る。
直後、トンネル内の大気が急激に凍りつき、絶対零度の嵐が猛烈な勢いで吹き荒れた。
極寒のブリザードは、残っていた魔獣の群れを瞬時にして美しい氷像へと変貌させ……次の瞬間、パリンッ! と硬質な音を立てて、それらを粉々に打ち砕いた。
氷の粒子がダイヤモンドのように光を反射しながら、トンネルの床へと降り注ぐ。
静寂が戻った回廊の中には、海風の音と、微かに乱れたエリカの息遣いだけが残されていた。
誰一人欠けることのない、圧巻の勝利。
だが、誰も気がついていなかった。
月光石のローブの胸元。
そこに縫い付けられた美しい月光石の輝きの中に、不吉な『黒い染み』が差していることに。
エリカを蝕む強大な呪いの闇は、どれほど高額で清らかな月光石の力をもってしても、完璧に封じ切れるものではなかったのだ。
エリカは杖を下ろし、己の胸に手を当てる。
――殺意が、湧かない。
いつもなら、第三位階の戦術魔法を行使すれば、脳髄を泥のように侵食してくるはずの「殺せ」という悍ましい衝動。
それが今、『月光石のローブ』が放つ真珠色の温かな波動によって、分厚い壁の向こう側へと押し留められている。
(……すごい。私の心が、私のものでいられる……!)
エリカの瞳に、歓喜と安堵の涙が滲んだ。
仲間たちの優しさと、この武具があれば、きっと王都まで辿り着ける。
そう確信できる戦いだった。
凄まじい奇襲を退け、一行は再び揺れる馬車の中へと戻った。
相乗りとなった戦闘員用馬車の車内。
「こんだけ馬車の往来が多けりゃ、魔物もそう簡単には寄ってこないでしょ」
アルベローゼは弓を軽く叩いて不敵に笑ってみせたが、その視線は、向かいの席に座るディオンの「隣」に釘付けになっていた。
ディオンのすぐ隣には、フェルゼン・ハフトから偶然乗り合わせた、見知らぬ女戦士が座っている。
しかも彼女は、その身体を布面積の少ない露出の多い軽装で包んでいる。
あろうことか、馬車の揺れに合わせて居眠りを始め、その美しい顔をディオンの肩へと無防備に預けていたのである。
豊かな胸が、ディオンの腕にこれでもかと押し付けられていた。
(……ちょっと、何よあれ。そんな恰好でまともに戦えるわけ?それに、そんなにくっつかなくたって……!)
アルベローゼは、イライラするのを感じながら、面白くなさそうに視線を逸らした。
小柄で胸も他種族ほどの大きさにならないエルフである自分(一・四八ガルイ)とは対極にある、圧倒的なプロポーション。
ディオンの肩を枕にしている見知らぬ女に、心がざわついて仕方がない。
だが、当のディオンはというと、肩にのしかかる女の重みや柔らかな感触にすら無頓着な様子で、切れ長の赤い瞳を細め、ひたすら窓の外の暗がりを警戒している。
(……本当に、ディオンはこういう時にも、顔だけは格好いいんだから。……そこ!そのディオンの肩は私の場所なのに……)
自分にだけ向けてほしいその端正な横顔が、無神経な女戦士の至近距離にあることがどうしても癪で、アルベローゼはプクッと頬を膨らませながら、わざとらしく窓の外へと目を向けるのだった。




