第32話 煉獄を語り尽くした果てに
故郷アイナル村に戻ったエリカは、かつて自分が教えを請うた、大好きだったイゾルデ先生の跡を継ぎ、村の子供たちの教師となった。
「明日から、よろしくお願いしますね」
小さな木製の机が並ぶ、陽の当たるのどかな教室。
鼓膜を破るような魔導発動の轟音も、ヴィルヘルの悍ましい断末魔も、吐き気を催す鉄錆のような血の匂いも、ここにはない。
子供たちに文字や魔導の基礎を教えるだけなら、高度な魔法を使う必要はない。
己の極限の魔力を練り上げることさえしなければ、体内の悪霊も、あの狂気に満ちた殺意も芽生えないはずだ。
(ここなら……あの恐ろしい夢を見ずに済むかしら。純粋な子供たちの笑顔に囲まれていれば、私の中の悪霊も、静かに眠りについてくれる……?)
エリカは、かつての恩師が座っていた古い椅子に深く腰掛け、そっと目を閉じた。
窓から差し込む柔らかな春の光が、彼女の冷え切った体を温かく包み込む。
平和な故郷……もう誰も傷つけなくていい、安息の場所。
しかし、エリカの甘い考えは一瞬にして恐怖に塗り潰された。
「先生っ!」
背後から一人の男の子が無邪気に抱きついてきた瞬間、エリカの脳裏に、どす黒く粘り気のある衝動がねっとりと這い上がったのだ。
(この、細くて無防備な首を……強く締め上げれば、どんなに甘美な悲鳴を――)
「……っ!!」
ハッと息を呑み、エリカは弾かれたように立ち上がり、椅子をなぎ倒して壁際まで後ずさった。
肩で激しく息をする彼女の右手は、無意識の内に、もう腰には帯びていないはずの漆黒のサーベルの冷たい柄の感触を求めて、虚空を恐ろしいほど正確になぞっていた。
「エリカせん、せい……?」
怯えたように見上げてくる子供の顔が、いつか見た血まみれの死体に重なって歪む。
冷や汗が背中を伝った。
悪霊は眠ってなどいない。
平穏な空気を吸い込むたび、常に彼女の理性の裏側で、愛する者の血肉を求めて蠢いているのだ。
エリカは己の震える右手を左手で強く握り締め、絶望的な恐怖の中で唇を噛んだ。
内なる怪物に怯える日々を過ごす中、エリカは村の中で一つの不穏な気配を感じ取っていた。
同じ宿命を背負う幼馴染、ディオンだ。
彼が村長の家から出てくる姿を、夕暮れの窓越しに偶然見かけたのだ。
真新しい旅装束に身を包んだその背中と、切れ長の瞳には、故郷への未練を完全に断ち切ったような、悲壮で重い決意が宿っていた。
(ディオン……まさか、一人で村を出るつもり?)
直感的に理解した。
彼は、両親の死の元凶であり、自分たちを蝕む『悪霊』の謎を解き明かすため、どこかへたった一人で向かおうとしているのだ。
エリカの胸の奥で、ドクンと心臓が痛いほどに跳ねた。
自分は恐怖から逃げ、この村の安息に縋ろうとしたというのに……ディオンは逃げずに、自ら調べようとしている。
――なぜ自分は、彼のように戦おうと思えなかったのか。
激しい自責の念が胸を焼く……同時に、底に眠っていた闘志が静かに火を噴いた。
同じ呪いに苦しむ彼を、危険なヴィルヘルが闊歩する外の世界へ一人で向かわせるわけにはいかない。
特務魔導中隊長として幾多の死線を潜り抜けた自分が、彼を守らずして、一体何のための力だというのか。
(怯えている場合じゃない。あの子を……私が守らなきゃ)
エリカは右手を強く握り込み、自らの意志で顔を上げた。
その瞳に宿るのは、かつて特務部隊で見せていた氷のように冷たい軍人の目ではない。
その目に宿るのは、愛する者を守るために戦う気高き特務中隊長の強い光だった。
村で一番の賑わいを見せる酒場『琥珀の蹄亭』は、ねっとりとした濃厚なエールの香りと、焦げた肉の脂の匂いが充満していた。
その薄暗い喧騒の片隅で、ディオンは一人、分厚い木のテーブルに置かれた安酒のグラスをじっと見つめていた。
ディオン・ゼーレドルフ――十八歳。
銀がかかった蒼髪の間から覗く切れ長の赤い瞳には、青年期を迎えたばかりの年齢に似かわしくない、深い影が落ちている。
彼の体躯は一見すると細身だが、亡き父ガリアスに厳しく鍛え上げられ、引き絞られた強靭なバネのようにしなやかな筋肉を秘めていた。
エリカは離れた席でフードを被りながら、ディオンの様子を見ていた。
明日、彼は夜明けと共にこの住み慣れた土地を捨てる……両親の死の元凶であり、幼馴染であるエリカを内側から蝕む『悪霊』の謎を解き明かすため、一人で聖都を目指すのだ。
ディオンには親友がいる。
バハル・ストルツ・ガング。
アイナル村を含む魔法聖国エルディア・ルーン北東部のみにひっそりと暮らす『ドルーグ・ザ・ハル』――別名、龍人と呼ばれる少数部族の男である。
彼らは古代龍の血を色濃く継ぐとされ、人間のそれを遥かに凌駕する圧倒的な膂力を持つ。
そして今夜――「ディオンが一人で村を去ろうとしている」という噂が、風に乗ってバハルの耳に届いた。
彼は太い鼻を鳴らし、一族に代々伝わる重厚な大楯と愛用の斧を背負うと、迷うことなく家を飛び出した。
「あいつめ、また一人で抱え込みやがって……。エリカが苦しんでるのが気になるんだろ? 俺にぐらい声をかけろってんだ」
「……一人で飲む安酒は、毒より回るのが早いぜ、ディオン」
酒場で一人、グラスと対話していたディオンの背後から、地響きのような野太い声が降ってきた。
振り返る間もなく、きしむような音を立てて隣の席に巨大な影がどっかと腰を下ろす。ランタンの灯りに照らされ、首筋の龍の鱗が鈍く光った……バハルだ。
ディオンと同い年でありながら、その身長はすでに二・四五ガルイにも達している。
筋骨逞しいその巨躯は、ただ座っているだけでも周囲の空気を圧迫するほどの迫力があった。
彼は注文すらしていないのに、店主から奪い取るように受け取った特大のジョッキを掲げ、豪快に笑った。
「バハル……どうしてここに」
目を丸くするディオンの肩を、丸太のような腕がバンと叩いた。
「水臭いこと言うなよ。お前が一人で抱え込んで旅に出るなんて、村中の奴が知ってるぜ。でだ……俺も行く」
バハルの目が、冗談の通じない鋭さでディオンを射抜く。
「でも、君には一族のこともあるだろう? 君の血が一族では重要なはずだ。これ以上、無理はさせられない」
「いいんだよ。鱗がある俺の親友になろうなんてバカは、お前たちくらいなもんだ。それに、俺の中の龍の血が、恩人に盾を貸せって騒いでうるさくて敵わねえんだよ。がはは!」
バハルの豪快な笑い声が、酒場の空気をビリビリと震わせた。
「俺が忠誠を誓うのはお前だ……ディオン」
続く呟きは小さく……しかしながら、岩盤のように重く響いた。
その迷いのない瞳に、ディオンは小さく息を吐き、やがて諦めたように「分かった。頼むよ、バハル」と、微かに微笑んで頷いた。
「……なぁ、ディオン。確かにお前は、親父さんから教わった古代エルフ言語魔法の魔導剣術を身につけてる。街道筋に出るような普通のヴィルヘルが相手なら、それでどうにか戦えるだろうさ」
バハルは地を這うような低い声で言葉を継いだ。
「だが、お前の魔法はあくまで『剣の間合い』だ。遠くから魔法や遠隔攻撃を撃ち込んでくるヤツも居るし、見上げるような大型のヴィルヘルだっていやがるんだぞ? それにだ……物理攻撃が通じず魔法しか効かねえ奴、炎や氷の特定属性を突かなきゃ絶対に倒せねえ奴……。深い洞窟を抜けるなら、頭上を支える落盤防止の魔法がなきゃ、俺たちは一発で生き埋めだ」
バハルは魔法が一切使えない。
簡単な初級魔法であれば、その圧倒的な腕力でぶん殴って物理的に消し飛ばすという荒業ができるものの、戦術的柔軟性には当然限度がある。
「俺のこの大楯で、正面からの攻撃は防いでも、上空から急降下してくる群れに囲まれたら、俺たちの『手』は絶対に届かねえ。手持ちの武器でも投げて応戦するか? あと、夜には心霊系のヴィルヘルが出る。どうする? 俺の斧じゃ、あんな実体のねぇ幽霊どもは斬れねぇぞ」
バハルの言葉一つ一つが、冷水を浴びせるように残酷な戦場の現実を突きつけてくる。
薄暗い酒場の喧騒の中で、二人の周囲だけがひどく冷え込んでいくようだった。
「深い傷を負ったら、そこでおしまいだ。俺たち二人に、癒やしの術は使えねぇ。空飛ぶやつが相手なら、アルベローゼがいればあの弓で確実に対空攻撃出来るんだがな……。だが、あんなに一族から大事にされてる女の子を、閉鎖的なエルフ族が旅に出るなんて許すか……? かといって、ライナス兄さんやエリカ姉はこの村の防衛の要だ。俺たちの勝手な都合で連れていけるはずもねぇんだよ」
沈黙が降りたテーブルで、ディオンは自身の腰のポーチにそっと手を触れ、ぽつりとこぼした。
「……薬草を、三つ買ったんだ」
自然の回復魔力を内包する薬草。
それを三つ用意したというディオンの絞り出すような言葉に、バハルは大きなため息をつき、やがて太い鼻を鳴らして笑い飛ばした。
「がはは! なぁ、ディオン。聖都までは三百ライン(三百キロメートル)だぜ? 薬草三個で足りると思ってんのか? いいか、ヴィルヘルの爪や牙には腐肉や泥がこびりついてて、汚ねぇんだぜ。薬草の力で表面の傷口だけ塞がっても、体内に残った菌や化膿を抑える消毒はどうする? それによぅ……毒や、血肉を腐らせる魔傷、厄介な魔毒にかかったら、ただの薬草じゃ効かねぇ。そもそも、この近辺には自生してねぇからな……。村じゃただでさえ貴重な薬草だ。これ以上、買い占めるわけにもいかねぇんだろ?」
ディオンは反論の言葉を見つけられず、グラスの底に僅かに残った安酒を見つめたまま、ただ重く押し黙るしかなかった。
鉄と革とドワーフの街フェルゼン・ハフトの宿屋――『鋼の髭』の一室では、話し終えたエリカがクスクスと笑い始めた。
「私はこのディオンとバハルの会話を盗み聞きした時、可笑しくてたまらなかったわ……300ライン(キロメートル)の旅に出るのに薬草三つってなに?それで、心の中で『私も行くからね』って呟いてたの……」
「……これが、私の物語。長くなっちゃったわね」
石造りの暖炉で、パチパチと薪が爆ぜる音が薄暗い部屋に響く。
エリカはぽつりと呟いた。
「……聞いてくれて、ありがとう」
膝の上で固く組まれた彼女の白い手は、心の奥底に封じ込めていた凄惨な記憶を曝け出した疲労と、それを最後まで逃げずに受け止めてもらった安堵で微かに震えていた。
赤々と揺らめく炎の光が、どこか透き通るような、それでいて深い哀しみを湛えた彼女の横顔を優しく照らし出している。
部屋を包み込むのは、重苦しくも温かい、奇妙な静寂だった。
その言葉の余韻を切り裂くように、うつむいていたライナスが顔を上げた。
「気になることは沢山ありましたよ、エリカ」
彼の声は、ひどく静かだった。
しかし、その底には恐ろしいほどの熱と、行き場のない激情がマグマのように渦巻いている。
エリカが視線を落とすと、膝の上に置かれたライナスの両手は、爪が手のひらに深く食い込むほど強く握り締められていた。
指の隙間からは、ツーッと赤い血が滲み出し、彼のくたびれたローブに暗い染みを作っている。
愛する幼馴染が、たった一人でどれほどの地獄を歩み、どれほどの血と罪悪感に塗れてきたのか……その時、自分は何も知らず、彼女を守れなかったという己への凄まじい怒り。
「あなたの人生を、これ以上、この悪霊の好きには絶対にさせない……」
それは単なる慰めなどではない……ライナスは己の全てを懸け、この悪霊の謎を解くという誓いの言葉だった。
その隣で、腕を組んで暖炉の火を見つめていたディオンも静かに、けれど力強く頷いた。
あの漆黒の新月の夜、エリカと共に我を忘れ、優しかった父ガリアスを喪った。
同じ絶望の底を這いずり回った彼だからこそ、エリカの抱える底知れぬ恐怖と罪悪感が痛いほど理解できた。
「父さんたちは、僕たちの内にいるそれを『魔王』と呼んだ。そして、このしがない村の住人であるはずのゼーレドルフ家とヴァイン家を『貴族』とも呼んでいた」
ディオンは顔を上げ、理知的な光を宿した瞳で真っ直ぐにエリカを見つめ返した。
「その意味……ただの田舎の悪霊が何者なのか。あの時、父さんが命を賭して使ったあの『古代エルフ言語魔法』とは何なのか。僕に伝承した剣術もそうだ。……きっと、『聖図書館』で、とんでもない秘密がわかるはずだ」
彼の瞳には、呪われた運命にただ翻弄されるのではなく、自らの足で歩み、自らの手で真実を掴み取ろうとする、確かな覚悟の光が宿っていた。
「ふふん……忘れてない?」
重く沈みかけた空気を意図的に払拭するように、アルベローゼがわざとらしく鼻を鳴らした。
エルフの少女である彼女は、尖った耳を少しだけピクリと動かし、腕を組んでそっぽを向いている。
しかし、その勝ち気な態度の裏側には、隠しきれない悲哀と痛みが滲んでいた。
「私の両親も、その『封印』とかいうやつのせいで死んでるんだからね……。これは、あんたたちだけの戦いじゃないってこと、ちゃんと覚えておきなさいよ。私だって当事者なんだから」
それは、彼女なりの不器用極まりない共感であり、同じ傷を持つ者として共に戦い抜くという、何よりも心強い意志表示であった。
「俺はただ、お前らの敵を、この大楯で受け切るだけだぜ」
部屋の隅で、分厚い壁に背を預けていた大柄な龍人の戦士――バハルが、照れくさそうに頭を掻きながら口を開いた。
彼の傍らには、幾多の戦いをくぐり抜けてきた無骨で巨大な金属の盾が立てかけられている。
「エリカ、辛い時は一人で抱え込まずに言えよ。……ディオンもだな。俺は、なんつーかな。エリカやライナスみたいに頭も回らねぇし、気の利いたことも、うまく言えねぇけどよ……」
バハルは大きな鼻を鳴らし、優しく、力強い笑みを浮かべた。
「俺は、お前らを助けたいんだよ。どんな化け物が相手だろうと、俺の楯が全部受けてやるぜ」
無骨で不器用な……しかし何よりも温かい言葉。
使い込まれたその大楯の重みと同じくらい、彼の言葉には、仲間を絶対に守り抜くという揺るぎない安心感があった。
パチッ、と暖炉の薪が再び大きく爆ぜた。
その温かな音と、四人の仲間たちが向けてくれる真っ直ぐな想いに触れ、エリカの瞳から、堪えきれずに一粒の涙が零れ落ちた。
自分はバケモノだと思っていた。
いつか大切な人たちを傷つけてしまうかもしれない、呪われた存在だと……。
だからこそ軍を辞めて、最後は孤独な教師として、故郷で静かに心を殺して生きていくしかないのだと諦めていた。
だが、今は違う。
共に怒ってくれる者がいる。
共に真実を追い求めようとする者がいる。
不器用に背中を押してくれる者がいる。
命を懸けて盾になると笑ってくれる者がいる。
「……ありがとう。みんな」
エリカは涙を拭って、柔らかく微笑んだ。
窓の外では、分厚い雲の隙間から、一筋の月明かりが差し込もうとしていた。
悪霊の因縁、一族の歴史……そして古代エルフの秘術。
すべての謎が眠るという『聖図書館』へ向けて――五人の気持ちは、確かに一つになっていた。




