第22話 精神負荷軽減魔法という絆
王立魔導学園の初等部一年生。
一学期を終え、真新しい制服に身を包んだエリカ・ヴァインの手元に届けられた通知表は、学園の長い歴史においても類を見ない、極めて異質な数字の羅列であった。
『基礎魔法学科 10』
『人体魔法学 10』
『自然魔法科学 10』
『土木魔法学 10』
『魔物学 10』
『数学・科学魔法 10』
『魔導実施学 10』
『魔導力学 10』
『天体魔法学 10』
『神聖魔法学 10』
『暗黒魔法対応学 10』
『魔法加工学 10』
『政治・経済 5』
『歴史 5』
上質な羊皮紙に記されたそれは、魔導と理数に関わる全科目が最高評価の『10』という驚異的な結果を示していた。
九歳にして、数十式に及ぶ膨大な魔導数式を脳内で瞬時に展開・構築する彼女の「魔導演算」の処理速度は、高等部の優秀な生徒たちにすら遠く及ばない神域に達していた。
中でも特筆すべきは、未知の呪いや脅威に対処する『暗黒魔法対応学』において彼女が構築してみせた防御術式の完璧さであった。
教鞭をとるベテラン教授ですら、その緻密すぎる術式構成を前に言葉を失ったほどだ。
誰もが羨む、天才という名にふさわしい完璧な数字。
だが、その栄光の裏側で、エリカの心は声なき悲鳴を上げ続けていた。
授業で魔力を行使し、演算の精度を上げるたびに、脳裏をじゅっと焼き切るような強烈な「殺意」と、頭蓋が割れるような激しい頭痛が彼女を襲うのだ。
(殺せ……。全部、壊してしまえ……ッ)
どろりとした赤黒いノイズが、理性を浸食してくる。
それは、誇らしげに送り出してくれた村の両親や、自分を信じてくれた恩人であるガリアスには決して見せられない、おぞましい怪物の胎動だった。
天才と称賛されるたび、エリカは自らの内に巣食う化け物の恐ろしさに、一人震えるしかなかった。
しかし、その異変を鋭く見抜いていた男がいた。
魔導実施学の担当教師、ジュリアン・フォン・ランバートである。
元・魔導師団の辺境巡回役小隊長として数々の死線を潜り抜けてきた彼は、実戦演習中にエリカが魔法を放った一瞬に見せた、あの「瞳の赤い燐光」を見逃さなかった。
それは、彼がかつての凄惨な戦場で幾度となく目にしてきた、どんな悪辣な呪詛よりも禍々しい「何か」だった。
「エリカ。放課後、特別実習室へ来なさい」
ある日の授業後、ジュリアンは静かに、だが有無を言わせぬ響きでそう告げた。
「……君の、その『瞳の奥』を、一度詳しく見させてもらいたい」
夕陽が斜めに差し込む放課後の特別実習室は、埃一つなく静まり返っていた。
エリカが重い木扉を開けると、そこにはジュリアンと共に、見慣れない少年の姿があった。
彼の弟であり、類稀な聖魔法の資質を持つという少年、テオドールだった。
ジュリアンは、怯えたように肩を強張らせるエリカの前にしゃがみ込み、視線を合わせるようにして柔らかく微笑んだ。
「レディに対しては本当に申し訳ないのだが……背中を見せてくれないか?君の抱える『闇』を、私に見せて欲しいんだ」
その真摯な呼びかけに、エリカは小さく息を呑んだ。
(この人は、気付いている……)
震える指先で制服のリボンを解き、背中の布地をそっと下ろす。
白く華奢な少女の肌が、夕暮れの光に晒された。
ジュリアンは静かに息を整え、魔力を込めた指先でエリカの背に直接『破邪の魔法陣』を描き始めた。
淡い光の軌跡が、彼女の肌の上に複雑な幾何学模様を紡ぎ出す。
最後のルーンが書き上げられた、その瞬間だった。
「ッ……!?」
ジュリアンが構築した光の魔法陣を押し破るようにして、エリカの背中から黒い泥のような靄がドロリと溢れ出した。
特別実習室の空気が急激に凍りつき、底知れぬ闇の波動が部屋中を乱反射する。
鼓膜を圧迫するような、怨嗟の叫びにも似た冷たい風が吹き荒れた。
部屋全体を恐ろしいほどの圧迫感が包み込む。
「兄さん、これは……!」
「ああ。……ただ事ではない」
息を呑むテオドールと共に、ジュリアンは絶句した。
それは、彼らが想像していたような単純な呪いなどではなかった。
人類が安易に触れてはならない、あまりにも巨大で、途方もなく悍ましい「呪い」の塊だった。
ジュリアンはエリカの胸元の蒼い石に目を留める。
(蒼星霊輝魔眼石か……。しかし……これだけでは……これを身につけさせるということは、両親は知っているのだな……)
次の休息日。
「怖がらせてしまうかもしれないが、どうか許してほしい。……君の内に淀む『闇』の正体を知りたいんだ」
ジュリアンは、エリカの小さな両手を包み込むようにして語りかけた。
「君が九歳という若さで、たった一人でどれほどの苦痛に耐えているか。私に、その一端でも分かち合わせてはくれないか。うまくいけば、君を苦しみから解放してあげられるかもしれない」
その言葉を信じ、エリカはジュリアンについて行った――行き先は王都の中枢に聳え立つ白亜の大聖堂。
ランバート子爵家という貴族の威光を最大限に使い、教会が誇る最高位の極秘鑑定を仰ぐためだ。
ステンドグラスから七色の光が降り注ぐ厳かな祈りの間で、白衣を纏った上級司祭がエリカの前に立った。
しかし、司祭が魔導具を通してエリカの内に渦巻く闇の深淵を覗き込んだ途端、その顔は恐怖に激しく歪み、血の気が一瞬にして引き剥がされた。
「……た、対応は……不可能です」
司祭は後ずさり、震える声で呻いた。
「ジュリアン卿。これについては、今後一切他言してはなりません。……今すぐ、忘れなさい」
それは明らかな拒絶だった。
国家の暗部が秘匿するレベルの規格外の存在を、一介の子爵家や教会の司祭が扱えるはずもなかったのだ。
帰り道。
西日に長く伸びた自分の影が、石畳の上に黒々と落ちている。
教会の司祭にすら見放されたという絶望感が、エリカの小さな胸を締め付けた。
ポツリ、ポツリと、影の上に涙の染みが広がっていく。
声を殺して泣くエリカの傍らに、ジュリアンは静かに跪き、その華奢な肩に温かい手を置いた。
「精神負荷軽減魔法をかけよう。……根本的な解決にはならないが、少しはマシになるはずだ。これから、私が定期的に君にかけてあげよう」
ジュリアンが静謐な声で呪文を紡ぐ。
「――《メンゾ・コンティ・ハーティア(精神安定)》!」
第三位階の精神干渉魔法――彼の手から溢れ出した淡く清らかな光がエリカを包み込むと、頭蓋の内側から鼓動のように響く殺意と頭痛が、引潮のようにスーッと和らいでいった。
「……あ、痛くない。……静かです、先生」
涙に濡れたエリカの顔に、ようやく年相応のあどけない笑顔と安らぎが戻る。
その横で、黙って付き添っていたテオドールが、エリカの小さな手を、自身の骨が軋むほどに強く、強く握りしめた。
「……!」
慰めの言葉はなかった。
しかし、その掌から伝わる不器用なほどの熱さが、どんな甘い言葉よりも深く、エリカの孤独な心に染み渡っていった。
この日を境に、三人の距離は急速に縮まった。
ランバート兄弟は、過酷な運命に弄ばれるこの「呪われた天才」を、自らの命を懸けて守り抜くべき対象として、深く心に刻み込んだのである。
聖都に夏の風が吹き抜ける、一学期の終業日。
喧噪に包まれる校門の前で、親友のセレナとファミールが、憧れの眼差しで大通りを見つめていた。
「見て、今日も素敵……!あの赤いプリーツスカートに、磨き上げられた赤いブーツ。本当に見惚れてしまうわ」
「ええ。いつか私たちも、あの師団の赤を纏って、王都の平和を守るのよ」
誇り高く石畳を闊歩する、治安維持魔導師の赤い制服。
親友たちの弾むような声を聞きながら、エリカもまた、その目に「赤」を焼き付けていた。
(いつか……私の内にある、この『黒(呪い)』を、あの鮮やかな赤で焼き尽くしてもらえる日が来るかしら)
エリカはローブ越しに、胸元に下げた青い石のペンダントにそっと触れた。
この巨大な聖都のどこか、騎士団の詰め所で厳しい訓練に励んでいるはずの、九歳年上の彼――ライナスを想いながら。
そして、待ちに待った夏休み。
エリカは、ジュリアンとテオドールに温かく見送られ、護衛役の『赤』の若い隊員二人と共に、故郷アイナル村へと向かう長距離馬車に揺られていた。
数日後――青々とした草原の匂いを運ぶ風と共に、見慣れた村の景色が広がる。
村の入り口では、逞しい守護騎士のガリアスの他に、春よりも少し背の伸びた幼馴染のディオン、そして、目元を潤ませながら満面の笑みを浮かべる両親、マルコとアンナの姿があった。
「お帰り、エリカ。……よく頑張ったな」
ガリアスが、大きな手でエリカの頭を優しく撫でる。
その温もりと、故郷の穏やかな空気に触れた瞬間、エリカを常に苛んでいたどす黒い殺意は、嘘のように束の間の深い眠りについた。
九歳の天才少女が背負う、あまりにも過酷な運命。
王都で彼女の闇に寄り添い支えるランバート兄弟と、遠く騎士団の空の下で剣を振るうライナス。
そして、エリカを無条件の愛で包み込む故郷の家族たち。
それぞれの場所で結ばれた確かな絆が、彼女の歩む未来を、静かに、そして力強く守り始めていた。




