第19話 耐え難き逡巡
巨大な高炉から絶え間なく吐き出される黒煙が空を覆い、街全体が薄暗い熱気に包まれている。
ここは職人と武具の街、フェルゼン・ハフト。
路地を抜けるたびに、ツンと鼻を突くなめし革の独特な匂いと、カンカンと鉄を打つ重厚な音が鼓膜を震わせた。
朝、宿を出た一行がまず足を踏み入れたのは、喧騒に包まれた冒険者ギルドだった。
激闘の末に手に入れたフリューゲル・ハストの嘴と羽、そして道中で仕留めた数々の魔物の素材をカウンターに積み上げる。
初老の鑑定士は、無造作に置かれたそれらを見るなり、持っていた羽ペンを落としそうになった。
「……こりゃあ驚いた。正真正銘、本物のフリューゲル・ハストの嘴じゃないか。おまけにこの保存状態の良さたるや……傷一つない」
鑑定士は興奮冷めやらぬ様子でルーペを覗き込み、震える声で査定額を告げた。
「全部合わせて、20ノアでどうだい?」
その言葉に、バハルとアルベローゼが弾かれたように歓声を上げて、手を打ち合わせる。
この世界において、10アルク(銅貨)が子どもの小遣い程度、1シェル(銀貨)で昼食が食べられる。
それぞれ100枚で上位貨幣1枚分に換算されるのだ。
1ノア(金貨)ともなれば一般家庭にとっては決死の覚悟が必要な大出費であり、10ノアあれば高級な魔導具や屈強な馬すら手に入る。
1ヴェル(魔導金貨)に至っては、庶民が一生のうちに拝めるかどうかの大金だ。
それを踏まえれば、一度の査定で20ノアという額がどれほど破格の収入であるかは火を見るより明らかだった。
潤った懐の重みを感じながら、一行は意気揚々と装備を新調すべく鍛冶通りへと繰り出した。
熱気と煤にまみれた通りでは、あちらこちらから昨日見た顔のドワーフの職人たちが野太い声で叫び、自慢の武具を掲げては彼らを手招きしている。
店を巡るうちに、一行の目を釘付けにするいくつかの名品があった。
バハルの規格外の膂力にも耐えうるであろう、青白い冷気を纏った『フルム・ノルニル(凍結飛竜)の魔鉄斧』。
ディオンの細剣としてうってつけな、『アイゼン・イーゲル(鉄針山嵐)の魔鉱石から鍛えられた魔剣ヘルグリム』。
これは持ち主の魔力を流し込むことで威力が爆発的に跳ね上がる代物であり、ディオンの魔導剣術との相性は抜群だった。
アルベローゼが目を輝かせたのは、非金属の魔力素材で編まれた『ネーベル・ヴィスペ(霧灯精)の手甲』。
軽く、しなやかでありながら強大な魔法防御力を誇る強靭なそれは、弓使いの彼女に最適だ。
そしてライナスの目に留まったのは、希少金属ミスリルが緻密に編み込まれ、回復系神聖魔法の効果を増幅させる『聖星のローブ』。
さらに、物理と魔導の両面で最高水準の防御力を誇る、崖蜘蛛の甲殻と魔鉄合金を加工した『グラート・シュピンネの大鎧』もあった。
だが、何よりも彼らパーティー全員が熱望した品が一つあった――――『月光石のローブ』。
淡い真珠色の輝きを放つそのローブには、強力な精神の安寧効果が付与されている。
自らの内に巣食う悪霊の干渉と、底知れぬ殺意に苛まれているエリカにとって、それは何にも代えがたい救いになるはずだった。
丸一日かけて街を巡った夜。
安宿の一室で、酸味の強いドワーフ・ワインが入った木杯を傾けながら、彼らは机の上に全財産を並べて深い溜息をついていた。
「……私達の全財産は、これでも24ノア。今日見た中で一番安いのがバハルの大鎧だったけれど……それだけでも23ノアね。一番高い私のローブに至っては、36ノアだったわ」
蝋燭の火に照らされたエリカの横顔には、疲労と諦観が入り混じっていた。
「足りねぇな……全く足りねぇぞ……」
バハルが頭を掻きむしりながらうめく。
「とりあえず、一番安いバハルの鎧だけ買って、次の街に向かう?」
アルベローゼの提案に、腕を組んでいたライナスが静かに首を振った。
「次の大きな街、アクア・フェリスまではおよそ80ラインあります。定期馬車を使いますが、10ライン進むごとに2、3回はヴィルヘルの襲撃を覚悟しなければなりません。それに……定期馬車の規定で、護衛中に倒したヴィルヘルの素材はすべて馬車側の取り分になってしまいます。道中の稼ぎは期待できません」
「それに……」
エリカが言葉を継いだ。
「途中に経由するセーフ・フィカコの街は、武器や防具の類はあまり期待できないわ。聖都に近い分、巡回役の騎士団や魔法師団の警備が行き届いていて、冒険者の仕事自体が少ないの。必然的に自警団レベルの装備しか流通していないはずよ。……私たちの故郷、アイナル村よりも品揃えは悪いかもしれない」
部屋に重い沈黙が落ちた。
仲間たちの視線が、自然とリーダーであるエリカへと集まる。
彼女の決断を待っているのだ。
エリカは一つ深呼吸をし、力強い瞳で仲間たちを見渡した。
「稼ぎましょう。……ここで仕事をするわ」
「しばらく足止めを食うことになりますね……。ですが、そうですね。リーダーであるエリカが言うのなら、やりましょう。何より、このフェルゼン・ハフトで手に入る武具は、他では決して代えが利かない逸品ばかりですから」
ライナスが穏やかに微笑んで同意した。
その時だった。
空気を読まないバハルが、ふと疑問に思ったことを口にした。
「ところでよぅ……ディオンは平気なのか?エリカみたいに、急に殺意に飲まれたりしねぇのか?」
あまりにもデリケートな話題に、場が凍りつく。
ディオンは一瞬だけ目を伏せたが、すぐにいつものような軽い笑みを浮かべた。
「悪霊のせいで殺意は湧いてるさ……。特に、剣に魔力を通した後とかはね。でも、兄さんがその都度、精神安定魔法をかけてくれるから何とか保ってる。……それにさ、僕の中に入っているのはあくまで『悪霊の破片』だろ?一番苦しんでるエリカの前で、僕が弱音なんて吐けるわけないじゃないか」
強がっているのは明白だった……ディオンの苦悶の表情や吐血は頻繁に見ているのだ……『エリカよりは少ない』ただそれだけである。
「私は、耐えているわけじゃないの……」
エリカが辛そうに言葉を紡ごうとした瞬間、バンッ!とテーブルを叩く音が響いた。
「ばか!バカバハル!!」
アルベローゼが立ち上がり、声を荒らげていた。
その大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が滲んでいる。
「そんなの……そんなの、みんな分かってるんだよ!分かってるから、誰も聞かないで必死に頑張ってるんじゃん!この、ばか!!」
彼女は「バシィッ!!」と、バハルの分厚い横っつらを思い切り引っ叩くと、そのまま奥の自分のベッドのある部屋へと逃げ込んでしまった。
しかし、ほんの数クロム(秒)後にはズンズンと戻ってきて、驚いているディオンの腕を強引に引き、彼ごとベッドの方へ引き摺り込んでいった。
バタン!と再び個室の扉が乱暴に閉まる。
あとに残されたバハルは、叩かれた頬を押さえながらバツが悪そうに肩をすくめた。
「バハル、私は気にしていないわ」
エリカが静かに口を開く。
「むしろ、腫れ物に触れるような扱いをされるほうが傷つくもの。……私は魔法を使うたび、心の中で全く違う『誰か』の意識が騒ぎ始める。知っているでしょう? でも……絶対に抑え込んでみせるわ。呑まれはしない」
「……すまねえ」
「だから、私はいいんだってば」
エリカはそう言って、微かに微笑んでみせた。
その気丈なエリカの手は異常なほど震えていた。
翌朝。
軍資金を蓄えるため、一行は狩猟ギルドから依頼を引き受け、鉱山近くに出没しているヴィルヘルたちの討伐へと向かった。
エリカの内に秘めた心配をよそに、戦場でのパーティーの連携はいつも以上に冴え渡っていた。
荒涼とした岩肌を蹴り、巨大な『アイゼン・エクセ(鱗蜥蜴)』が襲い掛かってくる。
ディオンは、亡き父から受け継いだ鋭く美しい剣筋で蜥蜴の攻撃をいなし、前線に立つ。
ライナスは、その後方から呼吸をするかのような自然さで神聖魔術の支援を織り交ぜ、弟を的確に援護していた。
ギチギチギチッ……!
耳障りな鳴き声を響かせながら、鋼のように硬質な皮膚を持つ巨大蜥蜴――ヴィルヘルの群れが、渓谷の岩肌を埋め尽くすように押し寄せてきた。
その数は優に五十を超えている。
巨大な爪が岩を削る音が不気味に木霊し、むせ返るような獣の死臭が風に乗って鼻腔を突いた。
だが、迫り来る絶望的な暴力の波を前にしても、一行の間に焦りの色は微塵もなかった。
「『大量発生討伐依頼』か…確かに多いな。アルベローゼ、先制を頼む!」
「言われなくても! いっくよー!」
ディオンの鋭い声に呼応し、アルベローゼが背負った黒魔樫の弓を構える。
彼女の指先に番えられたのは、ジグザグの意匠が施された『魔雷の矢』だ。
放たれた一矢が群れの中央に突き刺さる。
次々に放たれる魔雷の矢。
五発目の矢が突き刺さる――――パチンッ……ふと放電の音が響いた。
バチッ!!バチッ――ヴァガガガガガッ――!!
次の瞬間、着弾点を中心に鼓膜を破るような轟音が響き、凄まじい連鎖放電が周囲のヴィルヘルたちを黒焦げにして吹き飛ばした。
「ふふん!金属にはこれね」
「ガハハハッ!ド派手な花火だぜ!次は俺の番だ、束になってかかってきなァ!」
巨体を誇るバハルが、咆哮と共に前線へ躍り出る。
群れから飛び出してきた巨大な蜥蜴の突進を、構えた黒鋼の大盾で真正面から受け止める。
ドゴォォンッ! と、大岩同士が激突したような衝撃音が響くが、龍人の巨躯は一歩たりとも退かない。
「ディオン!背中は任せたぞ!」
「ああ、信じてるよ、バハル!」
バハルの生み出した死角から、ディオンが電光石火の踏み込みを見せる。
彼の手にある黒鋼の細剣には、すでに一族秘伝の古代エルフ言語魔法が宿っていた――。
「《マギ・アンベル・ヴェルン(純魔力・刀身増幅)》」
細剣の刀身が青白い純粋魔力の光に包まれる。
ディオンの刃は、通常なら剣を弾き返すヴィルヘルの硬質な鱗の継ぎ目を、まるで濡れた紙のように滑らかに、深く、正確に切り裂いていった。
(くっ……少し、殺意が芽生えてるな)
返り血を浴びながら剣を振り抜くディオンの瞳の奥底に、禍々しい赤い光が揺らめいた。
ディオンの目尻から一条の血が流れる。
内に潜む『悪霊の破片』が、戦場の血の匂いと魔力に共鳴し、ただ無性に目の前のすべてを壊して殺したいという破壊衝動を呼び覚まそうとしている。
(でも、まだ大丈夫だ。僕は、狂わない……!)
奥歯を噛み締め、ディオンは内心の衝動を冷徹な意志で押さえ込む。
「《ルーメン・ストラール(聖光線)》!」
後方から響くライナスの穏やかで凛とした詠唱と共に、強烈な聖エネルギーの光線が眼前の蜥蜴の視界を奪う。
神聖魔法の中級術式を、無詠唱に近い速度で行使できるのは、彼の天才的な魔力制御の賜物だった。
そして――敵の群れが密集したその瞬間を、エリカは見逃さなかった。
彼女は手にした『雹雪木の杖』を高く掲げる。
先端に鎮座する蒼い輝石が、限界まで練り上げられた魔力に呼応してブリザードのような冷気を噴き出した――「《フリョーズ・スプレング(氷・爆裂)》!」
第三位階の戦術魔法……エリカの澄んだ声が響いた直後、ヴィルヘルの群れの中心に超高密度の氷塊が出現し、次の瞬間に大音響と共に炸裂した。
「ギギャァァァッ!」
鋭利な氷片が散弾のように撒き散らされ、鋭利な刃物のような欠片が残っていた数十匹の蜥蜴たちを一網打尽に串刺しにしていく。
雪飛龍のマントが魔力の余波で美しく翻った。
(……あ、あぁ……)
圧倒的な殲滅……しかし、その強力な魔法を行使した代償として、エリカの脳髄にどす黒い『悪霊』の意志が泥のようにへばりついてきた。
――殺せ。
もっと……そこにいるディオンの内臓を、その魔法でえぐり出してしまえ。アルベローゼの肉を砕け……。
(違う……やめて、殺したくない……ッ!)
エリカは震える手で杖を握り締め、腰に帯びた『月光魔導の短剣』に無意識に手が伸びそうになるのを、必死の深呼吸で押さえ込んだ。
「エリカ。素晴らしい威力でしたよ。もう、十分です」
背後から、ライナスがふわりと雪飛龍のマントを揺らして近づき、彼女の震える肩にそっと手を置いた。
その温かな精神安定魔法と、彼から香る落ち着いた匂いが、エリカの心に渦巻く殺意をスーッと溶かしていく。
戦闘が終われば、ディオンの瞳の赤光もスッと鳴りを潜めていた。
夕暮れ時……血と泥に汚れた互いの武具を布で拭いながら、バハルが豪快に笑う。
「いやぁ、今日のディオンの剣捌きはキレてたな!俺の盾の影から飛び出してくるタイミング、完璧だったぜ!」
「バハルが全部受け止めてくれるからな。安心して飛び込めるんだ」
笑い合う二人の背中には、数え切れないほどの死線を共に越え、互いの闇すらも分かち合ってきた者同士の、分厚く深い信頼が確かに漂っていた。
(……ったく、あんな顔で笑って。あんなの、反則だってば……)
その光景を少し離れた場所から見つめていたアルベローゼは、真剣な眼差しで死地を駆け抜け、今は無邪気に笑うディオンの姿に、思わず見惚れてしまっていた。
急に自分の顔がカッと熱くなるのを感じ、慌てて弓の弦を直すふりをして視線を足元に逸らす。
隠しきれない淡い恋心が、フェルゼン・ハフトに吹く乾いた風に優しく揺れていた。
深夜の宿屋。
窓辺から差し込む青白い月明かりの下で、ひとり深い思索の淵に沈む者がいた――ライナスである。
彼は、ベッドで静かな寝息を立てるエリカの横顔を、痛切な眼差しで見つめていた。
ほんの少し前、彼女はひどく怯えたような瞳で、「寝る前に精神安定の魔法をかけてほしい」とライナスへ懇願したのだ。
《メンゾ・コンティ・ハーティア》――精神の暴走を鎮めるその術式を受けて、ようやく彼女は眠りにつくことができた。
普段の清らかで優しい人柄を映したような、無防備で穏やかな寝顔。
それを見下ろしながら、ライナスは彼女が胸の奥底で、どれほどの『悪霊』の疼きと孤独に耐え続けているのかを想い、身を切られるような痛みを覚えていた。
戦闘中、エリカの瞳に時折閃く、あの禍々しいまでに赤く冷酷な殺意。
今はまだ、彼女自身の強靭な精神力でギリギリのところで抑え込んでいるが、もしもあのどす黒い衝動が、完全に彼女の意志を喰い破ってしまったとしたら……。
(……エリカ。あなたのその優しさが……その心が……いつかあの底知れぬ闇に呑み込まれてしまう日が来るのではないか。もし、本当にそんな時が来てしまったら、私は……私はどう振る舞うべきなのでしょうか)
暴走した彼女を、力ずくで止める?
いや――この希代の魔導の天才たる彼女が完全に理性を失い、その絶大な魔力を振るった時、誰の手にも止められるわけがない。
(……では、殺す?これほど大切に想うあなたを、この手で?……そんなこと、出来るわけがない……ッ!)
ライナスの胸中に渦巻くのは、漠然とした、けれど決して目を背けることのできない明確な破滅の予感だった。
彼はそっと懐に手を入れると、そこにある一筋の希望――『カスパールへの紹介状』に触れた。
「旅を……急がねばなりません……」
布越しに分厚い羊皮紙を握りしめる彼の指先は、微かに、けれどどうしようもなく激しく震えていた。




