第23話 私の心は折れない
短い夏休みが明け、二学期が始まると、白亜の校舎を包む空気は、特待生であるエリカに対してより一層冷たく、尖ったものへと変貌していた。
その中心にあるのは、学園屈指の人気と実力を誇る教師、ジュリアン・フォン・ランバートとの交流である。
元魔導師団の小隊長という経歴と、流れるような翡翠の髪、端正な顔立ちを兼ね備えた彼は、学園の令嬢たちにとって憧れの的であった。
その彼が、週に一、二度、放課後の誰もいない特別実習室へエリカだけを定期的に呼び出している。
当然ながら教員達は理由を知っているが、生徒達に「エリカは呪われている」と説明するわけにもいかない。
その「二人の逢瀬」という噂は、多感な女子生徒たちの嫉妬を限界まで膨れ上がらせるのに十分すぎた。
「……平民の分際で、ジュリアン先生を独占するなんて。どんな汚い手を使ったのかしら」
「天才ぶっているけれど、所詮は泥にまみれた田舎娘……色目使って……いやらしい」
廊下ですれ違うたびに、香水の匂いと共に投げつけられる棘のある言葉。
エリカは表情一つ変えることなく、ひたすら静かに聞き流した。
彼女たちには決して理解できない。
エリカにとって、ジュリアンの手から施される精神負荷軽減魔法――《メンゾ・コンティ・ハーティア》が、どれほどの救いであるかを。
その光を浴びる時だけ、脳内を這い回るどす黒い殺意が凪ぎ、頭蓋の内側を何かが這い回るような不快感から解放される。
あの時間こそが、エリカが狂気の淵から正気を保つための、唯一の「聖域」なのだ。
事実、その魔法を受けた直後のエリカの顔からは、普段の強張った天才の仮面が剥がれ落ち、年相応のあどけない少女らしい笑顔が戻る。
ランバート兄弟は、この「孤独な天才」を自らの命を懸けて守り抜くべき対象として、深く心に刻んでいた。
そんな過酷な運命を背負うエリカを、二人の親友はそれぞれの流儀で、明るい日常の光の中へ引っ張り出そうとしていた。
「ねえエリカ!『アルカナ・バースト(魔導弾撃ち合い競技)』部に入りましょうよ!」
放課後、秋風が吹き抜ける中庭で、活発なセレナがエメラルドの瞳を輝かせて熱心に誘ってきた。
それは、特殊な魔導反発フィールドが張り巡らされた専用コートで、三人対三人で戦う学園の花形競技だ。
テニスウェアに近い、プリーツの入った軽快な衣装に身を包み、軽く圧縮した魔導弾を撃ち合って体力と演算速度を競う。
「一人一発ずつしか撃てないし、相手に命中させるか、自分の撃った魔導弾が場外へ消えるまで次の弾が撃てないのよ。その厳しい制約の中で、一瞬の隙を突いて放つ戦略性が、もう最高に痺れるの!エリカの圧倒的な魔導演算速度があれば、一年生でレギュラーも夢じゃないわ!」
「いいえ。それは少し思慮が浅いわね、セレナ」
身を乗り出すセレナを制するように、ファミールが理知的な瞳の奥で銀縁の眼鏡を押し上げ、静かに異を唱えた。
「エリカに相応しいのは『魔導深淵探究会』よ。未だ解読されていない魔導書と向き合い、失われた高度で複雑な術式を解き明かし、それを実践で行使する。その無駄のない演算美こそ、エリカの真骨頂じゃない。泥臭く汗を流すより、知の探求こそ彼女の洗練された美しさを引き立てるわ」
「もう、ファミールったら頭が固いんだから!体を動かした方が気持ちがいいのよ!」
言い合う二人の親友の、不器用で真っ直ぐな優しさに包まれ、エリカの頬には自然と柔らかな笑みがこぼれた。
男子生徒たちとは、その圧倒的な実力ゆえに概ね良好な関係を築いていたエリカだったが、女子の一部に泥のように潜む「影」は、秋の行事で明確な牙を剥くこととなる。
木々が色づき、冷たい風が吹き始めた秋。
学園恒例となっている、二泊三日の野外実習が開催された。
場所は、聖都郊外に広がる魔導師団の森林演習場。
そして運の悪いことに、エリカはよりによって彼女を激しく忌み嫌い、執拗にいじめていた貴族令嬢三人と同じグループに割り振られてしまった。
「……最悪。どうしてこんな怪物と一緒に寝泊まりしなきゃならないのよ」
森の湿った土と、腐葉土の匂いが漂う野営地……あからさまな舌打ちが響く。
すれ違いざまにわざと肩をぶつけられ、真新しい実習用の制服を泥で汚される。
テントのペグを打とうと身をかがめれば、背後から無言でスカートを踏みつけられた。
極めつけには、エリカの美しい銀がかった金髪に、ベタベタとした松の樹液を擦りつけられる始末だった。
しかし、エリカは一切の反論をせず、唇を噛み締めながら黙々とテントの設営や薪拾いをこなした……。
言い返せば……怒りに呑まれれば……感情の昂ぶりと共に、自分の中の「殺意」が溢れ出てしまうのだ。
一度でもその封印を解いてしまえば、彼女たちをただでは済まさないだろう……そして、自分の学園生活も終焉を迎えることになるのだ。
それはガリアス様や両親を深く悲しませる事になる……。
エリカは自らの内の化け物を押さえつけることに必死だった。
だが、実習初日の深夜。
古い戦場跡でもあるこの森の静寂は、突如として氷のように凍りついた。
ズズ……ズズズ……。
落ち葉を踏みしめるような不気味な音が響く。
魔法師団の結界も万能ではない……。
結界をすり抜け、ランタンの灯りが届かない深い闇の中から「それら」は現れた。
実体を持たない心霊系ヴィルヘル(魔物)の群れだ。
怨嗟の声を上げる無数の半透明の霊が宙を飛び交い、それに引き寄せられるように、腐肉を纏ったおぞましい死体が土から這い上がってくる。
グチャッ、グチャッという水音と共に、ぽっかりと空いた眼窩からは無数の蟲が這い出し、顎の外れた口からは悪臭を放つ黄色い腐乱汁が滴り落ちていた。
歩みを進めると、たまにポカリと手足がもげ落ちる。
その鮮やかな緑色に変色した動脈からポタポタと滴る『魔』を帯びた汁が、地面に溜まっていた赤茶色の体液と混ざり合う。
骨から不意に剥がれ落ちた肉片の内側に湧いたウジは、腐肉を白く染め上げていた。
十二体……十四体……十八……地面から湧き出てくる絶望。
「ひっ……!い、いやあああああ!!来ないで!!」
昼間の高慢な威勢はどこへやら。
エリカをいじめていた令嬢たちは、その圧倒的な恐怖の前に完全に精神を崩壊させていた。
恐怖のあまりその場で失禁し、上質な寝巻き用ドレスの裾を汚すことも構わず、腰を抜かして泥だらけになりながら泣き叫び、無様に地べたを這いずり回っている。
泥に足を取られて転倒し、体を起こそうと手をつくも、ぬるりとした感触に滑ってしまう……。
恐怖の中で必死に這いずろうとするが、体は一向に前へ進まない。
悲鳴を聞いてテントから出てきた他の生徒達も次々と腰を抜かし、這いつくばり逃げ惑う。
学園側は事前の講義で「授業を正しく聞いていれば、この程度の低級ヴィルヘルなど簡単に対処できる」と豪語していた。
だが、生まれて初めて嗅ぐ本物の死の匂いと、迫り来るヴィルヘルの恐ろしい姿を前に、冷静に魔法式を構築し行使できる学生など皆無に等しかった。
絶望的なパニックの中、エリカはただ一人、静かに一歩前に出た。
(……やるしかない)
右手に魔力を練り上げた瞬間、体の奥底から激しく狂暴な「殺意」がねっとりと湧き上がってくる。
――殺せ……目の前の魔物も、後ろで喚く無能な女たちも、すべて引き裂いてしまえ。
脳を焼き切るような悍ましい衝動。
だがエリカは、額に汗を滲ませながら、その衝動を気力で捻じ伏せ、極めて精密な魔導演算エネルギーへと強制的に変換した。
吹き抜ける風は、ほのかに『魔』を含み生暖かい。
神聖魔法を使えないエリカが、この心霊系魔物に対して選んだのは、光属性による「消去」だった。
「――《ルーメン・ヴォーゲン》」
エリカの澄んだ声が、凍りついた夜の森に響く。
本来、それは第一位階の初歩魔法であり、洞窟や建物内の暗闇を照らすための、単純な照明魔法に過ぎない。
しかし、エリカの内に秘められた規格外の純魔力が注ぎ込まれたそれは、全く別の何かへと変貌を遂げていた。
カッ……!!
エリカの周囲の空間に、幾重にも重なる幾何学的な白銀の多重魔法陣が展開された。
森の木々を真昼のように照らし出す、極めて純度の高い光の暴威。
それは強烈な破邪の光の本流となり、迫り来るヴィルヘルたちを飲み込んだ。
「ギィイイイッ!?」
霊的な魔物やそれに操られた死体たちは、エリカが放つ光の奔流に触れた瞬間、断末魔の悲鳴を上げる間もなくチリチリと灼かれ、一瞬にして霧散し消滅した。
あとに残ったのは、微かな破邪魔法独特の匂いと、深い静寂だけだった。
翌朝。
三人の女子生徒たちの態度は、まるで別人のように一変していた。
彼女たちの口から、直接的な深い謝罪の言葉こそなかった。
しかし、エリカの荷物を当然のように分担して持ち、すれ違う他班の生徒がエリカを中傷するような素振りを見せれば、真っ先に恐ろしい形相で睨みつけるようになったのだ。
圧倒的な魔力と、いかなる時も冷静さを失わないその姿……エリカは親友たちの力だけではなく、自らの勇気と実力も併せて、自分に向けられていた理不尽ないじめを完全に屈服させ、克服したのである。
二泊三日の実習を終え、演習場の出口ゲートを潜ったエリカの前に、見慣れた長身の姿があった。
ジュリアンだった。
彼は何も聞かず、泥と樹液でボロボロになったエリカの小さな頭に、無言で大きな手を置いた。
ジュリアンの神聖魔法でエリカの髪に付いた樹液が剥がれ落ちる。
「……よく、頑張ったな」
彼の手のひらから、温かく穏やかな精神負荷軽減魔法が流れ込んでくる。
昨夜の死闘で極限まで高ぶっていたエリカの心の波立ちと、燻っていた殺意の残滓が、春の雪解けのように優しく鎮められていった。
ジュリアンの手に縋るように目を閉じながら、エリカは静かに誓う。
いつか、王都の煌びやかな街で見かけた、あの赤いプリーツスカートを翻して颯爽と歩く魔導師のように。
自分の中に巣食うこの底知れぬ闇を、いつか必ず、誇り高く制御できる日が来ることを信じて。
九歳の魔導士は、王都の澄み切った青空の下、自らの足で確かな一歩を再び踏み出した。




