第20話 月光魔導の短剣
フェルゼン・ハフトに滞在してからの日々は、まさに血と泥、そして魔物の臓物に塗れた過酷なものだった。
目的の武具を手に入れる莫大な資金を稼ぐため、一行は毎朝、夜明けの白む空と共に狩猟ギルドへ赴いた。
壁に張り出された討伐クエストの羊皮紙を端から剥がしては、荒涼とした岩場や、乾いた風が吹き抜ける草原へと足を踏み入れる。
その日もまた、草いきれと獣の死臭が混じる平原で、幾度目かの死闘が繰り広げられていた。
「来るぞ、バハル!真正面だ!」
ディオンの鋭い声が響く。
地響きを立てて突進してくるのは、鋼鉄のような重厚な甲殻を持つ巨大犀虫、『グラン・ドルン』だった。
巨木の幹すら容易く粉砕するその質量兵器のごとき突進力は、まともに受ければ全身の骨が砕ける。
「応ッ!」
だが、身長二・四五ガルイ(メートル)を超える龍人のバハルは一歩も退かない。
黒鋼の大楯を、大地に根を張るように深く突き立てる。
強靭な両腕の筋肉が岩のように隆起し、褐色に日焼けした肌のあちこちに宿る龍の鱗が、土煙の中でギラリと鈍い光を放った。
ドゴォォォンッ!!
耳をつんざく凄まじい激突音と共に、バハルの足元の土がクレーターのように吹き飛んだ。
「ぐぅぅ……おおおおッ!」
大楯の裏で、バハルの太い腕の骨がミシミシと悲鳴を上げる。
だが、彼の獰猛な笑みは決して崩れなかった。
龍人の本能が、強敵との衝突に歓喜の雄叫びを上げている。
「今だ、ディオン!!」
「――任せろ!」
バハルが巨体の突進を完全に殺したその刹那、すでに空中に跳躍していたディオンが動いた。
父ガリアスから受け継いだ古代エルフの魔剣術。
引き絞られたバネのような細い体躯が空中で反転し、手にした黒鋼の細剣に魔力が流し込まれる。
彼の切れ長の赤い瞳が鋭く細められた。
視るべきは、鋼の甲殻同士が重なり合う、数セル(ミリ)の隙間。
「シッ!」
呼気と共に放たれた銀の閃光が、関節部へと寸分の狂いもなく吸い込まれる。
細剣に込められた魔力が内部で弾け、巨大犀虫は悲鳴を上げる間もなく、緑色の体液を噴水のように撒き散らして轟音と共に崩れ落ちた。
だが、息をつく暇もない。
濃厚な血の匂いに当てられ、新たなヴィルヘルの群れが風下から音もなく忍び寄っていた。
「ノルド・ラウム(伏撃猫獣)三匹、右の茂みから来るよ!……いえ、奥からモーラ・ティーゲ(六本脚豹獣)の群れも!」
アルベローゼが軽やかに木の上に身を翻し、澄んだ声を張り上げる。
彼女の長く美しい金髪のサイドテールが、草原の風に煽られて舞った。
ネーベル・クローエの革で作られた『冷狼のブーツ』が音もなく枝を蹴り、愛用の『黒魔樫の弓』がギリィッと軋みを上げて引き絞られる。
つがえられるのは、二種類の特殊な矢。
透明なガラスのように美しい矢尻を持つ『魔氷の矢』と、ジグザグの意匠が施されバチバチと微弱な火花を散らす『魔雷の矢』だ。
「えい!」
放たれた矢が空気を切り裂く――次々と放たれる魔雷の矢。
矢が先頭を走るモーラ・ティーゲの金属質の一本角の直近に命中する。
カン!カン!カン!
四匹目の脇腹に矢が命中した瞬間、青白い閃光が弾けた。
バチンッ!!
連鎖する強烈な放電が周囲の獣たちに伝播し、強烈な麻痺を引き起こす。
その硬直の隙を、氷の矢が次々と深々と射抜き、獣たちの重要部分の血液を瞬時に凍結させていった。
しかし、六本脚の豹型魔獣たちは驚異的な機動力で迂回を始め、あっという間に一行を扇状に包囲しつつあった。
十や二十ではない。群れ全体が、黒い波のように押し寄せてくる。
前衛で構え直すバハルとディオンだけでは、到底さばき切れない圧倒的な数だった。
(……やるしかない)
後方で戦況を見つめていたエリカは、覚悟を決め、氷のように滑らかな『雹雪木の杖』を真っ直ぐに構えた。
先端に鎮座する未研磨の蒼い輝石が、彼女の体内を巡る魔力に呼応して、吹雪のような冷気を放ち始める。
――魔法を行使すれば、強い殺意が芽生える。
自らの内に巣食う悪霊による、呪わしい霊障。
それを痛いほど理解していても、仲間を死なせるわけにはいかなかった。
「凍てつけ……!」
エリカの青ざめた唇から紡がれた詠唱と共に、大気が鳴動した。
「《フリョーズ・スプレング》!!」
杖の先端から極寒の嵐が吹き荒れ、迫り来るモーラ・ティーゲの前衛数頭を瞬時にして美しい氷像へと変える。
細胞の底まで凍りつく絶対的な威力の前に、群れの足がピタリと止まった。
さらにそれが瞬時に爆砕すると、鋭利な氷片が周囲に氷の刃を撒き散らす。
本能的な恐怖を悟った僅かに残った獣たちは、蜘蛛の子を散らすように荒野の奥へと退却していった。
静寂が戻った草原。
だが、エリカの「本当の戦い」はここからだった。
「あ……っ、ぁ……!」
カラン、と乾いた音を立てて杖を取り落とし、エリカはその場に膝をついた。
腰まで届く銀がかった金色の髪が、苦悶に身をよじる彼女の顔を覆い隠す。
――殺せ。
引き裂け――。
ライナスの肉を喰らえ。
頭の奥底で、悍ましく粘り気のある声が響く。
澄んだ緑色だった視界が、急速にドロドロとした血のような赤に染まっていく。
強大な魔法を行使した代償……爆発的に膨れ上がった『異常な殺人衝動』が、エリカの理性を内側から食い破ろうとしていた。
(殺したい……ッ!)
前衛から安堵の表情で戻ってくる、ディオンのあの赤い瞳を素手で抉り出したい。
心配そうに樹上から飛び降りて駆け寄ってくる、アルベローゼの口に火炎魔法を流し込んだら、どれだけの愉悦を楽しめるのだろう……。
愛しい仲間たちを、肉塊に変えたい。
(……嫌。嫌だ……!)
エリカの震える右手が、無意識に腰に帯びた『月光魔導の短剣』の柄を強く握りしめていた。
仲間を殺してしまうくらいなら、いっそこの刃で自らの喉を切り裂く。
そのために用意した、自殺用の短剣だ。
短剣を引き抜き、異常に震える指先に力がこもる。
首筋に当てようとするが、手が震えて戸惑ってしまう。
「エリカ!!」
短剣を持ったその手を、温かく、力強い手が上から包み込んだ。
ライナスだった。
彼は白銀に煌めく『水の短聖杖』を掲げ、震えるエリカの肩を抱き寄せるようにして、淀みなく神聖魔法の詠唱を紡ぐ。
「――《メンゾ・コンティ・ハーティア》(精神安定)!」
第三位階の精神干渉魔法――淡く清らかな光がライナスの杖から溢れ出し、エリカの冷え切った身体を温かく包み込む。
決して消耗が少ない魔導ではない。
暴れ狂っていた悪霊のどす黒い衝動が、波打ち際の砂が洗われるように、少しずつ、けれど確実に鎮静化していく。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ライナスは彼女の手から優しく短剣を引き抜く。
赤い視界が徐々に晴れ、エリカはライナスの腕の中で荒い息を吐いた。
冷たい汗が全身をびっしょりと濡らしている。
見上げると、銀の長髪を揺らすライナスが、悲痛なほどに優しい瞳で彼女を見つめていた。
その整った顔には、彼女の苦しみを代わってやれない己の無力さに対する、深い悔恨の念が刻まれている。
(……ライナス。あなたを、殺したくない。だから……)
歳の離れた彼に対する密かな恋慕。
彼の温もりに縋り付きたいと願う心。
しかし、自分の内に棲む化け物が、いつかこの優しい人を引き裂くかもしれないという幻影を見るたび、エリカはその想いを冷たい絶望の底へと封じ込めるしかなかった。
呪われた自分には、彼を愛する資格などないのだと。
「もう大丈夫ですよ、エリカ」
ライナスの穏やかな声が、エリカの耳元で祈りのように優しく響いた。
そっと肩に添えられた彼の温もりを感じながら、エリカは静かに瞳を閉じ、一筋の涙を零した。
(ごめんなさい……ライナス。私が完全にあの殺意に呑まれてしまったら、あなたを傷つける前に……この短剣を自身の喉に突き立てる日が、本当に来るかもしれない……)
いつでも自死を選べるようにと腰に帯びた『月光魔導の短剣』。
その冷たい重みを感じながら、エリカは声にならない謝罪を繰り返す。
(でも……、お願いライナス……強く抱きしめて欲しい……でも呪われた女にはそんな事許されない……)
一方、密かに彼女を愛する無力な男は、微かに震える彼女の背中を、ただ痛切な眼差しで見つめることしかできなかった。
本当ならば、今すぐこの両腕で愛する女性を強く抱きしめ、すべての絶望から救い出してやりたい。
しかし――彼女を傷つけまいと自身の恋心を封印しているライナスにとって……そして何より、近づきすぎれば彼女を困惑させるだけであると考えている彼にとって、想いのままに抱きしめることは、決して許されない行為だった。
その夜。
フェルゼン・ハフトから一ラインほど離れた野営地では、赤々と燃える薪がパチパチとはぜる音だけが静かに響いていた。
バハルは刃こぼれした愛用の軽ハルバードを、砥石で黙々と磨き上げている。
シュッ、シュッという硬質な研磨音が、夜の冷たい空気に溶けていく。
ディオンは煤や獣の脂で汚れた黒鋼の軽盾を布で丁寧に拭い、アルベローゼは火のそばで矢の羽根の乱れを一つずつ整えながら、時折、ディオンの真剣な横顔を盗み見てはほんのりと頬を染めていた。
エリカは、青白い輝きを放つ『雪飛龍のマント』に身をくるみながら、燃え盛る焚き火の炎をじっと見つめていた。
炎の揺らめきを映す緑色の瞳の奥には、今日も戦場で必死に抑え込んだ「殺意」の残滓が、冷たい泥のように澱んでいる。
「今日の稼ぎは……魔物の素材と討伐報酬を合わせて、4ノアと20シェルといったところですね」
ライナスが皮袋の中で硬貨をジャラリと鳴らしながら、静かに告げた。
「全員分の目当ての装備を買うには、まだまだ程遠い。このペースだと、あと数日はフェルゼン・ハフトに留まることになりそうです」
「へっ、上等だ。明日も明後日も、狩り殺してやるぜ……。あ、メシは足りそうか?」
バハルが砥石を置き、獰猛な顔を見せて笑う。
ディオンもまた、疲労の滲む顔に無理やり軽い笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「そうだね。いくらでも稼いでみせるさ」
頼もしい仲間たちの言葉に、エリカは小さく息を吐いてから口を開いた。
「ええ。でも、明日の昼を過ぎたら一度街へ帰るわ。物資の補充と、十分な休憩が必要だもの。アルベローゼ、矢の残りはどう?」
「うーん、普通の矢はまだあるんだけど、『魔雷の矢』があと二本しかないかな」
矢筒を確認したアルベローゼの答えに、ライナスが少しだけ眉をひそめる。
「群れを相手にする際、魔雷の矢がないのは危険ですね。エリカ、明日はもう少し早めに切り上げませんか?」
「そうね、午前中のうちには街へ戻りましょう。ギルドの依頼が増えていないか確認して、武具の修理、それから体の調整……。明後日の朝から、また戦いを始めるわよ」
終わりの見えない死闘……精神を削り、魂をすり減らす魔法の代償。
それでも彼らは、決して立ち止まらない。
エリカとディオンの内に潜む、この忌まわしい呪いを解く手がかりを見つけるため。
世界の英知が集う聖都の『聖図書館』へと至る、遥かなる旅路のために。
フェルゼン・ハフトの薄暗く煤けた空の下。
泥と血にまみれた濃厚な日々は、彼らの見えない絆と刃を、より一層鋭く、強靭に研ぎ澄ましていった。




