第30話 愛を託す
――そして、その年の冬休み。
エリカの運命を決定づけ、決して癒えることのない深い絶望を魂に刻み込んだ、残酷な里帰りの夜。
それは、空に瞬く星々の瞬きすら分厚い雲に遮られ、一切の光が地上から失われた新月の夜だった。
魔導の理において『月光の加護』が極限まで弱まる、呪われた漆黒の暗闇。
故郷アイナル村の、肺を刺すような冷たく澄んだ冬の空気が、ふいに異質なものへと変貌した。
鼻腔をひどく焼くような鉄錆の血の匂いと、周囲の空間そのものを腐らせるかのような、どす黒く粘り気のある濃密な瘴気が、村外れの森を塗り潰したのだ。
(あ……だめ、出ないで……お願い……ッ!)
エリカの体内で、これまで必死に押さえ込んできた『悪霊』が、加護の喪失という絶好の瞬間を狙い澄まし、どろりとした黒い泥となって彼女の理性を完全に食い破った。
「……ゔあ、あぁ……ッ!」
喉の奥から漏れ出たのは、もはや可憐な少女の声ではない。
地獄の底から這い出たような、おぞましい獣の呻き声だった。
同じ時、同じ宿命を背負う幼馴染のディオンもまた、暗闇の中で自らの頭をかきむしり、凄絶な咆哮を上げて発狂した。
視界が、不吉な赤黒い闇に完全に染まる。
エリカの自我が砕け散り、残されたのは眼前のすべてを引き裂き、壊し、命を奪い尽くしたいという、純粋で圧倒的な破壊と殺戮の衝動のみ。
かつて王立魔導学園で培い、数多の賢者たちに絶賛されたあの美しく緻密な魔導術式はすべて無へと消え去り、周囲の森を容赦なく吹き飛ばした。
ヴォォォォォンッ!!
エリカとディオンの口から轟くのは魔獣の如き咆哮。
しかし、暴れ狂う二人の絶望的な力の前に、真っ向から立ち塞がった者たちがいた。
村の守護騎士ガリアスと、エリカの父マルコ、母アンナである。
三人は巧みにエリカとディオンだったモノを森に誘導する。
「《メンゾ・コンティ・カルネ・ディメン(高位拘束魔法)》!!」
「《アニーマー・ストラール・ドゥルヒ(魂干渉貫通聖光閃)》!!」
アンナが放つ第四位階魔法の連射すらエリカとディオンは軽く弾く。
「エリカ!ディオン!己に打ち勝て!!」
ガリアスの怒号が、吹き荒れる吹雪と魔力の嵐を切り裂いた。
彼は大盾を構え、自我を失った二人が放つ凶悪な黒い魔力弾の一撃を、一歩も退かずに真正面からその身に受け止め続ける。
マルコの魔導剣がディオンの表皮を削り、アンナの神聖魔法が父親二人の命を繋ぐ。
「ぐっ……おおおおおッ!!」
バキリ、ガリアスの盾が砕ける音が響く……続いて骨が軋み、ひび割れ始めた。
ガリアスの屈強な肉体にいくつもの致命的な裂傷が走り、真っ白な雪の上に鮮血がどくどくと撒き散らされた。
上腕の裂傷の中に見えるのは生身の骨……肉はかろうじて繋がっている。
しかし、彼の眼差しには微塵の揺るぎも、死への恐怖もなかった。
ガリアスは知っていたのだ。
このままでは二人が完全に悪霊に呑まれ、世界を滅ぼす災厄の化身へと堕ちてしまうことを……。
そして、通常の魔術ではもはや彼らの暴走を止めることは不可能であるということも。
ガリアスはとうに己の命を諦めていた。
ガリアスの周囲に黒炎が立ち上る。
「マルコ……伝承を……宿命はゼーレドルフ公爵家からヴァイン男爵家に。封印を……頼む……ディオンはすでに伝承を終えた……頼むぞぉ……」
「ガリアス兄さん!嘘だろ、まさか『あれ』を使う気か!?ゼーレドルフ家はどうなる!!」
背後で必死に魔障壁を張っていたマルコが、ガリアスの構えを見て血相を変えて叫ぶ。
「やめてください!それを使えば、兄さんの『魂』は……!」
アンナも悲鳴のような声を上げた。
彼らが恐れるのも無理はない。
ガリアスが展開しようとしているのは、彼らの一族にのみ口伝される、あまりにも重い代償を伴う秘術だった。
「構わんッ!!妻も……セレスティナも……イゾルデも同じところへ逝った……」
ガリアスは血を吐きながらも、迷うことなく自らの心臓に近い魔導経絡を強制的に開き、新月の闇天へ向かって禁断の詠唱を放った。
「先祖ゼーレドルフよ、力を与えたまえ!我ら一族に伝わりし、古代エルフ言語魔法の奥義――!」
それは、人の体内に存在する『理外の魂』にのみ特化して干渉し、強制的に分離・結合・封印、あるいは封印の掛け替えを行う究極の禁忌。
世界を脅かす悪しき魂を捻じ伏せるための代償は、術者自身の『魂の完全なる消滅』。
輪廻の輪からも外れ、二度と転生することすら許されなくなる、絶対的な自己犠牲の魔法であった。
「《アニーマー・ディヴァル・ハーティア》!!」
カッ――――――!!!
黒炎が天をつき、一瞬で霧散する……眩いばかりの純白と黄金が混じり合った魔力の光が、新月の暗闇と赤黒い瘴気を天空から一直線に切り裂いた。
ガリアスの命……そして『魂』そのものが触媒として凄まじい勢いで吸い上げられ、複雑な幾何学模様のルーンとなって宙を舞う……そしてルーンは砕ける。
それは光のルーンの鎖となってエリカとディオンの暴れる体に巻き付き、内なる悪霊を強制的に分離・圧縮し、砕けかけた『封印殻』を再構築していく。
「エリカ!ディオン!お前たちの未来は……!!こんな暗い絶望の底で終わるものじゃない……ッ!!」
魂をすり減らし、絶叫するガリアスの背中に、マルコとアンナが涙を流してすがりつき、自身の限界を超える魔力を注ぎ込んで術式を補助した。
親としての無力さと、我が子を救いたいという祈りが、禁忌の術式をさらに強く結びつける。
「マルコォォォ!アンナァ!……後を……一族を、世界を……頼むぞぉ!!」
絶対的な力を持っていた悪霊の殺意が、ガリアスの魂の炎によって、分厚い殻の奥底へと悲鳴を上げながら無理やり押し込められていく。
そして――。
村外れの森に、凍りつくような静寂が戻ってきた。
ひんやりとした雪の感触と、焦げた肉と鉄錆の匂い。
ハッと息を呑み、深い暗闇からようやく自我を取り戻したエリカが真っ先に見上げたのは、血だまりの中央にそびえ立つ、巨大で温かな背中だった。
「……ガリアス……様?」
エリカの声が、震えて宙に溶ける。
横ではディオンも正気を取り戻し、「父さん……?」と、呆然と声を漏らしていた。
しかし、返事はない。
ガリアスは、二人の封印殻を限界まで強化し終えたその姿勢のまま、両足で大地を強く踏み締め、大盾の持ち手だけを構えた仁王立ちの姿で事切れていたのだ。
彼を守るように降り積もる雪すら、触れた瞬間にジュッと音を立てて溶けていく。
魂までも燃やし尽くしたその巨大な体からは、熱い命の残滓が白い湯気となって立ち昇っていた。
そしてその足元には、極限まで魔力を絞り尽くし、衰弱しきったマルコとアンナが、互いを庇い合うように折り重なって倒れ伏している。
自らの魂の消滅という最大の対価を支払い、二人の未来を絶望の淵から救い出した男の、あまりにも壮絶で、あまりにも気高い立ち往生。
「あ……」
エリカの小さな手が、ガリアスの血に染まった雪に触れた。
自分が無意識の内に振るった暴力。
自分が犯した、取り返しのつかない罪の重さ。
魔導に秀でたエリカはガリアスの魂が消滅したことすら察した。
優しかった守護騎士の命だけでなく、その『魂』すらも、自分の中の化け物が完全に食い殺してしまったという絶対的な事実が、エリカの心臓を鋭い氷の刃で貫いた。
「「ああ……あああぁぁぁぁッ!!」」
エリカは血塗られた雪の上に崩れ落ち、喉が裂けるほどの絶叫を響かせた。
父の死と、その意味を理解したディオンの悲痛な叫び声がそれに重なる。
冬の夜空に響き渡る二人の慟哭。
凍えるような寒さの中、頬を伝う涙だけがひどく温かく――それがさらに、彼女の心を容赦なく、千々に切り刻んでいった。
それ以降、エリカがその夜の惨劇について自ら口を開くことは二度となかった。
ガリアスが命と魂を賭して二人を人として繋ぎ止めてくれた、あの悲劇の夜。
彼女の魂に決して消えることのない深い絶望と罪悪感を刻み込んだ凄惨な出来事は、以降、ただ一言、底知れぬ悲哀と自戒を込めて――『あの日』――としか、語られなくなったのである。
そして――優しいエリカはこの日からいなくなった。
王立魔導学園の卒業式。
夕暮れの中庭は、茜色の光に染まっていた。
長く伸びた影を見つめながら、エリカは静かに微笑んだ。
その背中は誇らしげでありながら、どこかひび割れたガラスのような危うさを秘めている。
「……女王陛下を近くでお守りするために、私、先に行くね」
穏やかな笑顔で告げたその言葉は、誰にも引き止めさせない決意に満ちていた。
学園在学中は魔導師団の入団試験を受けることができない。
特例の卒業措置を終えたエリカは、魔導師団の特例試験をただ一人、他の者より十三日だけ早く受験することになっていた。
――そして、魔導師団の特別試験会場。
冷たい石造りの広大な空間に、エリカは一人で立っていた。
周囲を取り囲むのは、歴戦の猛者である高位魔導士たちだ。
「君が百年に一人の優秀な才女であることは学園から聞いている。だがな、お嬢ちゃん」
試験官の一人が、侮蔑を含んだ冷ややかな声を響かせた。
「学生の優秀さなど、命のやり取りをする本物の魔導師に比べれば児戯に等しい。……受かりたければ本気を出せ」
その瞬間だった。
エリカの脳裏を、真っ赤でドロドロとした『悪霊の殺意』が覆い尽くそうとした。
目の前の傲慢な男を、跡形もなく消し去ってしまえと、どす黒い衝動が囁く。
だが、その濁流の底で、エリカの心は決して折れなかった。
セレナの笑い声、ファミールのすました横顔、そしてレオンの不器用な優しさ。
親友たちの絶対的な信頼が、確かな『錨』となってエリカの正気を繋ぎ止めていた。
(……壊れるわけにはいかない)
あの子たちが、いつか隣に並んで歩けるようになる日まで……この怪物の手綱を放すわけにはいかないのだ。
「……ええ」
エリカは静かに息を吸い込み、冷たい視線を試験官へ向けた。
「本気で、行かせていただきます」
エリカが、細い指先を一度だけ弾く。
パチン、という小さな音が響いた直後――会場の空気が、神聖なまでの静寂に包まれた。
次の瞬間、理性の炎で極限まで磨き上げられた、白銀の魔力が炸裂した。
空間そのものが軋みを上げ、チリチリとした圧倒的な魔力の波動が嵐のように荒れ狂う。
実力者揃いであったはずの試験官たちは、一切の抵抗も許されず、その圧倒的な重圧の前に次々と膝を突いた。
試験官としての傲慢を語っていた魔導師団歴戦の猛者達は、エリカの前では何の障害にもならなかった。
「神……魔導の神か……」
舞い散る白銀の光の中、静かに佇む少女の姿に、彼らはただ言葉を失い、畏怖の念と共にひれ伏すことしかできなかった。




