第42話 リリュエに揺れた心
窓の外には、童話の世界を切り取ったかのような聖都ルーン・ヴィークの夜景が広がっていた。
無数に張り巡らされた空中水路に月光が反射し、繊細な硝子細工の魔導灯が、街全体を青や紫のプリズムの光で染め上げている。
夜空を横切るペガサスの魔導灯の軌跡が、星のように淡い光の尾を引いていた。
だが、最高級宿『白亜の揺り籠亭』の最上階に用意された特別室は、その美しい街の喧騒から完全に切り離されていた。
天井には微細な光の照明魔導ルーンを施した豪奢なクリスタルのシャンデリアが輝き、部屋全体を暖かな光で包み込んでいた。
巨大なマホガニーの円卓には、王侯貴族の晩餐と見紛うばかりの食事が並んでいる。
銀の皿に盛られた『地竜の保存肉の赤ワイン煮込み』からは香草の食欲をそそる匂いが立ち昇り、月明かりの下でしか収穫できないという『夜見草と琥珀茸の温サラダ』、そして芳醇な香りを放つ百年物のドワーフ樽熟成エールやエルフワイン。
紛れもなく最高級の歓待。
しかし、外への外出を禁じられたこの場に漂う空気は、豪華な食事とは裏腹にどこか気まずく、それでいて妙に浮き足立ったものだった。
「ねえ、ディオン。さっきの、もう一回再現してくれない?」
静寂を破ったのは、アルベローゼの甘く、そしてどこか小悪魔的な声だった。
彼女は猫が獲物を追い詰めるようなニヤニヤとした笑みを浮かべ、ずりずりと椅子ごと自分の方へ移動して、ディオンの隣にピタリと張り付いた。
昼間の騒動で大切なリリュエを割られた時は修羅のような顔をしていたが、今の彼女の機嫌は、あの時ディオンが飛び出してきた瞬間から驚くほど良くなっている。
「……何のことだい。僕は今、夕食を食べているところだよ」
ディオンは、皿の上の琥珀茸に無理矢理手を伸ばしてフォークでブスブスと刺しながら、努めて冷静に答えた。
だが、その手は微かに震えており、視線は決してアルベローゼの方を向こうとしない。
「えええー、ほんとーかなぁ?」
アルベローゼは、ディオンの顔を覗き込むように体を傾けた。
「聖都のど真ん中で私の名前を大声で叫んだ後にさ、『彼女に手を出すな!』なーんて言いながらパーンチ!……もう、思い出しただけで恥ずかしいわ。私、顔から火が出そうだったんだから!」
そう言いながら、アルベローゼは自分の両頬を押さえて身をよじらせる。
だが、そのエメラルドグリーンの瞳はちっとも恥ずかしがっておらず、むしろ面白くて仕方がないという風に、隣で顔を真っ赤にして固まっているディオンをじっと凝視していた。
「……っ!ゴホッ、ゲホッ!!」
耐えきれなくなったディオンが、飲んでいた冷製スープで激しくむせ返った。
耳の先から首筋までを朱に染め、逃げるように皿を見つめたまま咳き込んでいる。
あの時、自分は違う言葉を言ったはずだが、アルベローゼの脳内変換ではすっかり「彼女に!」になっているらしい。
だが、それを訂正する余裕すら今のディオンにはなかった。
「あ、もしかしてディオン、あれが自分の本心だって気づいちゃった?」
アルベローゼの追撃は止まらない。
彼女はディオンの逞しい右腕を指先でツンツンと突きながら、とどめの一撃を放った。
「私のこと、そんなに大事な『彼女』だと思ってくれてたんだー?子供の頃の約束、ちゃんと覚えてて迎えに来てくれたんだよね?ケッコンするんだよね?」
「ブッフゥゥッ!?」
ディオンが、口に含みかけたエールを盛大に吹き出した。
「……よ、よせよ、アルベローゼ。あれは、その、君が危なかったから体が勝手に動いたっていうか、緊急事態だったからだよ!や、約束って……あの時はまだ子供だったし!」
必死に抗弁しようとするディオンだが、アルベローゼの指先が腕を突くたびに、鍛え上げられた剣士の筋肉がビクッ、ビクッと情けなく跳ねる。
自分の中に芽生えた淡く特別な感情を、まだ明確な言葉として自覚できていない不器用な剣士。
アルベローゼはそんな彼の純情を本能的に察知し、ここぞとばかりに存分に楽しみ始めていたのである。
向かいの席では、エリカがグラスを傾けながらクスクス笑い、ライナスも穏やかな眼差しで弟の青春を見守っていた。
「……まあ、あんな野郎どもだ。生かしておいただけでも、ディオンは慈悲深い方さ」
重厚な声で笑ったのは、極厚のステーキ肉をそのまま齧っていたバハルだった。
ディオンとアルベローゼの凄まじい連続攻撃で先頭の男を沈めた直後、逆上した残りの四人が抜刀しようとした瞬間のことだ。
バハルが巨体を弾ませ、重戦車のような猛烈な大盾のシールド・チャージを叩き込み、一瞬で四人を吹き飛ばした上、まとめて石畳に叩きつけたのである。
「あのおかげで、美しい大理石の石畳がズタズタに砕け散っていたけれどね……。聖都の都市管理局から石畳の請求書が回ってきたら、間違いなくあんたをその重鎧ごと売り飛ばすから覚悟しておきなさいよ」
エリカがジロリと睨むと、バハルは「ガハハ!正当防衛だって言ってくれたのはエリカじゃねぇか!」と悪びれずに肉を頬張った。
「あとの奴らは俺がまとめて吹っ飛ばしたが……アルベローゼの一撃も大したもんだったぜ。ありゃあ、ただの力じゃねえな?」
バハルのその言葉に、それまで微笑んでいたライナスの表情が、スッと理知的な探求者のそれへと切り替わった。
ライナスの灰色の瞳が、アルベローゼの華奢な拳をじっと見つめる。
「ええ。アルベローゼ、君のあの時の拳に宿った魔力……。非常に特異なものでした」
ライナスはフォークを置き、静かに言葉を紡いだ。
「魔法というものは通常、杖や弓、あるいは魔導書といった『発動体』を介して魔力を外部に励起させます。そうしなければ、術者自身の肉体が純粋な魔力の負荷に耐えきれず、自壊してしまうからです。しかし……君はあの時、自分の掌に直接『ルーン』を書き込み、肉体そのものを発動体にして魔力を纏っていた」
エリカも真剣な顔で頷く。
特務である彼女ですら、肉体への直接的な魔力付与は多大なリスクを伴うことを知っている。
「失われた古代エルフの秘術か、それとも特殊な体術の系統か……。どのような理屈で成り立っているのですか?」
しかし、アルベローゼは空になったワイングラスの縁を指でなぞり、つまらなそうに肩をすくめてライナスの言葉を遮った。
「……あたし、あんま魔法の難しいことって興味ないんだよね。なんかムカついて頭が熱くなったから、思いっきり殴っただけ。理屈なんて知らないわよ」
あっけらかんと言い放つ彼女の瞳の奥に、何かの深い知識と秘密を隠しているのをライナスは感じ取ったが、彼女はいつものようにのらりくらりとはぐらかしてしまった。
「ちょっと、ディオン。こっち来て!」
アルベローゼは、ディオンの大きな手首をぎゅっと掴むと、自分の使った魔導の秘術に対する追求から逃れるように、彼をガラス扉の外――バルコニーへと引っ張り出した。
「わっ……と。急にどうしたんだよ、アルベローゼ」
「いいから、黙って見てみてよ」
夜風に月のような金色の髪を揺らしながら、彼女は得意げに眼下を指差した。
ディオンが手すり越しに見下ろした先には、息を呑むような聖都の夜景が広がっていた。
白亜の街並みは繊細な魔導灯のプリズムの光に照らされ、幾筋もの空中水路が月明かりを反射して、まるで夜空に天の川が流れ落ちたかのように青白く輝いている。
昼間の喧騒は遠のき、遠くから微かに聞こえるどこかの酒場の喧騒が、世界を甘く幻想的な静寂で包み込んでいた。
「すごい……。こんな景色、見たことない」
「でしょ?まぁ、私も今知ったんだけどね」
アルベローゼはクスリと笑うと、ディオンのすぐ隣――肩が触れ合うほどの距離に並んで手すりに身を乗り出した。
先ほどシャワーを出たばかりの彼女から漂う甘い花のような香りが、夜風に乗って鼻腔をくすぐり、ディオンは慌てて視線を夜景へと戻す。
「……あのさ」
しばらくの心地よい沈黙の後、アルベローゼがぽつりと呟いた。
「昼間は……その、ありがと。すっごく、嬉しかった」
「えっ?あ、ああ……。あんな連中、気にすることないさ。大切な仲間が傷つけられそうになったんだ、体が勝手に動くのは当然だろ」
ディオンが照れ隠しのように頭を掻きながら答えると、アルベローゼは不満げに頬をプクッと膨らませた。
「……またそうやって『仲間』とか言って誤魔化す。本当に鈍いんだから」
「え?」
ディオンは夜景を見ていた瞳をアルベローゼに向ける。
「ねえ、ディオン。八歳の時の約束、本当に忘れたの?」
アルベローゼは手すりから体を離し、ディオンの正面に立った。
夜景の光を背に受けた彼女のエメラルドグリーンの瞳が、真っ直ぐに彼を見つめ上げてくる。
「私が大泣きしてた時、あなたが白薔薇を髪に挿してくれたでしょ。その時に言った言葉……『アルベローゼにふさわしい剣士になって迎えに行くから、待っててくれ』って」
「あ……っ。そ、それは……」
ディオンの顔が一気に朱に染まる。
「子供の時の約束だから、無効だって言うの?」
冗談めかした口調の中に、ほんの僅かな切実さを滲ませて彼女は問う。
ディオンは、その真剣な眼差しからどうしても目を逸らすことができなかった。
昼間、彼女が野盗に触れられそうになった瞬間に爆発した、あの理性を焼き尽くすような怒りと焦燥。
それが何であったのか、鈍感な彼にもようやく輪郭が掴めかけていた。
「無効だなんて…………僕はアルベローゼのことが……」
絞り出すように答えたディオンの言葉は、小さすぎて、もはや本人にすら聞こえなかった。
しかし、アルベローゼの顔にパッと花が咲いたような笑顔が広がった。
彼女はそっと、手すりに置かれていたディオンの大きくて無骨な右手に、自分の小さな手を重ねた。
「ふふっ。嘘だよ!そんな話、まともに受けないでよ。ディオンは単純だなぁ」
アルベローゼはそう言いながらも、ディオンの手に自分の指を絡めながら、甘く囁いた。
「アルベローゼ……冗談はやめてくれよ……本気にしたじゃないか……」
ディオンの心臓が、自分でも驚くほどの早鐘を打っていた。
「え、本気?本気だったらどうする?ケッコンするのかなぁ?」
「ああ……勘弁してくれよアルベローゼ……」
「ダメ……許して欲しかったらアルって呼びなさい」
美しい聖都の夜景の光に包まれながら、二人の影は、ただ静かに寄り添っていた。
「ねぇ、ディオン……。リリュエっていうお菓子、あったじゃない?」
「ああ、あのお菓子か。結局こぼしちゃって食べられなかったもんな。僕も食べてみたかったんだ。今度はみんなで買いに行こうか」
無邪気に笑うディオンの言葉に、アルベローゼは微かに唇を尖らせた。
次の瞬間、彼女はディオンの両頬を自身の小さな手で挟み込むと、逃がさないと言わんばかりにその顔を真っ直ぐ自分へと向けさせた。
「二人でだよ……ディオン」
至近距離で見つめ返してくるエメラルドグリーンの瞳。
頬に触れる指先の温もりと、真剣そのものの眼差しに、ディオンの顔は一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
「……分かったよ、アル……」
完全に降参したディオンの言葉に、アルベローゼは満足そうにキュッと可愛らしい笑みを浮かべるのだった。
広間のソファに深く腰を沈めながら、エリカはふと昼間の出来事を思い返していた。
結局一口も食べられずに石畳に落としてしまった、あの純白の聖杖の形をした『リリュエ』のことだ。
「ねぇ、ライナス……。この軟禁が終わったら、私、食べたい物があるの……」
ぽつりとこぼした彼女の言葉に、向かいに座るライナスが穏やかに微笑んだ。
「昼間のリリュエでしょう?私も少し興味があったんですよ。この件が片付いたら、みんなで……」
「二人でよ、ライナス」
エリカの顔は、熟れた果実のように真っ赤に染まっていた。
その直球の言葉に、ライナスの動きがピタリと止まる。
やがて、彼もまた激しく動揺したようにスッと顔を背け、手元のグラスを見つめながら静かに答えた。
「二人で……。ええ、いいですね。約束ですよ」
二人の視線が交わることはなかったが、その場には、極上のワインよりもずっと甘く、温かい空気がふわりと漂っていた。
――やがて、豪奢な晩餐を終え、一行がそれぞれの思いに耽りながら静かな時を過ごしていた、その時である。
部屋の壁に掛けられた豪奢な振り子時計が、重々しい音色で『欠落の端刻(二十三時)』を示した。
その直後。
廊下の奥から、カツン、カツン、と、統制された硬い靴音が響き渡ってきた。
それはただの宿の従業員のものではない。
鉄の踵が石床を正確に叩く、訓練された軍人、あるいは騎士の足音だった。
足音は一行の広間の前で、ぴたりと止まった。
部屋の空気が、一瞬にして張り詰める。
ディオンは無意識に腰の剣の柄に手をかけ、バハルは大盾を足元に引き寄せた。
「緊張しすぎよ……二人とも。さぁ使者が来るわ……どんな話かしらね」
エリカの瞳に、元特務の鋭い光が宿る。
「そうですね……来たようです。女王陛下からの使者が……。まさか、今日来るとは思いませんでしたよ。しかもこんな深夜にね。よほど『普通じゃない』話のようですね」
ライナスが静かに立ち上がった。
息を呑むような重い沈黙の中、豪奢な装飾が施された分厚い扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。




