第21話 青春の断章
エリカが短剣を引き抜いたあの日から数ソル(日)。
パチッ、と焚き火の爆ぜる音が、フェルゼン・ハフト郊外の冷たい夜気を震わせた。
リュセアの月(五月)とは言え、まだ夜は寒い。
「ははっ!」
バハルが手入れを終えた軽ハルバードを掲げ、獰猛かつ快活な笑い声を上げる。
「もうすぐ目標の金に届くぜ。この調子なら、あと少しの辛抱だな」
その言葉に、水の短聖杖を磨いていたライナスも静かに頷いた。
「ええ。あと三ソル、といったところでしょうか。……気を抜かずにいきましょう」
「リュセアの月、十八日……」
エリカは『雪飛龍のマント』をきゅっと引き寄せながら、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「ちょうど、魔導祭の日になるわね。今頃、聖都は色とりどりのランタンが飾られて、随分と賑やかになっているでしょうね」
どこか遠くを見るようなエリカの横顔に、ディオンがふと視線を向けた。
手にした黒鋼の細剣の刃を布で拭う手を止め、彼はかねてからの疑問を口にする。
「そういえばさ、エリカはものすごい魔力と、魔法の知識があるよね?それこそ、聖都の治安を守る『赤(女王直轄魔導師団)』のエリートたちにも負けないくらいの……。確か、魔法学園を飛び級で卒業したとは聞いていたけど、一体どういう学生生活を送ってたんだ?」
ディオンが言い終わる前に、エリカはふふっ、と鈴を転がすようにクスクスと笑い声を漏らした。
「私の過去が知りたいのね?学園……そうね、色々なことがあったけれど、楽しくて、かけがえのない青春だったわ。……ちょっと長くなるけれど。ここから……お金が貯まるまでの三ソル(三日)かけて話すから、聞いてくれるかしら?」
エリカは膝を抱え、パチパチと燃えるオレンジ色の炎を見つめながら、静かに記憶の糸をたぐり寄せた。
「そう……あれは、ガリアス様が我が家に来た日のことよ」
どこからか漂う春の土の匂いと、淡い茜色に染まる夕暮れ。
それが、エリカの記憶に残るアイナル村の原風景だった。
村の守護職であり、誰からも慕われていたアイナル村守護騎士ガリアスがエリカの家を訪れたのは、そんな穏やかな春の日のことだ。
彼は大きな手のひらで、三歳で恐ろしい悪霊に取り憑かれ、未だ癒えない傷を抱えるエリカの小さな頭を優しく撫でた。
「エリカ。お前は、自分の力が周りの子たちよりも少しだけ強いことに気づいているね?」
ガリアスの声は、春の陽だまりのように温かかった。
「それは呪いなどではない。神様がくれた、素晴らしい贈り物だ。お前ならきっと、聖都の学園でその力を律し、多くの人を救う術を見つけられるはずだ。……行かないか?私は、お前に最高の学び舎を用意してやりたいんだ」
今考えると、ガリアスはエリカの奥底に潜むどす黒い闇を確かに察知していたはずだ。
それでも彼は、恐怖ではなく希望を語り、一人の魔導師としての無限の可能性を心から祝福してくれた。
その夜、両親であるマルコとアンナは、平民という仮面の裏で一族の重い宿命を噛み締めながら、ただただ涙を流した。
呪われた運命から愛娘を解き放つため、彼らは身を切られるような思いでエリカを聖都へ送り出す決意をしたのである。
そして迎えた、出発の朝。
朝靄煙る村の入り口で、見送りに来ていたライナスが、エリカの小さな手をそっと包み込んだ。
「エリカ。これを持って行って」
彼が開いた掌には、朝日に透ける美しい「青い石のペンダント」があった。
「きれい……これって?」
「これは、僕たちの家系に伝わる安定石だ。……もし、向こうで困ったことがあったら、これを見てほしい。僕たちも、父上も、遠く離れていても、みんな君の味方だからね」
まだ少しだけ背の高い優しい兄のような存在からの、温かなお守り。
エリカはその青い石を胸に固く抱きしめ、頬を赤く染めると、振り返ることなく迎えに来た『赤』の二人と共に村を出た。
九歳の呪われた少女は、希望に満ち溢れて白亜に輝く王立魔導学園の重厚な門を叩いた。
聖都の空は高く、学園の石造りの校舎はどこまでも荘厳だった。
入学試験の会場――数百人の受験生と試験官が見守る中、九歳のエリカが中央に置かれた身の丈ほどもある魔力測定用の純水晶に触れた、その瞬間だった。
――カッ!!
会場全体を白銀の閃光が飲み込んだ。
直後、ピキピキと不吉な亀裂音が響き渡り、規格外の魔力流に耐えきれなくなった巨大な結晶が、鼓膜を劈く音と共に粉々に砕け散ったのである。
「なっ……!?」
「ば、馬鹿な!魔法言語の詠唱も、複雑な術理の構築もなしに、ただ触れただけでこれほどの純魔力を……?!砕くのに必要な数値は?」
「魔力量五万エーテ、魔導出力九万アークまでは測定可能なはずです!!理論値の破壊強度は……十六万エーテです……」
「な……なんという……」
試験官たちが呆然と立ち尽くし、会場が水を打ったような静寂に包まれる中、エリカは九歳にして初等部1年生の特待生として、エリートが集うAクラスに配属された。
しかし、それは決して平穏な日々への切符ではなかった。
平民の出身でありながら、規格外の力で首席に君臨するエリカを、プライドの高い貴族の令嬢たちが許すはずもなかった。
彼女たちはエリカを「不気味な田舎娘」と蔑み、陰湿な嫌がらせを繰り返した。
上履きに泥を詰められ、平民の両親が死ぬ思いで費用を工面してくれた高価な教科書を、容赦なく噴水へ沈められる日々。
魔導の教科書など平民の年収に近い……両親がどんな想いで用意してくれたのだろうか。
そんな惨めな状況にあっても、エリカはガリアスや両親の期待を裏切るまいと、誰にも涙を見せず、一人でじっと耐え忍んでいた。
だが、そんな彼女の窮地を救ったのは、同じクラスの二人の少女だった。
「――あら。実力で勝てないからって、そんな卑怯な真似をするなんて。聖国貴族の恥だと思わないのかしら?情け無い……」
ある日、エリカを取り囲んで嘲笑う令嬢たちの前に、凛とした足音と共に割って入る者たちがいた。
見事な縦ロールの金髪を揺らす、伯爵家の令嬢セレナである。
「エリカの魔導演算能力は、私たちが百人束になっても届かないわ。こんな所で無駄な嫉妬に時間を費やしていないで、次の授業の予習でもしたらどう?」
セレナの隣でそう冷ややかに言い放ったのは、柔らかな微笑みの裏に鋭い知性を秘めた、名門子爵家の令嬢ファミールだった。
セレナは、エリカの濡れて泥の足跡が付いた教科書を取り上げると、周囲の令嬢たちの目の前で机に激しく叩きつけた。
すかさずファミールが、あらかじめ用意していた真新しい教科書をエリカの手に優しく持たせる。
魔導の大家たる古参伯爵家の令嬢と、魔導研究の第一人者である子爵家令嬢――この二人が明確にエリカの庇護者として立ち塞がった行動は、もはや「学園の子どものじゃれあい」という言い訳が通用しない、絶対的な階級社会における強烈な牽制を意味していた。
名門貴族である二人の毅然とした態度と加勢により、エリカへのいじめは瞬く間に沈静化した。
身分の壁を越え、彼女たち三人は「Aクラスの三才女」として、学園生活を共に歩む不滅の絆を結んだのである。
親友たちのおかげで、エリカの学園生活は表面上、花が咲いたように華やかなものになった。
しかし、陽光の裏には常に濃い影が落ちる。
エリカは一人、人知れぬ恐怖に震え続けていた。
授業で魔力を行使し、高度な魔導演算を展開するたび、脳裏の奥底から、どろりとした粘り気のある「闇」が湧き上がってくるのだ。
(……殺せ。すべて、壊してしまえ。その無能な教師の首を刎ねろ。隣で笑う友の心臓を抉り出せ)
それは自分のものではないはずの、純粋な殺意の囁き。
魔力を使えば使うほどその声は鮮明になり、自分の魂の輪郭が、おぞましい怪物へと書き換えられていくような悪寒に襲われる。
「う、うぅ……っ、ぁ……!」
放課後、夕陽が差し込む無人の実習室。
エリカは床にうずくまり、震える手で胸元を強く掻きむしりながら、内なる「それ」を必死に押し殺していた。
頭に響く呪詛をかき消すため、ひたすらに精密で高度な魔法回路の制御計算に没頭する。
(ダメ……抑えなきゃ……。私は、お父さんやお母さんを……私を信じてくれたガリアス様を、絶対に失望させたくない……!)
ある休日のこと。
エリカ、セレナ、ファミールの三人は、聖都の賑やかな石畳のメインストリートを歩いていた。
香ばしい焼き菓子の匂いや、大道芸人の奏でる陽気な音楽。
その時、ふと人波が割れ、三人の視線の先を闊歩する一団が現れた。
街を巡回する「女王直轄魔導師団治安維持大隊」――通称『赤』の魔導士たちだった。
「見て、エリカ!あの赤いマント、本当に素敵よね!」
セレナが目を輝かせ、憧憬の吐息を漏らした。
「腰に差した赤いサーベルも、小魔導ルビーが埋め込まれた赤い短魔法ロッドも……。あんな風に、赤いプリーツスカートを翻して王都を颯爽と歩くのが、私の夢なの!」
熱っぽく語るセレナに、ファミールも深く頷く。
「ええ。あの方たちは、師団の中でも選び抜かれたエリート中のエリート、治安維持担当の魔導師だわ。女子生徒の誰もが憧れる、最高に格好いいお仕事ね。私たちも、いつかあの中に……」
赤いマントを風になびかせ、誇り高く歩く魔導師たちの背中。
親友たちの無邪気な憧れを隣で聞きながら、エリカは自らの胸の奥で燻る、どす黒い「殺意」の熱を感じていた。
(……あの方たちのように。いつか私も、あんな風に誇り高く、この自分の中にある闇を……悪霊を、完全に振り払える日が来るのかしら)
エリカはローブ越しに、胸元に下げたライナスからの贈り物――青い石のペンダントを、祈るように強く握りしめた。
セレナとファミール……二人の親友の温かな光に支えられながらも、エリカは「魔力を行使するたびに殺意が湧く」という巨大な呪いとたった一人で向き合い、抗い続けていた。
いつか来るかもしれない破滅の足音に怯えながらも、彼女は一歩ずつ、懸命に魔導士としての牙を研ぎ澄ませていったのである。




