第27話 首席と代償
底冷えする冬が過ぎ、木々の蕾が膨らみ始めた春の初め。
王立魔導学園の白亜の食堂は、新学期を迎えた生徒たちの活気に満ちていた。
「ねえ、昨日の魔導実地試験のあの問題、ちょっと難しかったけど、パズルみたいで楽しかったね!」
エリカが焼きたてのパンを頬張りながらそう言うと、向かいに座るセレナとファミールが呆れたように顔を見合わせた。
「エリカ、あれを『パズルみたい』って笑って解けるのはあなただけよ。私なんて、第三位階の術式展開で頭がショートするかと思ったわ……第三位階なんて魔導師団の少尉以上の魔法じゃない……こんなのテストに出すのおかしくない?」
「それ!ほんとよね……それと、昨日の最大のトピックは問題の難易度じゃなくて、トビーのことでしょう?」
午前中の実地試験……本来ならばエリカの模擬戦相手の予定だったクラス一のお調子者、トビー・ラングが「突然の激しい腹痛」という見え透いた理由で欠席したことが、三人の間での新しい話題になっていたのだ。
「トビーったら、エリカの魔力にビビって仮病を使ったのよ、絶対に!」
「遺言書を書くのが嫌で逃げ出したのね。まあ、賢明な判断だわ。彼が灰になったらエリカも大変だもの」
クスクスと笑い合う三人の姿は、どこにでもいる年相応の無邪気な少女たちそのものだった。
しかし、そんな平穏な日常は、数日後の朝に劇的な形で打ち破られることとなる。
学園の年間統合テストの結果が貼り出される日。
初等科一年の教室は、かつてないほどの衝撃と熱気に包まれていた。
教壇に立った、厳しい指導で知られるマルクス・ヴァレンタイン先生の野太い声が、水を打ったように静まり返った教室に響き渡る。
「……これより、今年度の進級判定を発表する。まず、成績不振により進級を認められない者が二名。まずはトビー・ラング、お前も含まれているぞ」
「えええええっ!?先生、嘘でしょ!?腹痛だったのに!」
頭を抱えて絶叫するトビーを冷ややかに一瞥し、マルクス先生は言葉を続けた。
首席と次席を除いて成績順に名前を呼ばれていく……。
魔導学園において、毎年全体の十パーセントから二十パーセントが厳しい基準を満たせず留年するのは、決して珍しいことではない。
生徒たちも「やはりか」という顔で聞いている。
次席にファミールが呼ばれた。
マルクス先生は一度言葉を区切り、チョークで白く汚れた指で、黒板の横に掲げられた巨大な成績掲示板の「最上段」を指し示した。
その指先が、微かに震えているのをエリカは見逃さなかった。
「そして――首席エリカ・ヴァイン」
名前を呼ばれ、エリカはビクッと肩を震わせた。
「君は筆記、実技共に、我が学園の歴史上類を見ない、優秀な成績を記録した。よって、学園理事会並びに、聖都の魔導技術開発局からの極めて強い要請により……特例として『飛び級』を認める」
「……飛び級!?」
「まさか……!あの、学校全体の二パーセントしか許されないっていう、伝説の制度か!?」
「でも飛び級を実際にした者は居ないって聞いたぞ?」
「学園の歴史上居ないって、魔導師団の父から聞いたんですが?!」
「初等科からなんてあり得るんですか!?バカな!」
一瞬の静寂の後、教室は蜂の巣をつついたような大騒動になった。
九歳という幼い平民の少女が、誇り高き上級生たちをごぼう抜きにし、遥か高みへと羽ばたこうとしている。
その信じがたい事実に、誰もが言葉を失い、次いで驚嘆の声を上げたのだ。
ホームルームが終わった直後、エリカの席の周りにはあっという間に分厚い人だかりができた。
セレナとファミールは言葉を失い、ただただエリカを両腕で強く抱きしめた。
だが、エリカを最も驚かせたのは、入学当初、彼女を「泥にまみれた平民」と侮り、執拗にいじめていた女子生徒たちの反応だった。
「エリカ……あなた、私たちを置いて、いなくなっちゃうの?」
かつてエリカの髪に樹液を擦りつけた令嬢の一人が、大粒の涙をポロポロと零しながら歩み寄ってきたのだ。
「ごめんなさい……私たち、あなたの本当の凄さをわかっていなかったの。……もっと、もっと魔法のこと、あなたから教えてほしかったのに……!」
彼女が泣き崩れると、それにつられるように周囲の生徒たちも騒ぎ始めた。
「そうだぞ!エリカがいなくなったら、俺の魔導数式の課題、誰が教えてくれるんだよ!」
「俺もだ!頼むから行かないでくれよぉ!」
鼻水をすする男子生徒たちの情けない声に、エリカは思わず吹き出してしまった。
彼女は席を立ち、涙を流すクラスメイト一人ひとりの手を順番に優しく握っていった。
「みんな、ありがとう。でも、泣かないで。学年が変わっても、教室が離れても、私はずっとこの学園にいるわ。いつでも遊びに来てね」
エリカが涙ぐみながらも太陽のように微笑むと、教室中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
しかし、飛び級という栄誉の裏で、エリカは一つの重大な問題に直面し、一人青ざめていた。
王立魔導学園の寮規定には、『同室は原則として、同学年の者に限る』という鉄の掟が存在する。
つまり、エリカが飛び級して上級生になれば、現在のルームメイトであるセレナやファミールとは離れ離れになり、見知らぬ上級生の部屋へ移らなければならないのだ。
「そんなの、絶対に認めないわ!」
その夜、女子寮の談話室で、事態を知ったセレナが真紅の瞳を燃え上がらせて机を叩いた。
「お父様に言って、即座に学校に交渉させるわ。規則なんてものはね、権力者が都合よく変えるためにあるのよ!」
隣に座るファミールも、手元の魔導書をパタンと閉じ、冷徹な光を帯びた瞳で頷いた。
「ええ、同感よ。私の実家からも、魔導院の理事会に圧力をかけるように手配するわ。エリカの『精神的安定』こそが、我が聖国の魔法技術の発展に不可欠である……という立派な建前を使えば、理事たちも無下にはできないはずよ。大丈夫……あの日の人脈がものを言うわよエリカ……」
二人は実家が持つ強大な貴族の権力と人脈を総動員し、親友であるエリカを引き止めるため、すぐさま裏で猛烈に動き始めたのである。
春休みを目前に控えたある日の夜。
三人は寄宿舎の広いベッドの上に集まり、毛布にくるまりながら楽しい約束を交わしていた。
「ねえエリカ。今年の春休みは、私の家とファミールの家に、五泊ずつしましょう? そうすれば、お休み中も三人ずっと一緒よ」
「ええ、すごく楽しみ!その後で、少しだけアイナル村の実家に帰ることにするわ。明日、お父さんたちにも手紙を書いておくね」
「じゃあ、その護衛は我が家から女性魔導剣士をペガサス付きで出すわ」
「我が家も女性魔導師を出すわよ」
そんな楽しい計画を立てている最中、コンコン、と部屋のドアがノックされ、寮母から一通の重厚な蝋封が施された封筒が届けられた。
差出人は『王立魔導学園 学園長室』。
エリカが震える手で封を切ると、中には魔導学園の重厚な魔導印がなされた羊皮紙が三枚入っていた。
『特例通知。エリカ・ヴァイン殿。貴殿の寮における居室について、本人の強い要望、並びに支援家格からの連名の強い請願を考慮し、例外的に現行の部屋の使用を継続することを許可する』
それは、学園創立以来、数百年間にわたって一度も破られたことのない「同学年同室」という鉄の原則が、一人の規格外の少女の存在と、二人の親友の凄まじい執念と権力によって、完全に覆された瞬間だった。
「やったわ!!」
「これで、明日からも、来年もずっと一緒ね、エリカ!」
三人は手を取り合い、ベッドの上で飛び跳ねて歓喜の声を上げた。
飛び級という、誰も到達できない孤独な高みへ向かうエリカの足元には、圧倒的な権力と深い友愛によって守られた、決して揺るがない温かな居場所が残されたのであった。
春休み前半。
ファミール子爵邸の広大な地下書庫。
本来ならば羊皮紙の匂いと静寂が支配するはずのその場所で、今日に限っては、セレナの激しい身悶えと、ベルベットのクッションをボフボフと叩く音が響き渡っていた。
「ああ、もう!どうして、どうして私だけが、あんな重大な報告を聞いてしまったの!?思い出すだけで、もう……顔が火を噴きそうだわ!」
セレナは顔を真っ赤にして叫び、クッションに顔を埋めた。
学園内ではまだ誰も知らない、けれど彼女の家――伯爵家では既に正式に決まった、厳然たる事実。
なんと、学園の女子生徒全員の憧れであるジュリアン・フォン・ランバート先生が、魔導師団のエリートであり、セレナの自慢の美しい姉セレフィナと結ばれることになったのだ。
その電撃的な婚約の決定は、幼いセレナの心に、憧れと身内の照れくささが入り混じった激震をもたらしていたのである。
その狂乱の様子を、愛読書である分厚い詩集から目を離さずにいたファミールが、パタンと静かに本を閉じてため息をついた。
「セレナ、少し落ち着きなさい。あなたのその激しい動揺のせいで、この本の続きが全く頭に入ってこないわ」
ファミールは立ち上がり、ソファーに座るエリカの小さな手を、そっと両手で包み込んだ。
「エリカ、あなたもよ。飛び級という孤独な道を歩むのは、ランタンを持たずに暗い夜の森を一人で進むようなもの。でも、忘れないで。私という親友が、あなたの歩むその道を、美しい詩の一節のように完璧に整えてあげます。……あなたはただ、あなたの信じる明日だけを真っ直ぐに綴っていればいいの」
「ファミール……。ありがとう、すごく心強いわ。ちょっと詩的過ぎてわからないけど」
エリカがふふっと微笑むと、クッションから顔を上げたセレナも「そうよ!私だって、伯爵家の力であなたを守るわ!お姉様の結婚準備で忙しいけどね!」と、照れ隠しのように力強く頷いた。
翌日。
ファミール邸の美しく咲き誇る薔薇の庭園を訪れたテオドールは、バルコニーでくつろぐエリカの元へ歩み寄り、一冊の古い魔導書を差し出した。
それは、特別なコネクションがなければ決して手に入らない、第四位階魔法の深奥が綴られた古代魔導書であった。
平民が買えるような安価な代物ではない。
「エリカさん。……少し遅くなったけれど、飛び級おめでとう。君という稀代の才能を前にして、自分が今の場所に立ち止まっていること……それが何より口惜しいんだ」
テオドールは、澄んだ瞳で真っ直ぐにエリカを見つめ抜いた。
名門ランバート家の次男として、そして魔導の深淵を覗く者としての、静かだが揺るぎない自負がその瞳の奥に宿っている。
「兄上だけではなく、僕もまた、君を苛むあの悍ましい『闇』を鎮める術を極めたい。来期までに、精神負荷軽減魔法――《メンゾ・コンティ・ハーティア》を、君のために完璧に習得してみせるよ」
本来、それは魔導学園の一生徒が習得できるような低位の術式ではない。
しかし、彼が紡いだその言葉には、少年らしい背伸びや焦燥を遥かに超えた、ひとりの少女を守らんとする騎士のような気高い決意が込められていた。
エリカが「ありがとうございます、テオドール様。私も負けないように頑張ります」と嬉しそうに微笑むと、魔導書を持ったファミールが、凛とした声を投げかけた。
「テオドール様、口上は立派ですが、あなたの魔導演算速度はまだその言葉に追いついていませんわよ。エリカの『隣』という座席がどれほど得がたいものか、お分かりになって? 私を納得させたければ、まずはその言葉通り、第二位階までは極めることね」
「ファミール嬢……。相変わらず厳しいな。でも、君に認められなければ、エリカさんの横には堂々と立てないということだね。……受けて立つよ」
テオドールは不敵に微笑み、魔導書を胸に抱き直した。
春休みの後半の五日間。
舞台はセレナの伯爵邸へと移った。
親しい者だけを招いた小規模なガーデンパーティーの席に、姉の正式な婚約者となったジュリアン先生が私服姿で姿を見せると、セレナの挙動不審はついに頂点に達した。
「せ、先生!あ、いや、義兄様!?本日は、あちらの……あちらのバラが、とってもトゲトゲしていますわね!先生も健やかで何よりですっ!」
顔をゆでダコのように真っ赤にし、支離滅裂な挨拶をして逃げ出すセレナを、ジュリアンがグラスを持ったまま不思議そうに見送る。
「……セレナ嬢は一体どうしたんだ?以前にも増して、行動が不安定なようだが」
すかさずファミールがジュリアンとエリカの間に割って入り、彼の視線を遮った。
「先生。乙女の心は秋の空よりも移ろいやすく、複雑なものなのです。特に、敬愛する学園の師が、突然家族の一員になるという劇的な変化は、彼女にとって劇薬のようなもの。それを不躾に探るのは、紳士としての作法に欠けますわ」
「……痛いところを突く。すまなかった、私の負けだ」
口達者な令嬢の正論に、かつて戦場を駆けた氷の騎士も、苦笑して降参するしかなかった。
そして迎えた、春休みの最終日。
伯爵邸の門前に、エリカをアイナル村へと送り届けるためのペガサス騎乗の魔導師が二名用意された。
「エリカ、村に帰っても私のことを想ってね。あなたの人生という物語の中に、私の名前を深く刻んでおいてほしいの」
「ファミール、ロマンチックすぎるわよ!エリカ、私のことも絶対に忘れないでね!次に会う時は、ジュリアン先生が家族になった事に、もう少し慣れておくから!」
見送りに来た二人の親友からの温かな言葉と、力強いハグを胸に、エリカはペガサスから大きく手を振った。
この二騎の女性魔導師は、セレナとファミールが手配してくれた、現役の『赤』に所属している護衛だ。
親友たちの深い愛情と、柔らかな春の光、そして芽吹く花の香りに包まれながら。
九歳の少女を乗せたペガサスは、愛する家族とガリアスの待つ、懐かしい故郷の村へと蒼穹の空へ走り出していった。




