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第31話 真紅と漆黒

 王立魔導師団入団試験を伝説的な記録で首席合格したエリカ・ヴァイン。

 しかし、栄光の扉をくぐった彼女に、かつての明るく優しい少女の面影は微塵も残っていなかった。

 あの日――漆黒の新月の夜。

 自らの内に巣食う怪物が、幼馴染のディオンの未来を狂わせ、その父ガリアスの命と魂を無残に食い尽くした。


 自分は、許されざる存在だ。

 銀色を帯びた美しい金髪を隙なく結い上げた彼女の瞳は、底知れぬほど冷たい。

 それは一人の人間としてではなく、感情を完全に殺し、兵器として完成された者の凄絶な色を湛えていた。


 入団後、エリカに命じられた初任務は、訓練新兵からなる一小隊を率いる「訓練少尉小隊長」の職であった。

 配属された部下たちは、輝かしい魔導学園卒のエリカとは異なり、訓練魔導兵の立場にある者たちだ。

 年上の部下六人を配下に収めた彼女は、誰よりも容赦のない厳格さと、理不尽とすら言える圧倒的な実力を誇る指揮官として、訓練所にその異名を轟かせることとなる。


 軍隊の規律は鉄の如く重く、冷たい。

 一人のミスは全員の連帯責任。

 厳しい罰則が下されるたび、エリカは小隊の先頭に立ち、誰よりも過酷な罰訓練に自ら身を投じた。

「全員、姿勢を正せ。……魔力腕立て伏せ、二百回開始!」

 訓練場に土埃が舞う……拳を物理的に着地させず、魔力によって地面からわずか三ミロ(三センチ)の空中に浮かせて体重を支えるこの訓練は、極度の筋力だけでなく、精密な魔力制御と強靭な精神力を要求する地獄のメニューだ。


 部下たちが悲鳴を上げ、滴る汗が石畳に黒い染みを作っていく中、エリカの表情は一切崩れない。

(これを耐え抜くたび、私の精神は研ぎ澄まされる。この肉体の苦痛だけが……私の中の『怪物』を眠らせる力になるのなら――)


 自らを罰するように、エリカは黙々と魔力を練り続けた。

 その過酷な訓練期間を終え、エリカは卓越した功績により、女王直轄魔導師団『対ヴィルヘル対策大隊』へと異例の配属を果たす。

 

 そこは人類の天敵である魔物……ヴィルヘルの大発生を食い止め、大型個体を狩るための死と隣り合わせの精鋭集団であった。

 しかし、栄光の配属からわずか半エイン(半年)後。

 聖都の酒場や魔導師団の談話室で、奇妙で不穏な噂が囁かれ始めた。


「おい、あの天才少女、エリカ・ヴァインはどこへ消えた?」

「……軍にはもういないらしい。部隊の編成表からも名前が消えているそうだ」


 エリカの姿を、かつて共に罰を受けた同期たちも、二度と見ることはなかった。

 軍籍名簿の彼女の項目には、重厚な最高機密の封印魔法が施され、「閲覧不可」の冷酷な四文字が並ぶのみ。


 歴史的な首席卒業生は、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、国家の深淵へと完全に秘匿されていったのである。


 それから半エイン後。

 王立魔導学園を卒業し、期待と不安を胸に女王直轄魔導師団へ入団を果たしていたセレナとファミール。

 二人は一エイン(一年)間の新兵訓練の傍ら、藁にもすがるような思いでエリカの痕跡を探していた。

「あの……エリカ・ヴァインを探しているんです。半エイン(半年)前に入隊したはずの……」

 しかし、担当士官は書類から顔を上げることすらなく、氷のように無機質な声で答えた。


「該当する個人の在籍、安否、所属に関する一切の回答は職務権限外となる。……二等魔導兵。貴官らに今許されているのは、回れ右をしてこの場を直ちに立ち去ることだけだ。それ以上の質問は軍規違反とみなす」


 背筋が凍るような冷遇。

 卒業前、エリカが漂わせていたあの奇妙な静けさと距離感。

 それが、この巨大な軍組織の中に彼女を完全に隠蔽してしまったのだと悟り、二人は立ち尽くすしかなかった。

 規格外の天才であるエリカは、通常の一エインに及ぶ新兵訓練とは全く違う、過酷で孤独な裏の道を歩まされていたのだ。


 それでも、二人は決して諦めなかった。

 血を吐くような新兵訓練を耐え抜き、入隊から一エイン経とうとしているある日……ついに最終訓練を迎える。


 過酷な訓練の最後を飾るのは、峻険な山岳地帯の隠密踏破。


 想定はこうだ。

 『山岳地帯でヴィルヘルの活動が活発化。当該地域を巡回中の騎士団二個中隊十五名が、定時から二十クロス(二十時間)を過ぎても帰隊しない事から、ヴィルヘルによる襲撃事案と断定。夜間に魔導師団一個中隊で山を越え、目標地点へ急行せよ』。


 極寒の山脈での、死と隣り合わせの実戦形式演習である。

 前夜の駐屯地……凍てつく風の中、焚き火の爆ぜる音だけが響く暗闇で、セレナとファミールは身を寄せ合い、声を潜めて語り合った。

「……ファミール。あの子、本当にこの恐ろしい場所にいるのかしら」


「いるわ。……学園で、あんなに寂しそうに『先に行く』って言ったあの子が、途中で投げ出すはずがないもの」

 ファミールは眼鏡の奥の瞳に強い光を宿し、セレナの手を固く握った。

「明日の訓練、何があっても食らいつきましょう。配属先さえ決まれば、いつか必ずあの子に辿り着けるわ」

 その希望だけが、凍える夜を耐え抜く唯一の灯火だった。


 翌朝、朝靄に沈む駐屯地の広場。

 冷徹な空気を切り裂くように、硬いブーツの足音が響き、一人の士官が静かに壇上へと上がった。

 身に纏うのは、血の匂いを染み込ませたような漆黒の軍服とプリーツスカート。

 腰には無骨な漆黒のサーベルを帯び、肩には参謀本部直轄を示す金色の飾緒が冷たく輝いている。


「本日の訓練を統括する。参謀本部直轄特務魔導小隊長――エリカ・ヴァイン魔導准尉である」

 その声を聞いた瞬間、セレナとファミールの心臓が激しく跳ね上がった。

 そこにいたのは、わずか十八歳という若さで特務部隊の一隊を率いる、完璧に完成された「軍人」だった。


 かつての柔らかい雰囲気は欠片もなく、冷酷にまとめられた髪の下の瞳には、慈しみも迷いも一切ない。

 それは、絶え間なく襲いかかるヴィルヘルの群れと、自分自身の内なる怪物をねじ伏せ、殺戮の荒野を生き抜いてきた者だけが纏う、狂気すら孕んだ圧倒的な威圧感であった。


 エリカだ……間違いない。

 セレナが思わず弾かれたように一歩前に出ようとしたが、エリカの放つ絶対零度の眼光に射すくめられ、足が縫い付けられたように動かなくなった。


 エリカが、親友二人の存在に気づいていないはずがない。

 だが、彼女は一度として二人と視線を合わせることはなかった。

 それどころか、まるで血の通わない石像に語りかけるかのような事務的な声で、過酷な状況説明を続ける。

「訓練中の死傷は自己責任と心得よ。私の指示は絶対だ。隠密が破られ、ヴィルヘルに捕捉された場合、救出は一切行わない。……貴官らに与えられるのは、作戦完遂か、さもなくば脱落の二択のみだ」


 親友としての面影を完璧に排した、厳しすぎる断罪のような口調。

「準備にかかれ。三十クロム(三十秒)後に出発する。訓練小隊長、時間になったら点呼を済ませ即出発しろ。遅れた者は、この場で除隊だ」


 エリカは一度も振り返ることなく、黒いマントを翻す音だけを残して去っていく。

 その遠ざかる小さな背中に向かって、セレナとファミールは涙を堪え、無言で、けれど誰よりも美しい敬礼を捧げた。


 あの子が独りで耐えてきた一エインの凄絶な「重み」を、その氷のような沈黙の中に痛いほど感じ取りながら、二人は決死の覚悟で泥濘へと足を踏み出した。


 二人は過酷な訓練を見事に突破し、聖都を守護する治安維持大隊へと配属され、異例の速さで一等魔導巡士へと昇進を果たした。

「まったく、君たちは本当に『事件を呼ぶ』ね」

 先輩士官たちが苦笑するのも無理はない。

 死霊術師による大規模な禁術行使の阻止、ヴィルヘル討伐十五件、さらには連続魔法侵入強盗の現行犯逮捕まで。


 彼女たちがわずか一年で解決した事案は、新人としては破格の数であった。

 指導期間を終え、公式にバディとなった二人の絆は、もはや親友という言葉すら超えた、魂の片割れのような強固なものとなっていた。


 ある日の午後、駐屯地の空気が一変した。

 いつもは余裕のある治安維持の第二中隊長が、顔を真っ青にして直立不動で震えている。


 その視線の先にいたのは、漆黒のマントを纏い、周囲の空気を歪ませるほどの圧倒的な魔力を気配に忍ばせている魔導師――エリカだった。

 階級章を見ると中尉に昇進している。


「……エリカ?」

 セレナが声をかけようとして、その息が詰まるほどの威圧感に思わず言葉を呑んだ。


 参謀本部の直命のみで動き、通常部隊では手に負えない「最悪の事案」のみを秘密裏に処理する特務中隊の長。

 若くして軍の深淵を背負う、孤高の特務将校がそこにいた。


 冷たい瞳のまま、エリカが軍人としての事務的な口を開く。

「セレナ・ランバルト・フォン・シュトラハヴィッツ一等魔導巡士、ファミール・ベルンシュタイン・フォン・エーデルガルト一等魔導巡士。こちらへ来たまえ」

 そしてエリカは、傍らで硬直する中隊長(中尉)を冷徹に見据えた。

「中尉。別室を借りるぞ」

「も、もちろんであります、特務中尉殿!」


 階級は同じ中尉であるはずなのに、中隊長は震える声で最敬礼を返した。

 その異様な光景が、エリカの持つ絶対的な権限と、特務という立場の恐ろしさを如実に物語っていた。


 人目を避けた別室。

 分厚い扉が閉まり、防音の結界が張られた瞬間、エリカの纏っていた氷の空気がふっと緩み、三人はようやくかつての距離に戻った。


「……ごめんね。あんな態度を取ってしまって。外では、こう振る舞うしかないの」

 エリカが困ったように眉を下げて見せた笑顔に、二人は安堵の息を吐き、強く彼女を抱きしめた。

 ああ、間違いない。自分たちの知っている、優しくて不器用なエリカだ。


 しかし、学園を出てからの経歴や、特務部隊での任務について問うと、彼女は頑なに口を閉ざして微笑むだけだった。

「ねえ、エリカ。今度の休暇、また一緒に街でデザートを食べましょう?私の実家でお泊まり会もしなきゃ!」


 セレナの無邪気な誘いに、エリカは一瞬、ひどく寂しげに目を伏せ、「……ええ。楽しみにしているわ」と力なく頷いた。

 けれど、その至近距離で二人ははっきりと見てしまった。


 穏やかな微笑みの奥底で、悍ましくも恐ろしい、どす黒い「炎」が渦巻いているのを。

(……きっと、もう以前のように遊べることはない。エリカ、あなたは今、どんな地獄の淵に立っているの?)

 ファミールは唇を噛み締め、何も言えずにただエリカの冷たくなった手を握ることしかできなかった。


 駐屯地を去る馬車の中。

 エリカは一人、黒い革手袋に包まれた震える両手を見つめていた。

(ごめんね。セレナ、ファミール。誰よりも大好きな二人……)


 彼女は今、人類の天敵ヴィルヘルを屠る最前線で、毎日のように血の雨を浴びている。

 しかし、その凄まじい暴力を行使すればするほど、自分の中の悪霊の残滓――「闇」が膨れ上がり、理性を侵食していくのを止めることができなかった。

(知っている?二人とも。私は夜な夜な、おぞましい夢を見るの。あなたたちの白い首筋を噛みちぎり、あなた達の温かい腹部をえぐり取る夢を。そして……夢の中の私は、愛するあなたたちを壊すその残虐な行為に、吐き気がするほどの『快楽』を得ているのよ……っ)


 かつて愛した人々の命を奪う想像に、魂が歓喜してしまうという究極の絶望。

 自分はもう、人を守るべき魔導師ではなく、狩るべき「ヴィルヘル」に近い邪悪な化け物に成り果てているのではないか。


「……私は、あなたたちと一緒にいてはいけない存在なのよ」

 冷たい月光が差し込む馬車の中で、エリカは愛ゆえの孤独を噛み締め、声殺して涙を流し、再び闇の中へと消えていった。


 エリカ二十歳。

 魔導師として円熟期を迎え、さらなる昇進と国家の要職も確実視されていたエリカ・ヴァインは、周囲の期待を裏切るように、突如として一通の辞表を提出した。


 書類上の理由は「父母の体調不良による看護」。


 事前に帰郷を伝えた際、実家の両親は余計なことを何も聞かなかった。

 ただ、最前線から戻り、食事中にふと視線を虚空へ彷徨わせる愛娘の瞳に宿る、隠しきれない精神の疲弊と「自らの内なる何か」への恐怖を察し、静かに深く頷いてくれた。


 彼らだけは、エリカが背負わされた呪いの重さと、彼女が今、限界を迎えていることを言葉にせずとも理解していたのだ。

「……本当にいいのか、ヴァイン中尉。君がいなくなれば、この特務部隊の戦力は半減する」


 上官の切実な引き止めを、エリカは静かに、けれど断固とした決意で退けた。

「戦うことはもう……十分にいたしました」

 最前線に溢れるヴィルヘルの魔気は、エリカの中にある悪霊の血を激しく刺激し、殺意を暴走させる。

 このまま血みどろの戦いを続ければ、そう遠くない未来に、自分という個の理性が完全に崩壊する。

 実家のアイナル村に戻り、静かに子供たちを教える教師として暮らそう。

 幸い、魔導学園の卒業生には教師の資格が与えられている。

 血の匂いも、漆黒のサーベルも、人を殺める術式も必要ない場所へ――エリカは自分を蝕む衝動から逃れるように、軍服を脱ぐ決意をした。


 退役を数日後に控えたある日。

 特務魔導中隊の重苦しく血生臭い駐屯所に、二人の来客があった。

 一等魔導巡士となった、セレナとファミールである。

 治安維持第一大隊の誇りである真紅の軍服「赤」を纏い、ハットには新米を表す純白の飾り羽を揺らす彼女たちが、この「黒」に塗り潰された死神の住処に足を踏み入れることが、どれほど異質で勇気のいることか。


 ――――それでも、彼女たちはやってきた。


「辞めないで、エリカ!私たち、やっと『赤』になれたのよ。必死に背中を追って、いつかまた三人で並べるって……そう信じてきたのに!」

 セレナが声を荒らげ、エリカの黒い軍服の肩を強く掴んだ。

 ファミールも、いつもは冷静な瞳を真っ赤に潤ませて訴える。

「そうよ、エリカ。あなたのいない魔導師団なんて考えられないわ。私たち、大隊駐屯地のお風呂に入りながら、次はエリカも一緒にってずっと話していたのよ……?」


 エリカは、二人のハットに揺れる、穢れを知らない純白の羽を見つめ、心を殺して静かに嘘を吐いた。

「……ごめんね。両親の体調が思わしくなくて、私が側にいてあげたいの」


「……そんな。嘘よ、エリカ……!」

 家族を想うという大義名分を盾にされれば、親友である彼女たちは、それ以上引き止める言葉を持てなかった。

(……ごめんね。私の大好きな、一番大切な親友たち)

 エリカは目を伏せた。

 二人の輝かしい「赤」が、今の自分には眩しすぎて直視できない。

 愛すれば愛するほど、その美しい喉元に指を掛けたくなる。

 その白い羽を、鮮血で真っ赤に染め上げたくなる。

 この悍ましい「闇」の性から彼女たちを守るには、もう二度と手が届かない場所へ、綺麗に消え去るしかなかった。

 

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