第28話 王子と選べない選択肢
聖都ルーン・ヴィークからの長旅を終え、2頭のペガサスがアイナル村の入り口に到着すると、そこには見慣れた懐かしい顔ぶれが勢揃いしていた。
春の柔らかな日差しの中、休暇をとって里帰りしている聖都警護役騎士団のライナス――十九歳になった彼が、静かに微笑んで立っている。
「エリカ!」
ペガサスから降りたエリカの姿を見つけるなり、弾かれたように駆け寄ってきたのは七歳のディオンだった。
さらにその後ろからは、ご飯の匂いを察知したかのように顔を出す、ディオンと同い年の大柄な龍人バハルがニヤリと笑って顔を出す。
ディオンの行くところならどこへでも影のようについて回る八歳のエルフの少女、アルベローゼがひょっこりと続いている。
「おかえり、エリカ!聖都はどうだった!?すごい魔法、習ったか?」
「エリカ、背が伸びたわね!なんだか少し、聖都のレディって感じがするわ」
ディオンやアルベローゼたちが目を輝かせて駆け寄ってくる。
村の人々も畑仕事を止め、「おかえり」「よく無事に帰ってきたな」と温かく迎えてくれた。
しかし、不思議なほど王都でエリカが起こした「特例飛び級」や「襲撃事件からの生還」といった大騒ぎについては、誰一人として触れてこない。
村人たちの目には、エリカは単に「少し成績が良くて、村の誇りである賢い女の子」としてしか映っていないようだった。
エリカの両親であるマルコとアンナは、ただただ愛娘の元気な姿を強く抱きしめ、再会を心から喜んでいた。
ライナスたちの父ガリアスもまた、彼女との再会を心から喜んでいた。
その夜……ヴァイン家の夕食の席には、ライナスやディオンたちも招かれ、村の新鮮な野菜と一角猪肉を使った温かなシクチレームが振る舞われた。
エリカは身振り手振りを交えて、王立魔導学園の仕組みを家族や幼馴染たちに熱心に説明し始めた。
「あのね、学園には全部で九つの学年があって、それぞれに古代の魔導言語で特別な名前がつけられているのよ」
エリカはスプーンを置き、先生のような口調で語る。
「まずは初等科。私がいた一年生は『Syllas』。魔力の“種子”っていう意味。二年生は『Verna』で“新緑”。そして三年生が『Aethel』。世界に満ちる“大気”と共鳴する段階なの」
「へえ……響きがかっこいいね」
ディオンが感心したように相槌を打つ。
「次に中等科。一年生は『Fons』、湧き出る魔力の“泉”。二年生は『Ramos』、専門分野に分かれる“枝”。三年生は『Flumen』、知恵の“奔流”。……そして、最後が高等科よ。一年生は『Ignis』、魂の“熾火”。二年生は『Luxor』、完成された“輝き”。そして卒業の三年生が『Zenit』。空の“頂”っていう意味なのよ!」
一気に説明し終え、エリカは少し誇らしげにふんっと胸を張った。
「私は今度、一年生のSyllasから二つ飛ばして、Aethelに行くの。セレナやファミールとは学年が離れちゃうけれど、寮の部屋は一緒でいいって特例が出たのよ!二人とも、少し過保護だけど、本当に大好きな親友なの」
エリカの楽しそうで、充実した聖都での生活ぶりを聞き、ディオンやバハルも「すげえな」「聖都の学校ってすごいんだな」と目を丸くして聞き入っていた。
夜も更け、シクチレームの鍋も空になり、ディオンたちがそれぞれの家へと帰宅した後。
エリカは自室の布団に潜り込んでいたが、ふと、階下の居間から漏れ聞こえる大人たちの低い話し声に気がついた。
耳をすますと、ガリアスと両親が何やら深刻な声で語り合っている。
「……改めて思ったが、一体なんて規格外の天才なんだ、お前たちの娘は……。魔導技術開発局がエリカの成績を見てひっくり返ったという極秘の報告は、やはり真実だったわけだ」
ガリアスの、畏怖すら混じった低い声だ。
「ええ……。本当に、驚いています。私たちも、あの子があそこまでの才能を秘めていたとは……」
エリカの父、マルコが戸惑いながら応じる。
そこでガリアスが、さらに声を潜めた。
「だが、安心しろ。私の権力を使い、エリカが聖都で成し遂げた具体的な事は、この村には一切伝わらないように厳重に封じてある。村の連中は、単に『聖都の魔導学園に行っているすごい娘』という程度の認識しかない筈だ」
コトン、と酒杯をテーブルに置く音が静かに響く。
「ヴァイン家は、ゼーレドルフ家の由緒ある分家。あの子自身、一族の長い歴史でも稀に見る天才だ。……だが、魔王の残滓の影響も辛かろう。内側に『それ』を宿しているからこそ、強大な魔力に引っ張られ、これほどまでに魔法に秀でてしまう。……全く、皮肉な運命だな」
ガリアスの重い言葉に、エリカの両親は沈痛な面持ちで深く頷いた。
「しかし、魔王の意識を内包する以上は、魔法に秀でるに越したことはない。いつか必ず来る『完全なる覚醒と対峙』のためにもな。……だが、不必要な名声は絶対にいかん。あの子を表舞台に出しすぎれば、その特異性に目をつけた良からぬ者が出るかもしれぬ……大抵の事は王家が解決してくれるはずだがな」
「あの子の命を守るためには、今はまだ『無名の少し優秀な田舎の少女』でいさせてやるべきだ。それが、この田舎を離れられない我々親にできる、唯一の手助けなのだから……」
大人たちの深く暗い策略と、痛いほど重苦しい愛情を子守唄のように聞きながら、エリカは布団の中で静かに寝返りを打った。
(……貴族?魔王?……だめ、眠くてよく聞こえないや。気のせいかな?お父さんたち、何を話してるんだろう……)
微かな疑問を胸に抱きながらも、実家の安心感からか、エリカはすぐに深い眠りの底へと落ちていった。
春休みが明け、聖都での新学期。
特例飛び級――それは前代未聞の栄誉であると同時に、エリカにとって過酷な試練の始まりでもあった。
エリカの寮の机には、飛ばした『Verna(二年生)』の全課程がぎっしりと詰まった、分厚い魔導テキストの山が容赦なく積み上げられた。
「エリカ。わからないことがあれば、どの教師を捕まえて質問しても構わない。君にはその特権がある」
マルクス先生の言葉は心強かったが、毎日の新しい授業に食らいつきながら、独力で空白の一年分を埋める作業は、九歳の少女には熾烈を極めた。
放課後、セレナやファミールが「中庭でお茶にしましょう」と遊びに誘ってくれても、エリカは図書室の薄暗い隅に陣取り、インクで指を真っ黒にしながら魔法術式の補完作業に明け暮れる毎日を過ごしていた。
そして、ついに始まった『Aethel(三年生)』での初日。
重厚な扉を開け、教室に足を踏み入れると、そこには自分より頭一つ分以上背の高い、十一歳の上級生たちがずらりと並んでいた。
「……アイナル村から来ました、エリカ・ヴァインです。皆さんと早く仲良くなりたいです、よろしくお願いします!」
黒板の前で精一杯の笑顔を作り、深々と頭を下げた。
だが、返ってきたのは拍手ではなく、氷のように冷ややかな沈黙と、値踏みするような視線だった。
「平民のくせに、飛び級なんて生意気な」
「どうせ、担当のグラングラム教授に色目でも使って、小細工をしたんじゃないの?」
九歳という幼い少女が、名門貴族の子弟たちが必死の思いで一年かけて学ぶ内容を「既に理解した」と見なされ、自分たちの隣に座っている。
その事実は、プライドの高い彼らにとって、面白くないのだ。
冷ややかな視線に晒され、孤立しかけたエリカ。
しかし、そんな彼女に堂々と近づいてきた一人の少年がいた。
太陽の光を編み込んだような金色の髪をなびかせ、王者の風格を漂わせるこの国の第一王子――レオンだった。
「君が、エリカ・ヴァインか。母上……女王陛下から話は聞いているよ。君の類稀なる力は、この国の未来そのものだとね」
彼はエリカにしか聞こえない小声で、耳元でそう囁いた。
レオンは振り返り、教室中を睥睨するように響き渡る声で宣言した。
「皆、よく聞け。彼女は僕の大切な友人だ。彼女に対して礼を失した振る舞いをする者は、王族への不敬と見なし、僕が直接相手になる。……エリカ、困ったことがあれば、いつでも僕を頼るといい」
王子の毅然とした態度と圧倒的なカリスマの前に、教室内にいた上級生たちに激しい動揺が走った。あからさまな敵意は、一瞬にして鳴りを潜める。
(え?なんで女王陛下が私のことを……?)
エリカは戸惑いながらも、その温かく力強い、差し伸べられた王子の手に深く救われた思いだった。
激動の一学期が終わりに近づく頃。
廊下に張り出されたAethel(三年生)の成績掲示板。
そこに記されたエリカの順位は、学年の真ん中より少し下という、極めて目立たない凡庸な位置に綺麗に収まっていた。
「ちょっとエリカ。本当にこの点数でいいの?」
親友のファミールが、廊下に掲示された成績表を見るとジト目で詰め寄ってきた。
エリカは困ったように眉を下げ、えへへと笑いながら答える。
「……あんまり目立ちすぎると、実家のお父さんやガリアス様たちが心配するし。それに、クラスの上級生のみんなとも、これくらい少し抜けている方が、警戒されずに話しやすいかなって思って」
実際には、エリカは飛ばした二年生の膨大な内容すらすでに完璧に理解し、さらに三年生の応用術式まで独自の解釈で構築し終えていた。
本気を出せば、三年生の中でも首席を獲ることが出来るのだ。
だが、春休みの夜に聞いた大人たちの不穏な会話――自分を隠そうとしている意図を敏感に察したエリカは、わざと計算を間違えるなどして凡庸なふりをし、この平穏な学園生活を守ろうと必死に足掻いていた。
しかし、ファミールの眼鏡の奥で光る、親友の鋭い瞳までは、隠し通すことはできなかったようである。
季節は巡り、聖都ルーン・ヴィークは天から舞い降りる美しい粉雪によって、白銀の静寂に包まれていた。
街の至る所には、万物の根源たる「創世至高神エテルナ」を讃える豪華な装飾が施され、魔導の理を司る「父神ゾル」と慈愛の「母神ルナ」に祈りを捧げる大聖堂の鐘の音が、冬の空気に凛と響き渡る。
――『神聖聖誕祭』。
一年の終わりに神々の加護を深く感謝し、家族や大切な友と過ごす特別な季節。
エリカにとっても、この冬はいつになく賑やかで、悩ましいものになりそうだった。
「エリカ!今年の冬休みも当然、私の家に来てくれるわね?」
談話室で、セレナがものすごい勢いで詰め寄り、実家の紋章があしらわれた招待状を突きつけてきた。
「うちの領地の雪景色は、聖都よりずっと綺麗なのよ。お姉様も騎士団から帰ってくる予定だし、絶対に楽しいわ!」
「待ちなさい、セレナ」
ファミールが、冷徹ながらも熱のこもった声でセレナを遮る。
「エリカの知性は、静かな環境でこそ育まれるものよ。我が家の地下書庫には、古代の魔導原典があるわ。エリカ、どちらがあなたの探求心にとって有意義か、あなたならわかるわね?」
春休みの「五泊ずつ」という強行軍の成功を経て、二人のエリカに対する招待への熱意は、さらに恐ろしいほど帯びていた。
そんな悩ましい日々の中。
放課後の教室で、一人居残りをしていたエリカの元へ、王子レオンが護衛もつけずに静かに歩み寄ってきた。
「エリカ、少し時間をいいかい。実は、今年の聖誕祭、王宮で小規模な舞踏会を催すんだ。他のクラスメイト数名にも声をかけている。君も……どうか、来てくれないだろうか」
彼はあくまで「クラスの親睦を深める交流会」という体裁を保ち、優雅に微笑んでいた。
「王族主催とはいえ、身構えるような堅苦しいものではないよ。君が聖誕祭に一人でいると、また一部の同級生たちが無用なちょっかいを出すかもしれないからね。……僕の目が届く安全な場所にいてほしいんだ」
その夜。
自室に戻ったエリカは、机に並べられた三通の重みのある招待状を前に、ウーッと頭を抱えていた。
「どうしよう……どれも選べないわ……」
しかし、今回は王子からの誘いの重みが桁違いだった。
クラスメイトと一緒という名目とはいえ、王族からの招待を無碍に断ることは、平民であるエリカにとって失礼にあたるどころか、不敬罪に問われかねない。
そして何より、一度王宮の厳重な会場に入ってしまえば、途中で中座してセレナたちの家へ向かう強行軍など、絶対に不可能だ。
「目立たないように、せっかく成績も落としているのに……王宮の舞踏会へ行ったら、余計に注目を浴びちゃうかも。でも、王子様があんなに親身になって私のことを心配してくれているのに、お断りするなんてできないし……」
どんな高度な魔法の難問さえも一瞬で解き明かす「魔導学園の至宝」の頭脳も、友情と社交、そして王室の思惑が絡み合うこの複雑怪奇な方程式には、正解を見出すことができなかった。
エリカは、窓の外にしんしんと積もる雪を見つめながら、白いため息を深く、深くつくのだった。




