第16話 平穏を歩く
長年の煤で黒ずんだオーク材の床が重々しく軋む音と、黒と琥珀の中間色であるホビット・エール特有の酸い香りが入り混じる大衆酒場。
一行がようやく確保できたその宿は、決して豪奢とは言えない古びた建物だったが、長旅で纏った土埃を落とし、冷え切った体を温めるには十分すぎるほどの安堵感があった。
無数の傷が刻まれた丸テーブルの上には、薪火でワイルドに焼き上げた後、店主こだわりの黄色いソースがかけられた大ぶりの肉料理と、湯気を立てる素朴な豆の煮込みが並んでいる。
刃物を振り回して喧嘩をする事が多いドワーフの酒場らしく、店のあちらこちらには物騒な痕跡が残る。
聖都の高級レストランの晩餐には遠く及ばないだろうが、命を削るような過酷な道中を越えてきた彼らにとっては、胃袋と心を満たす最高のご褒美であった。
喧騒と熱気に包まれた店内にあって、バハルだけは背中に担いだ巨大な荷物から決して手を離そうとしなかった。
厚手の麻布で厳重に包まれているが、その中には先の戦いで得た高額な魔物の素材がぎっしりと詰まっている。
酔客に紛れて不用意に手放せば、あっという間に盗難の憂き目に遭うのは火を見るより明らかだったからだ。
もちろん、施錠したとはいえ、誰もいない宿の部屋に置いてくるなど論外である。
そもそも冒険者というものは、誰もが武装したまま酒を飲む。
一時的とはいえ、己の命を保障する装備を手放して宿などに置いておくことなどできないからだ。
宿の部屋から高額な装備が盗まれるなどはザラである。
そのため、テーブル脇にハルバードや大剣、大型槍などを立てかけられるように作られているのは、どこの街の酒場でも変わらない光景であった。
宿で冒険者の装備を狙った盗賊が、その場で返り討ちに遭って斬られる……たまにあるそんな光景を見たことがなければ、それはルーキー(新米)の証である。
その荷物の処遇について、彼らは今日の夕方、街の入り口でひとつの忠告を受けていた。
茜色に染まる石畳の街道を歩いていた際、通りすがりの『赤』――すなわち、聖王国治安維持魔導大隊の隊員に声をかけられたのだ。
真紅のマントと赤い一揃えの軍服を身に纏ったその長髪の女性隊員は、すれ違いざまにエリカの顔を見るなり、信じられないものを見たかのように目を丸くした。
「あれ?エリカ?……嘘、久しぶりね!あなた、今は冒険者をやっているの?」
彼女の珍しい翠色の髪には赤い夕陽が差し込んでいた。
「あら……ドロシー!本当に久しぶりね。魔導学園の卒業式以来じゃない」
思いがけない旧友との再会に、エリカの顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
しかし、ドロシーと呼ばれた女性の驚きは一向に収まらなかった。
「まさか、あの飛び級の天才美少女が、泥臭い冒険者になっているだなんて……。ねえ、もし良かったら『赤』に入らない?私、こう見えても少尉なのよ!エリカならすぐにでも推薦できるわ!」
「ああ……ごめんね、ドロシー。気持ちはとても嬉しいけれど」
エリカは穏やかに、しかし芯のあるはっきりとした口調で首を振った。
「私は今は教師よ。この仕事が心底好きなの。……今はちょっと、個人的な理由があって旅をしているだけなのよ」
「そう……。教師なのね……魔導の天才エリカが、なんだか、凄くもったいないわ……」
心底残念そうに肩を落としたドロシーだったが、ふと、バハルが背負っている荷物の隙間に視線を止めた。
分厚い布の合わせ目から、金属質に鋭く輝く巨大な嘴が微かに覗いている。
『赤』の少尉として数々の現場を踏んできた彼女の目は、その素材の希少性と価値を一瞬で見抜いていた。
「じゃあ、せめてものクラスメイトからのお節介よ。治安の良い宿と、まともな酒場を紹介してあげるわ。それから……」
ドロシーはすっと声を潜め、周囲を警戒するように鋭い視線を配った。
「ここは革や木製品の加工技術は素晴らしいけれど、金属系の装備を買うのは絶対にやめておいたほうが良いわ。何せ、近くに有名な鋼鉄の街『フェルゼン・ハフト』があるんだもの。ここの金属品はどうしても見劣りするわ」
さらに彼女は、バハルの背中の荷物を顎でしゃくってみせた。
「それに、その嘴……。間違っても、この街のギルドで売っちゃダメよ。産地で特産品を叩き売りするようなものだわ。出来れば聖都、早くお金が欲しいにしても、せめてフェルゼン・ハフトの巨大ギルドで売りなさい。足元を見られるわよ」
その温かいアドバイスに従い、一行は現在、紹介された宿の酒場で明日の予定を練り直しているところだった。
「というわけで、明日は杖と革製品の武具店をメインに巡りましょう。……私とライナスの補強防具がどうしても欲しいの。今だと不意の一撃で私たちは死ぬわ。それに杖……。でも、ここは魔導の街というわけではないから、良い杖があるかどうか……」
エリカが豆のシチューレをスプーンでゆっくりとかき混ぜながら、少し不安げに呟く。
「木製品は良いって、あのドロシーとかいう嬢ちゃんが言ってただろ?魔力をたっぷりと含んだ上質な木材の杖もあるんじゃねぇのか?」
ぬるくなったジョッキのエールを豪快に煽りながら、バハルが彼女の心配を笑い飛ばした。
「弓にはすっごくいい素材だよね。私、新しいの欲しいな!」
アルベローゼがピンと可愛いエルフ耳を立て、目を輝かせながらぴょんと身を乗り出す。
「ええ、確かに杖の芯材に魔力が含まれているものは好ましいですね。ですが、最も大事なのは魔力媒体として機能する『魔力結晶の品質』なのです。こればかりは、その街の魔導工房の職人の腕次第ということになりますね」
ライナスがひんやりとしたグラスの水に口をつけながら、指を立てて生真面目に解説すると、エリカも同意するように深く頷いた。
翌朝。
澄み渡る青空の下、活気に満ちた市場の喧騒が一行を包み込んだ。
風が石畳を優しく駆け抜けて、一行の服を優しく揺らす。
通りを歩けば、鑿や鉋で削られた木屑の爽やかな香りと、武具屋から漂う獣脂やなめし液の独特な匂いが鼻をくすぐる。
林立する武具店を巡る中、アルベローゼが真っ先に目をつけたのは、弓専門店のカウンター奥に飾られていた『黒魔樫の弓』だった。
「ふふん、いいでしょう?これ!」
彼女は誇らしげに真新しい弓を構える。
木材とは思えないような黒曜石のような深みのある光沢を放つ木肌には、風の精霊を模した流麗な蔦の意匠が彫り込まれており、グリップ部分には滑り止めの鱗がついたヴィルヘル革が丁寧に巻かれていた。
ギリリ、と弦を引き絞ると、空気を切るような鋭い音が鳴った。
「まだ少し弦が硬いけど、弾く音がすごくいいの。妥協を知らない頑固職人の逸品って感じがするわ」
続いて訪れた革店が軒を連ねる職人通りは、流石にこの街の特産というだけあって目を見張るほど品揃えが豊富だった。
アルベローゼは、アイゼン・ゲヴァイ(魔鹿)のなめし革で作られた短衣とスカートを揃えた。
深い森のような濃い緑色に染め上げられたその革は、指に吸い付くようなしなやかさを持ちながら、芯には強靭な弾力を秘めている。
裾にはエルフ族の魔除けを意味する幾何学模様の意匠が焼き印で施されており、可愛らしさと実用性が見事に両立していた。
さらに足元には、ネーベル・クローエ(冷狼)の革を使った『冷狼のブーツ』を選んだ。
内側には保温性の高い銀灰色の柔らかな毛皮が敷き詰められ、つま先には鋭い狼の爪を模した真鍮の飾りが鈍く光っている。
ふと見ると犬の足のようで可愛らしくも見える。
革の裁断面は特殊な魔力樹脂で滑らかに磨き上げられており、職人の腕の高さが窺えた。
エリカとライナスは、ほんのりと青白い輝きを放つヴィント・ドラッヘ(雪飛龍)の革を贅沢に使った『雪飛龍のマント』と、急所を守る軽胸当てを二人でお揃いで仕立てた。
マントの裏地には飛龍の鱗が魔銀糸で括り付けられており、羽織るとふわりと風を孕んで、まるで重さを感じさせない。
ライナスはエリカと共に薄暗い魔道具店で、長机の上に並べられた杖を吟味していた。
ライナスが選んだのは、透き通った水滴のような水属性の魔力結晶がはめ込まれた『水の短聖杖』だ。
白魔銀の金属糸が、まるで水流のように滑らかな曲線を描きながら魔力結晶を包み込む意匠が施されている。
散々唸りながら悩んだ末の購入だった。
一方のエリカは、氷のように滑らかな手触りを持つ『雹雪木の杖』を買い求めた。
一切の着色を持たない純白の木肌には、自然が生み出した霜結晶のような美しい木目が浮き出ており、先端には未研磨ながらも力強い冷気を放つ蒼い輝石が鎮座している。
「ディオンとバハルはいいの?」
エリカが気遣うように尋ねると、二人は揃って首を振った。
「僕は少し前に、黒鋼の装備を新調したばかりだからね。手入れもしているし十分だよ」
「俺もだ。お前ら、気にせず必要なものを買え」
その彼らが「新調した」と言っている黒鋼の鎧と盾は、グリフト・ヘラーでの激戦で引き裂け、凹み、ところどころが致命的に歪んでいた。
いかに良い武具を纏おうと、ヴィルヘルの攻撃は生半可なものではないのだ。
そのバハルの頼もしい言葉と、アルベローゼの「絶対お揃いにしようよ!」という強引な勧めもあり、遠慮していたエリカとライナスも結局、アルベローゼと同じネーベル・クローエの革を使った『冷狼のブーツ』を揃えることになった。
靴底には衝撃を和らげる厚手の緩衝材が仕込まれており、長旅で酷使する足元をしっかりと守ってくれそうだった。
さらに、上質な鳥の羽と木材が豊富な街ならではの恩恵もあった。
アルベローゼの矢筒には、通常の矢の他に多彩なバリエーションが追加された。
それらの鏃は魔力を含み、独特な形状をしている。
透明なガラスのように美しい『魔氷の矢』、ジグザグの意匠が施されバチバチと微弱な火花を散らす『魔雷の矢』、そして先端に絡みつくような緑色の模様が描かれた睡眠矢やスリットが刻まれた毒矢など、彼女の遊撃戦力は大幅に向上した。
その夜。
夕食を取るために訪れた裏路地の酒場の入り口で、一行はピタリと足を止めた。
ランプに照らされた木彫りの看板には『氷の魔鳥亭』と記され、ご丁寧に冷気を纏い、羽を広げて威嚇する、上半身が人間の女でありながらも凶暴な猛禽のレリーフまでが深く彫り込まれている。
「なんか……すっごく嫌なやつを思い出す店名だよね」
かつての死闘を思い出したのか、アルベローゼが顔を引きつらせて呟くと、全員が無言のまま、深く、重々しく頷いた。
気を取り直して薄暗い店内に入り、席につく。
ほどなくして温かい肉料理とホビット・エールが運ばれてくると、バハルがジョッキを置きながら口を開いた。
「全くだぜ……。ところで、この街の出発は明日でいいんだろ?次の目的地は、鉄の街だったか?」
「そうよ。次の街は『フェルゼン・ハフト』」
エリカが分厚いガラスの赤紫雫酒のグラスを揺らしながら答える。
「巨大な高炉から四六時中立ち上る黒々とした煙と、なめし革の独特な香りに包まれた、鉄と革とドワーフの街よ。すっごく規模が大きいんだから……。そこまで行けば、次からは定期馬車も出ているし、この街道を定期的に巡回する『水闇街道巡回騎士団』もいる。ヴィルヘルの出現率もグッと少なくなるわ」
「懐かしいですね……」
ライナスが、ランプの灯りを見つめながら昔を思い出すように目を細めた。
「あの街の酒場『黒鉄の拳』は、客のほとんどが鉄の匂いを染み込ませた屈強なドワーフなのです。彼らの殆どが職人なのですが、彼らと腹を割って杯を交わし、仲良くならないと、本当にいい武器は裏から出してくれない変わり者が多いのですよ。それに、聖国屈指の規模を誇る狩猟ギルドがあります。素材も高値で売れますし、冒険者向けの割の良い仕事も数多く斡旋している、非常に活気のある場所です」
「ねぇ、私たちってそれなりに急ぎの旅でしょ?わざわざ仕事なんてしなくてもいいんじゃない?」
アルベローゼが、隣に座るディオンの皿からちゃっかりとソーセージをフォークで掠め取りながら、無邪気に首を傾げた。
その屈託のない言葉に、エリカとライナスがスッと顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らした。
「……アルベローゼ。今日、みんなの装備をこだわりの意匠付きで一式揃えたわ……?もちろん、覚えているわよね?」
エリカの低く静かな声に、ディオンが全てを悟ったように苦笑いを浮かべる。
「その言い方で分かるよ、エリカ。……魔導杖とか、ヴィルヘル素材の特別な装備なんて、目が飛び出るほど高かったよね」
「その通りですよ……」
ライナスが深いため息交じりに眼鏡を押し上げた。
「バハルが背負っている嘴や羽……あの険しい山越えで命懸けで手に入れた素材の売値次第ではありますが、現状、我々の財布の紐はかなり厳しいと言わざるを得ません。端的に言って、現金は底をつきかけています」
「うそっ!じゃあ、フェルゼン・ハフトには少し長居して稼ぐことになりそうね……。ここから何ラインくらいあるの?」
アルベローゼはまた、ディオンの皿から齧りかけソーセージを抜き取る。
「道中は森が多いけれど、距離としては三ライン(キロ)といったところね。半ソル(半日)もかからないわ……」
エリカの答えに、ライナスが手元の手帳から暦を確認して言った。
「ちょうど、明日は『降神祭』に当たる日ですね」
その単語を聞いた瞬間、アルベローゼの猫のように動く耳がピクピクと跳ね、瞳にパッと星が輝いた。
「お祭り!?じゃあ、明日は早めに出発しようよ!」
「おう!確か降神祭ってのは、大きい街では料理や酒が一ソル(一日)だけ無料で振る舞われるんだったな?こいつは楽しみだ!」
バハルも拳をドンと突き上げて大賛成する。
「ディオン!私と二人で、一緒にお祭りを楽しむわよ!」
アルベローゼがディオンの腕にぎゅっと抱きつき、上目遣いで迫る。
端から見れば大胆に誘惑しているようにも見えるが、幼馴染である二人にしてみればいつもの事である。
しかし、彼女の顔は林檎のように赤く染まっていた。
ディオンは彼女の秘められた想いに気付いているのかいないのか、「はいはい、分かったよ、アルベローゼ」と、いつものような優しい苦笑いを浮かべてあっさりと了承した。
故郷の村にいた頃から、彼女はいつもディオンにくっついていた。
幼少期から変わらぬ近すぎる距離感が続いているのは、エルフ特有の距離感を持つ彼女の気質と、常にそれに合わせてやるディオンの性格が関係しているのかもしれない。
その初々しくも羨ましいやり取りを目の前で見ていたエリカは、テーブルの下でギュッと拳を握りしめ、小さく深呼吸をした。
(私だって……。恋……?……ううん……ただ一緒にお祭りを楽しむだけ……それだけでいいのよ……)
鼓動が早くなるのを感じながら、勇気を振り絞り、向かいに座るライナスに視線を向ける。
「あの、ライナス……。もし良かったら、明日の夜のお祭りは……その、私と……」
「よし、じゃあライナス!エリカ!明日は俺とお前らで、夜通し酒巡りツアーといこうぜぇ!!」
バンッ! とバハルが巨大な掌で机を叩き、酒場中に響き渡るような野太い大声で、エリカのありったけの勇気を振り絞った、ささやかな決意の言葉を完全に掻き消した。
「……え?」
エリカが呆然と口を開けたまま固まる中、ライナスはエリカの微かな乙女心など微塵も気が付かないまま、人の良さそうな笑顔で深く頷いた。
「仕方がありませんね。ええ、いいですよバハル。せっかくの降神祭ですし、たまには三人で一緒に大いに楽しみましょうか」
「おう!エリカもそれでいいよな!」
「……ええ、そう……そうね。すっごく、楽しみだわ……」
引きつった笑顔で頷くエリカの背中には、拭い去れない哀愁が漂っていた。
外を吹き抜ける冷たい夜風が、少しだけ酒場の隙間から入り込み、彼女の足元をすり抜けていった気がした。




