第29話 我儘な王子
放課後の図書室。
古い羊皮紙とインクの匂いが漂う静寂の中、エリカは長机に並べた三通の招待状を前に、深く、ひときわ重い溜息を吐き出していた。
窓の外では、鉛色の空から細かな雪が舞い始めている。
暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが、彼女の焦燥を誤魔化すように響いていた。
「……どうしよう。セレナとファミールの誘いは、絶対に断りたくない。でも、王子様からのご招待を無碍にするなんて、そんな恐れ多いこと……」
親友たちからの可愛らしい封筒と、王家の紋章たる獅子の封蝋が押された重厚な手紙。
エリカが独り言で「王子様」への義理と友情との板挟みに頭を悩ませていると、背後からコツ、コツ、と革靴が床を叩く音が近づいてきた。
「『わがまま王子様』に困らされている顔だね、エリカ」
「……レオン様!すみません、いつからそこに?」
聞き慣れた、しかしどこか悪戯っぽい響きを含む声に、エリカは弾かれたように立ち上がった。
本人の前では決して「様」を付けずに呼んでほしいと言われているが、いざ端正な顔立ちの彼を目の前にすると、どうしても身に染み付いた敬称が口をついて出てしまう。
「君が僕の招待状をじっと見つめて、この世の終わりのような溜息をついた時からさ」
レオンは苦笑しながら、長机に視線を落とした。
「なるほど、親友二人との板挟みというわけだ。君がそれほど悲しむなら、僕が少しだけ『わがままな王子様』の特権を使わせてもらおうかな」
翌日の休み時間。
レオンはセレナとファミールを学園の応接室へ呼び出した。
王族からの直々の指名である。
重厚なマホガニーの扉を開けた二人は、極度の緊張で指先を微かに震わせていた。
「そんなに固くならないで。今日は王族ではなく学園の先輩として、少し相談があるんだ」
豪奢なソファに腰掛けたレオンは、気さくな笑みを浮かべて二人を促した。
「二人とも、エリカを冬休みに誘ってくれているね?彼女、王子様である僕の招待も断れず、かといって君たちとの約束も破りたくなくて、昨日は図書室で消えてしまいそうな顔をしていたよ」
「えっ、エリカが……?」
セレナが目を丸くすると、レオンは楽しげに目を細めた。
「そこで提案だ。僕が主催する『未成年限定の舞踏会パーティー』に、二人を僕の親友として公式に招待したい。これならエリカも悲しまずに済むし、三人で一緒に踊れるだろう?二人の親御さんへは、僕から正式な親書を送っておくよ」
放課後、薔薇庭園で待ち合わせたセレナとファミールの顔は、かつてないほど高揚し、ほんのりと朱に染まっていた。
「エリカ!聞いてちょうだい!王子様……いえ、レオン様から直接、舞踏会に招待されちゃったわ!」
「セレナ、はしゃぎすぎよ……。でもエリカ、レオン様は本当に粋な方ね。未成年だけのパーティーとはいえ、王家の舞踏会に『親友枠』で招かれるなんて前代未聞よ」
興奮冷めやらぬ二人に、エリカは目を白黒させる。
「えっ、二人ともいいの?お家のパーティーがあるんじゃ……」
「当たり前じゃない!」
エリカの心配をよそに、セレナは勢いよくまくしたてた。
「王子様主催の舞踏会よ!?お父様なんて『王子様直々の招待か!ヴァイン嬢との友情がこれほどの奇跡を起こすとは!』って、今頃泣きながら王都一番の仕立て屋にドレスを発注しているわ!」
ファミールも、知的な銀縁眼鏡を押し上げながら嬉しそうに頷く。
「家門の名誉にもなるし、何より一晩中あなたと一緒にいられる。……レオン様には、感謝してもしきれないわね」
本格的に雪の舞い始めた中、三人は肩を並べて寮に向けて歩き出した。
少し離れたところを護衛と共に歩くレオンに向けて、エリカは精一杯の勇気を出して声を張った。
「レオン様!本当にありがとうございます。私のために、あんなに手を尽くしてくださって……」
白い息を吐きながら頭を下げるエリカに、レオンは「様」が付いたことにやれやれと苦笑しながらも、満足げに肩をすくめた。
「礼には及ばないよ、エリカ。僕も、堅苦しくて退屈な舞踏会で君たちの賑やかな笑い声が聞こえる方が、主催者としてやりがいがある。……当日は、君たちが学園と同じ輝きを見せてくれることを期待しているよ」
「任せておいてくださいな!私が最高に素敵なエリカに仕立て上げるんですから、レオン様、驚いて壁の花にならないように気をつけてくださいね!」
セレナの快活な宣言に、三人の、そしてレオンの笑い声が、白く染まりゆく銀世界に溶けていった。
本人の前でも、離れた場所でも、つい「レオン様」と呼んでしまう。
そんなエリカらしい真っ直ぐな敬意に包まれながら、少女たちは特別な夜への準備を始めるのだった。
エリカの青春の時はゆっくりと幸せに流れた。
高等科Luxorの教室。
窓際の席で、春のうららかな陽射しを浴びながら、エリカはふと数年前の自分を思い出して苦笑した。
かつて、目立たないようにとわざと試験の点数を落としていた時期があった。
しかし、全学園の教師たちが束になって職員室にエリカを呼び出し、「これほど美しく正確な術式を構築する者が、なぜこの初歩的な魔力計算を間違えるのか」と、寄ってたかって詰め寄られたのだ。
「……隠すより、堂々としている方がずっと楽だったわね」
今や彼女の試験用紙は、全科目において満点以外の数字を見つける方が難しい。
成績表は、彼女の並外れた頭脳に見合った完璧な数字の羅列であった。
廊下を歩けば、下級生の女の子たちから熱烈な視線と黄色い声援が飛んでくる。
「エリカ様!今日の競技部の練習、見に行ってもいいですか!?」
エリカは『アルカナ・バースト(魔導弾撃ち合い競技)』部の絶対的エースにして、学園の永遠の生徒会副会長である。
もはや彼女を「平民」や「教師の贔屓」と揶揄する者は一人もいない。
教師陣ですら、高度な術式開発についてはエリカに意見を求め、噂では国家研究機関から何度も共同研究の打診が来ているという。
しかしエリカは「まだ学生ですから」と、柔らかく、しかし断固として首を縦に振ることはなかった。
始業式。
壇上に立つエリカが目にするのは、共に切磋琢磨してきた知った顔ばかりだ。
彼女はふと、数年前の放課後、人知れず中庭の片隅で声を殺して泣いていた日のことを思い出した。
あまりに優秀すぎる才能ゆえに、周囲から一方的に「再度の飛び級」を決められそうになっていた時。
エリカは誰にも相談できず、冷たいベンチに座り、ただ一人で「みんなと離れること」への恐怖と悲しみに耐えていた。
それを見つけたのが、レオンだった。
「何を泣いている。理由を言え」
有無を言わさぬ強い声……問い詰められても、エリカは「なんでもありません」と唇を噛み締め、頑なに首を振った。
自分のわがままで、これ以上王家の手を煩わせるようなことは、彼女の小さな平民の誇りが許さなかったからだ。
しかし、レオンは引き下がらなかった。
「君が言わないなら、僕が力ずくでその理由を突き止める。……エリカ、言え。君はどうしたんだ?イジメか?」
真っ直ぐに見つめてくる強い瞳。
逃げ場をなくし、限界まで張り詰めていた心の糸が切れ、ついに本音が溢れ出した。
「……みんなと、離れたくない。飛び級が嫌なんです……本当は……セレナとファミールと一緒に過ごしたかった。今のクラスからも……また飛び級だって言われて……また……うっうっ」
それ以降、王家が正式に「エリカ・ヴァインの教育課程は、本人の精神的成熟を最優先する」と宣言を下し、無理な飛び級の話はピタリと止まった。
それは、彼女の誇りを守りつつ、その切実な願いを叶えた、レオンの強引で不器用な、けれど何よりも優しい守護だった。
現在の放課後。
いつものサロンには、ダージリンの芳醇な香りと共に、セレナ、ファミール、そしてレオンの姿があった。
「エリカ!今年の聖誕祭こそ、私たちの別荘へ招待させてね。レオン様に邪魔されないように、もう親書は送っておいたわ!」
「セレナ、詰めが甘いわよ。私はすでにエリカの両親にも手紙を送って、外堀から埋めておいたわ」
火花を散らす二人のやり取りに、レオンが「やれやれ」と芝居がかって肩をすくめる。
「三人とも。僕がここにいることも忘れないでほしいな。……それとエリカ、もう中庭で一人で泣くような真似はするなよ」
からかうような、けれど真剣な労りを込めたその言葉に、エリカはふわりと頬を染めて微笑んだ。
「はい、レオン様。……もう、大丈夫です」
親友三人と王子の絆は、幾つもの季節を経てより深く、強固なものになっていた。
この温かな輪の中にいる限り、エリカはただの少女として心から笑っていられるのだと信じていた。
――しかし、運命は残酷だった。
エリカは、すでに十五歳という異例の若さで卒業総代に選ばれるだけの実力を有していた。
だが、「十八歳で親友たちと共に卒業したい」という強い希望により、特例として学園の教師助手を務めながら在学し、自身の卒業を延期していたのだ。
だが、その平穏な日々は、彼女自身の内側から崩れ去ろうとしていた。
魔力を練るたび、体内の奥深くで眠っていた『魔王』が、ゆっくりと泥のように重たい目を覚ます。
その冷酷で淀んだ意志は、愛する人々――セレナ、ファミール、そしてレオンへの「どす黒い殺意」となって、エリカの心に絡みついていった。
(……嫌。あんなに大好きで、大切なのに。どうして私の指先は、あの子たちの細い喉元を求めてしまうの……っ?)
夜の自室……鏡に映る自分の瞳が一瞬、血のような赤に染まるのを見て、エリカは己の腕を掻き毟った。
この恐ろしい衝動が、いつか「実行」に変わってしまうかもしれない……自分が愛する親友を傷つけることなど、絶対に耐えられない。
物理的に離れるしかない。
エリカは、自分の命よりも大切な彼女たちの未来と日常を、自分自身という脅威から守るために、最も過酷な最前線である『魔導師団』への入団を決意した。
親友たちの卒業までの数ヶ月間、エリカは少しずつ、悟られないように物理的な距離を空けていった。
一緒に放課後を過ごす時間を減らした。
特別推薦枠、魔導師団入団試験対策という名目はちょうど良かった。
けれど、接する時のエリカは、今まで以上に優しく、慈しむようだった。
「セレナ、その新しい髪飾り、とても似合っているわ。あなたの明るい髪色によく映える」
「ファミール、この難しい術式も、今のあなたならきっと使いこなせる。焦らずに頑張ってね」
それは、いつか必ず来る「触れ合えなくなる日」を予感した、痛切な惜別の愛情だった。
エリカは内なる殺意という怪物に精神を削られ、見えない所で指先を震わせながらも、最後まで彼女たちの記憶に「最高に優しいエリカ」として残りたかったのだ。




