第25話 白銀の神聖聖誕祭
白亜の壁に囲まれた王立魔導学園の女子寮。
その一室で、九歳のエリカ・ヴァインは、磨き上げられた姿見の前に立ち、幾度目かの深呼吸を繰り返していた。
「……よし。髪は乱れていないわね。この淡いブルーのリボン、セレナが『エリカの澄んだ緑色の瞳に絶対に合うわ』って、雪の降る王都を三軒も店を回って選んでくれた色……。ズレたら台無しになっちゃう」
エリカは、親友二人が共同で仕立ててくれた最高級の白銀に煌めく光魔導シルクドレスを、壊れ物に触れるようにそっと撫でた。
ライナスからもらったペンダントの蒼い石を握りしめる。
夜空の星屑を散りばめたような深い群青の生地が重なり、動くたびに魔導による銀の光を瞬かせる。
指先に伝わる滑らかで冷たい感触が、二人の深い愛情と、貴族社会が持つ圧倒的な財力を物語っていた。
「セレナ、ファミール……。平民である私なんかに、こんな素敵なドレスを……。一生の友達だって言ってくれた二人の気持ち、絶対に無駄にはしない。お父様、お母様、ガリアス様……どうかアイナル村から見ていて。私、今日一日で聖都の三つもの名家を回るのよ。……ああっ、もう!心臓の音がうるさすぎ!落ち着け、エリカ。あなたは誇り高きヴァイン家の娘よ……平民だけど。深呼吸、スー、ハー……」
一人で百面相をしながら胸を押さえていると、窓の外から小気味良い蹄の音と、車輪が石畳を滑らかに転がる音が聞こえてきた。
そっとカーテンを開けると、白銀の世界に一際映える、セレナの家の紋章である「黄金の薔薇」が描かれた絢爛豪華な馬車が到着していた。
御者の吐く息が、街灯の光に白く浮かび上がっている。
「来た……。大丈夫、やれるわ。……女神様、どうか、このドレスを汚さずにこの夜を越せますように」
エリカは祈るように呟き、緊張で震えそうになる膝に活を入れて、冷たい夜気が満ちる外へと飛び出し、馬車へと乗り込んだ。
茜の帰還(17時)。
最初に到着したセレナの伯爵邸は、目も眩むような光の洪水であった。
雪化粧をした広大な庭園には無数の魔導ランタンが灯され、邸宅の巨大な窓からは、弦楽器が奏でる優雅なオーケストラの調べと、蜂蜜を焦がしたような甘い香りが漏れ聞こえてくる。
「エリカ!待ってたわ!ああ、やっぱり私の見立て通り。すっごく可愛いわ!」
馬車から降りたエリカを、真紅の華麗なドレスに身を包んだセレナが満面の笑みで出迎えた。
彼女はエリカの手を取ると、きらびやかな貴族たちが談笑する大広間へと迷いなく突き進む。
「見て、お父様、お母様!この子が私の自慢の親友、エリカよ!ドレスも似合ってるでしょ!?」
セレナが誇らしげにエリカを両親の前へと引き合わせる。
「ほう、君が噂のエリカ嬢か。……なるほど、セレナが夢中になるわけだ。その立ち振る舞いと気品、とても辺境の村育ちとは思えんな。我が家の自慢の料理を、存分に楽しんでいってくれたまえ」
恰幅の良い伯爵の温かな言葉と、周囲から向けられる値踏みするような視線。
エリカは必死に背筋を伸ばし、寮の部屋で何度も練習した完璧な淑女の礼を返した。
(……落ち着け、エリカ。笑顔よ。ここでは『セレナの自慢の親友』として完璧に振る舞うの。スープは音を立てず、フォークの角度も美しく……そう、完璧よ。でも、時間はあと一クロス(一時間)……!)
運ばれてくる極上の黒棘牛の赤身塩窯ローストや、見たこともないような美しい氷菓を味わう余裕など、今のエリカには全くなかった。
頭の中では常に馬車の移動時間と滞在時間を逆算し、時間との戦いを繰り広げている。
そして群青の侵食(19時)の鐘が王都に響く少し前、エリカはセレナと「次は学園でね」と固い握手を交わし、後ろ髪を引かれる思いで次の目的地へと急いだ。
燈火の安息(20時)。
次にエリカを待ち受けていたのは、ファミールが誇る子爵邸での夜会であった。
先ほどのセレナの伯爵邸が、圧倒的な財力で五感を刺激する絢爛豪華な舞踏会であったのに対し、こちらは全く趣が異なっていた。
分厚い黒塗りの壁に囲まれた大広間は、シャンデリアの灯りもどこか落ち着いた暖色に抑えられており、静謐という言葉がよく似合う。
空気には、年代物の赤紫雫酒の芳醇な香りと共に、古い羊皮紙と上質なシガーの紫煙が薄く漂っている。
そこはどこか重厚で、知的な熱気に満ちた大人の空間であった。
「遅かったわね、エリカ。無事に着いて安心したわ。さあ、こちらへ」
大広間の入り口で待っていたファミールが、優雅な足取りで歩み寄ってきた。
彼女の理知的な美しさを引き立てる深い青のドレス。
ファミールはエリカの手を取ると、広間の最も奥まった一角へと迷いなく進んでいく。
そこには、きらびやかな貴族の正装とは明らかに異質な、飾り気のない様々なローブを纏った初老の男女が円座を作っていた。
「あ、あの……ファミール?どの方々のお顔も、教科書や魔導書で拝見したことがあるような……」
「ええ。魔導院、魔導技術開発局……それと魔導理論研究室の、高名な教授や長官たちよ。皆、かねてからあなたの『魔導演算能力』に興味津々なの。私が少しだけ、自慢の親友の話を吹き込んでおいたから」
「えっ、あ、あの……!?私なんかが、そんな凄い方々の前で……無理だよ……!」
足がすくみ、後ずさりしようとするエリカの背中を、ファミールが小さな両手でしっかりと押し留める。
「自信を持ちなさい。私が見込んだ親友なんだから。さあ、深呼吸して……あれ、あれをやって見せて」
銀縁眼鏡の奥の瞳が、エリカに力強い信頼を告げていた。
ファミールに背中を押され、エリカは並み居る賢者たちの前へと引きずり出された。
途端、魔導の深淵を覗き込んできた彼らの冷徹な眼光が、一斉に九歳の少女へと突き刺さる。
値踏みするような、疑念に満ちた重い視線。
(……やるしかない。ファミールの顔に、泥を塗るわけにはいかない……!)
エリカは小さく息を吸い込み、心を極限まで研ぎ澄ませた。
恐怖を集中力へと変換する。
彼女が右手を小さく胸の前に掲げると、大広間の空気が一瞬にして重さを増した。
それは、魔導の深淵の最奥…………第五位階魔法の構築。
「――《ルーメン(光)》、《ネヴラス(闇)》、そして……《ヌル(消滅)》」
澄んだ声が紡がれると同時、エリカの掌の上に安定した魔力球が浮かび上がった。
純白の光と漆黒の闇。
相反する二つの極大エネルギーが、幾重にも連なる完璧な幾何学模様の魔導式に縛られ、球体の中で激しく反発し合う。
通常であれば、大広間はおろか屋敷一帯を更地に変えるほどの大爆発を引き起こす魔導式である。
しかし、エリカが構築した極小の空間内では、寸分の狂いもない魔力制御によって完璧な「対消滅」が引き起こされていた。
光と闇が互いを食い破り、最後の一つのルーンが書き換えられた瞬間――。
『ピィィンッ』という高音と共に、掌の上の空間が小さく一瞬だけ消えた。
衝撃波も、熱も、一切の破壊も起こさない。
ただその空間にあったはずの巨大な魔力エネルギーが、完全にゼロへと帰したのだ。
それは、極大の威力を誇る第五位階魔法の魔導式を、暴走の危険なく完全に支配下へ置き、任意で構築・消滅させることができるという、神業めいた証明であった。
大広間を支配していた疑念の空気は、一瞬にして凍りついたような静寂へと変わった。
やがて、白髭を長く蓄えた魔導院の教授が、持っていたシガーを床に落とすのも構わず、震える声で感嘆を漏らした。
「す、素晴らしい……!なんという精密さだ。今の対消滅、間違いなく第五位階の術式だぞ……?これをこんな速度で、しかも一切の余波を出さずに行使できる者が、この聖国に果たして何人いようか……!」
「あり得ん……。九歳にして、これほど完璧な魔導式を脳内で構築し、制御するなど……魔導学園……いや!魔導師団だって遥かに超えている!」
「まさに至高の原石だ……!子爵、我が魔導技術開発局へ今すぐ迎え入れたい。いや、迎え入れねば国家の損失だ!」
「バカな!それは我が局の方が!」
賢者たちの顔は、先ほどの冷たい眼光が嘘のように、未知の真理を前にした少年少女のように紅潮していた。
エリカを取り囲むように、割れんばかりの拍手と、熱狂的な賞賛の嵐が巻き起こる。
(よかった……上手くいった……)
エリカがホッと胸を撫で下ろしていると、ファミールが誇らしげに微笑みながら隣に並び立った。
「どう?私の言った通りでしょう、教授方。彼女こそが、我が校が誇る最高の天才にして、私の最も大切な親友、エリカ・ヴァインよ」
深い青のドレスを纏ったファミールと、周囲の称賛に頬を赤らめるエリカ。
知と魔導が交差するこの静謐な子爵邸の夜会で、エリカ・ヴァインという九歳の少女の規格外の才能は、王都の最高権威たちの心に、決して消えることのない鮮烈な傷跡を刻み込んだのであった。
しかし、時計の針は残酷に進む。
静寂の警鐘半(21時半)が迫っていた。
「ファミール、ごめんなさい。私、もう行かなくちゃ」
「ええ、わかっているわ。十分すぎるほど私の顔を立ててくれたわ、ありがとう。……すでに私の家の馬車を裏門に用意させたわ。これでランバート子爵邸まで全力で駆け抜けなさい!」
ファミールの力強いエスコートを受け、エリカは息をつく暇もなく、吐く息の白い二頭立ての高速馬車へと飛び乗った。
意識の揺らぎ(22時)過ぎ。
ファミールの子爵邸を出た馬車は、聖都の中心部の喧騒を離れ、街外れへと向かう暗い森の道へと差し掛かっていた。
窓の外を流れる雪混じりの暗闇を見つめながら、エリカは深く安堵の息を吐いていた。
(あと少し……あと少しで、最後のジュリアン先生のところに着くわ)
――その時だった。
ドゴォォンッ!!
突如、激しい衝撃と何かが爆発するような音が響き、馬車が横転しそうなほどの急制動をかけて停止した。
馬たちのいななきが夜の森にこだまする。
「……っ!?な、何ですか!?」
エリカが窓枠にすがりついて外を見ると、恐ろしい光景が広がっていた。
剣や鈍く光る錆びた斧を手にした、薄汚れた十人ほどの盗賊たちが、馬車を完全に包囲していたのだ。
この聖誕祭の夜は、各地で貴族が晩餐会のために頻繁に街道を行き交う。
そのため、各騎士団も厳重な警戒態勢を敷いているのだが、成功した時の身入りの良さから、命知らずの貴族狙いの盗賊が後を絶たないのが現実であった。
通常、貴族の馬車には屈強な護衛馬車が前後数台は付く。
しかし、タイトなスケジュールをこなすため、速度と機動力を最優先して、あえて護衛を外したファミールの判断が、ここに来て最悪の形で裏目に出たのである。
「ヒャハハ!大当たりだぜ、貴族の馬車だ!なんでも金になるぞ!」
「見ろよ、中にいるのは貴族のガキか。へへっ、いい獲物だ。おい、中のガキをひきずり出せ!」
盗賊の一人が下卑た声で叫ぶと、別の男が舌舐めずりをしながら剣を抜いた。
「身につけてるドレスと貴金属を全部外させろ。全部ひん剥いたら……殺せ。あー、ヤる奴がいるなら早く終わらせろよ。最後は必ず息の根を止めろ。騎士団の連中が来る前にずらかるぜ」
絶望的な言葉が飛び交う中、御者台から短い悲鳴が上がり、ドサリと重いものが落ちる音がした。
御者が無残に斬り捨てられたのだ。
濃密な血の匂いが、冷たい空気に混じって鼻腔を突く。
下卑た笑いを浮かべた、酒と体臭の混ざった酷く臭い大柄な男二人が、エリカの乗る馬車の扉へとにじり寄ってくる。
「ヒヒッ、お嬢ちゃん。大人しく出てくれば、痛い思いはしないで済むぞ……」
ガタガタと震えながら、エリカは両手で術式を組んだ。
恐怖で脳が焼け焦げそうだ……だが、生き延びなければならないという本能が、彼女を突き動かした。
さらに、極度の緊張と恐怖により、エリカの内に封じられた「異常な殺人衝動」が鎌首をもたげ始める。
「……やめて!来ないで!!」
エリカは叫び、九歳の少女の器には到底収まりきらないような、未熟ながらも圧倒的な魔力を空間に解き放った。
「――《フラグメ・イグニ》!!」
エリカの手から放たれた極限まで圧縮された火球が、男たちの足元で着弾する。
ズゴォォォォォンッ!!
鼓膜を破るような轟音と共に、雪の舞う夜空の雲を焦がすほどの、巨大な蒼炎の柱が立ち昇った。
「ぎゃあああああっ!?」
馬車の扉を開け放った先頭の二人が、一瞬にして火柱に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく武器ごと炭化して崩れ落ちる。
肉の焦げる悍ましい匂いが立ち込めた。
しかし、極限のパニック状態と内なる殺意との鬩ぎ合いの中で、エリカは精密な魔導演算を維持することができなかった。
次に構築しようとした火の魔法は一瞬で霧散し、周囲の雪原に火の粉を撒き散らすに留まってしまった。
「こ、このクソガキが!化け物め!ぶち殺してやる!!」
仲間を目の前で殺された賊の一人が激昂し、血走った目で馬車に飛び込んでくる。
男はエリカの髪を力任せに掴むと、馬車から引き摺り出し、雪の上に投げ飛ばした。
「イヤーッ」
エリカの悲鳴は誰にも届かない。
「このガキィー!!」
錆びついた斧が振り下ろされる――。
エリカは慌てて四つん這いになり、背を向けて必死に這いずった。
「あ……っ!」
鈍い音と共に、親友二人が心を込めて贈ってくれた大切なドレスが無残に切り裂かれる。
エリカは泥まみれの雪の上に、うつ伏せに倒れ込んだ。
セレナが何度も位置を調整してくれた腰の淡いブルーのリボンは千切れて宙を舞い、ファミールがこだわった美しい白銀に煌めくスカートは、白い脚が全てあらわになるほど深く裂かれていた。
「嫌……っ、あぁ……っ!」
ドレスを汚さぬようにと、あんなに願ったのに。親友たちの優しさと真心が、汚い泥と雪、そして血にまみれていく。
涙で視界が歪む中、追い打ちをかけるように、賊の持つ冷たい刃がエリカの細く白い首筋に向けて再び高く振りかぶられた。
(……お父さん、お母さん……ガリアス様……。ごめんなさい……!)
エリカが強く目を閉じ、死を覚悟した、その時――。
「――私の生徒に、汚い手を触れるなぁ!!」
夜の静寂を切り裂く蹄の音と共に、狂気をも孕んだ圧倒的な魔力の圧が、森全体を支配した。
見開かれたエリカの目に映ったのは、漆黒の馬上で青白く光る氷の魔導剣を抜き、普段の冷徹な仮面をかなぐり捨てて、瞳に青白い怒りの炎を燃やすジュリアン・フォン・ランバートの姿だった。
「兄様!エリカさんは僕が!」
背後から、美しい白馬に乗った正装姿のテオドールも駆けつけ、即座に手にした聖杖から治癒と防御の神聖魔法を詠唱し始める。
ジュリアンは、ランバート子爵邸のバルコニーでテオドールと共に、エリカが事前に告げていた意識の揺らぎ(22時)という到着時間を守るべく、待ち構えていたのだ。
しかし時間になっても彼女の乗る馬車は現れず、バルコニーで馬車の到着を待ち続けたジュリアンが胸騒ぎを覚えたその時、目の前で天を貫く蒼炎の火柱が見えたのだ。
(……あんな、圧倒的な高魔力の炎でありながらも、どこか制御の甘い未熟な火柱を上げられるのは……この学園に、いや聖都に、エリカしかいない!)
大人でも出し得ない規格外の魔力量……しかし、制御は未熟。
未熟と言えるその「暴走気味な巨大な火柱」こそが、奇しくも彼女の命の危機を知らせる最大の狼煙となったのだ。
ジュリアンは馬から滑るように飛び降りると、元魔導師団小隊長としての本性を剥き出しにし、エリカの目前に迫っていた賊の胸板に魔導剣を投げると、寸分の狂いなく心臓を貫いた。
「がっ……!?」
血を吐き倒れる男を一瞥もせず、ジュリアンは流れるような死の舞踏の如き動きで、魔導剣を引き抜くと数閃させる。
同時に高度な第四位階拘束魔法を展開し、残りの賊の手足を瞬く間に空間に縫い付け、一瞬にしてその場を完全制圧してしまった。
静けさを取り戻した森の中。
ジュリアンは血振るいをし、剣を鞘に納めると、震えてうずくまるエリカをそっと抱き寄せた。
ジュリアンの執事が重傷の御者に回復魔法を当てているのが雪を隔てて見える。
「エリカ……」
彼は自らが羽織っていた上質な黒の外套を素早く脱ぎ、切り裂かれた彼女のドレスを隠すように、そして冷え切った小さな体を温めるように優しく包み込んだ。
「……遅くなって済まない、エリカ。もう大丈夫だ。よく一人で耐え抜いたな。……さあ、我が家へ行こう。もう安心して大丈夫だ」
ジュリアンの低く穏やかな声を聞いた瞬間、エリカの中でピンと張り詰めていた糸が完全に切れた。
「ああぁぁぁぁぁぁん……。うぁぁぁ……ぁぁぁ……」
九歳の幼き天才魔導士は、ジュリアンに抱きしめられると、無残に裂かれたドレスの端をギュッと握りしめながら、初めて年相応の子どものように声を上げて泣きじゃくった。
内に怪物を飼い、天才と呼ばれながらも孤独に足掻く、あまりにも過酷で残酷な運命を背負う少女。
けれど、誰よりも優しい守護者に抱きしめられた聖夜。
少女が駆け抜けた命がけの強行軍の終着点は、恩師の温かい胸の中であった。




