第15話 理の果てに共鳴する愛
エリカにかけられたライナスの優しい言葉……。
その言葉を遮るように、頭上の遥か高空から鼓膜を裂くような風切り音が轟いた。
「上だァッ!!」
バハルが咆哮とともに大盾を天高く掲げた。
直後、黒い落石のような物体が猛烈なスピードで急降下し、バハルの盾に激突した。
ズドォォォンッ!!
岩盤が砕けるような轟音。
バハルの巨体が沈み込み、足元の岩が蜘蛛の巣状にひび割れる。
「ぐぅぉぉぉっ……!お、重てえッ!!」
衝突の余波で舞い上がった土埃の中から姿を現したのは、翼長五ガルイ(五メートル)を超える巨大な猛禽『シュテルン・ファルケ』だった。
はるか上空からの急降下による運動エネルギーだけで、大型魔獣の骨すら粉砕する恐るべき一撃だ。
「バハルをペチャンコにする気!?させないよっ!」
アルベローゼが森の獣のような身のこなしで宙を舞い、鳥の巨大な翼の関節へ向けて素早く弓を引き絞る。
「ギャァァッ!」
矢を受けて痛みに怯み、再び空へ飛び上がろうとするシュテルン・ファルケ。
エリカは冷徹な眼差しで、再びひび割れた杖を持った掌に雷の魔力を収束させようとした。
この状態の杖で高位魔法を放てば、また制御が不安定になるのは間違いない……。
それでも、やるしかなかった。
「逃がさない。《ヴォルテクス・ストラール》……ッ!」
放とうとした瞬間、彼女の手が横から強引に掴まれた。
「いけません、エリカ!私の杖を!」
ライナスが自身の白銀の魔導杖を、エリカの手に強く押し付けた。
他者の……それも神聖魔法に特化した杖で通常攻撃魔法を制御するのは至難の業だ。
だが、エリカは一瞬目を見開いた後、彼の杖をきつく握り込み、強引に雷の魔力を通した。
細い雷光が白銀の杖を経由して一直線に射出され、飛び立とうとした巨鳥の腹部を正確に貫く。
断末魔の叫びとともに、鳥は黒こげの塊となって谷底へと消えていった。
「ふぅ……間一髪だったな。助かったぜ、エリカ、アルベローゼ」
バハルが痺れた腕を振りながら笑う。
「見事な反応でした。ですが、山はまだ我々を歓迎していないようですね」
ライナスが眼鏡の位置を直し、崖の壁面上部を見上げながら静かに警告した。
彼らが歩く崖道の真横。
垂直に切り立った岩壁の上部から、ダダダダダッという機関銃のような連続音が響き始めた。
「今度は何だ!?」
「『ガルム・シュペヒト』です!崖に巣食う魔鳥が、我々を狙って意図的に落石を起こしています!」
凄まじい速さの啄みで岩盤を砕き、崩落を誘発しているのだ。
ライナスの叫びをかき消すように、頭上から荷馬車ほどの大きさの巨岩が、雨あられとなって降り注いできた。
「くッ……!《エメ・エレ》!」
エリカが手にしたライナスの杖からとっさに圧縮した突風を放ち、落下する巨岩を吹き飛ばして軌道を逸らす。
しかし、足場が狭すぎて完全に回避することは不可能に近い。
「ライナス!」
「分かっています。《ロテラ・テクト・バリエル》!」
杖をエリカに預けているライナスは、躊躇うことなく腰に帯びたミスリル(魔導金属)の短サーベルを抜き放ち、空間に魔導文字を高速で走らせた。
ライナスはこのサーベルを媒体としても魔法を行使できる。
一族の秘術である古代エルフ言語魔法だ。
肉体への凄まじい魔力負荷に耐えながら展開された土属性の魔導障壁が、一行の頭上を覆う。
巨岩が次々と障壁に激突し、物理衝撃に反応して硬化した障壁が火花を散らして防ぎ切る。
だが、魔物たちの連携はそれだけではなかった。
落石の轟音と土埃に紛れ、崖の壁面そのものが波打つように動き出したのだ。
「岩が……動いた!?」
アルベローゼが悲鳴を上げる。
灰色の岩肌と見分けがつかないほどの完璧な保護色……。
垂直の崖に張り付いていたのは、大型岩狼の群れ『ベルク・ヴォルフ』だった。
足裏の特殊な肉球で壁面に吸い付く彼らは、重力を無視して崖を駆け下り、防壁の死角から直接一行の喉元へと飛びかかってきた。
「数は十……いや、十五!挟撃だ!」
ディオンが黒鋼の細剣を引き抜き、空中から肉薄した岩狼の眼窩を正確に貫く。
バハルが盾を振り回して二頭を谷底へ叩き落とすが、圧倒的な数と地形の不利が彼らを追い詰める。
一頭の岩狼が、エリカの死角からその白刃のような牙を剥き出しにして迫った。
(間に合わない……!)
エリカが杖を振り向けようとしたその瞬間、彼女の背中に、ひだまりのように温かい背中がピタリと合わさった。
「エリカ、前方をお願いします。後方は私が」
耳元をくすぐる穏やかな声――ライナスだ。
彼はエリカの背中を守るように、己の身体を盾として立ち塞がると、迫り来る岩狼に向けて短サーベルで空間に素早く刻んだ術式から、風属性の衝撃波を放ち、空中で見事に吹き飛ばした。
風の塊が狼を岩肌に打ち付け、骨を無残に砕く。
エリカが鋭い号令を響かせた。
「全員、私の射線から退いて!焼き払うわ!!」
借り受けた白銀の杖の先端に、圧縮された灼熱の魔力が顕現する。
昨夜の呪いの暴走の恐怖はまだ残っているが、今は彼の背中の温もりが、エリカの理性を確固たるものに繋ぎ止めていた。
「《フラグメ・バルセス・ストラール》!!」
第四位階魔法の強大な力が解放される。
崖道を舐めるように放たれた巨大な火炎光線が、残りの岩狼たちを壁面ごと丸焼きにする。
砦ほどの大きさの火炎が断崖を一瞬青白く染め上げた。
断末魔の遠吠えが谷に響き渡り、やがて岩の焦げる匂いとすえた獣の脂の匂いだけが残された。
「……やりすぎですよ、エリカ……私の杖も壊す気ですか」
ライナスが背中を合わせたまま、少しだけ楽しそうな声で呟く。
「ごめんなさい……でも結果オーライでしょ?」
エリカはすぐにはその温かな背中から離れられなかった。
治療という名の言葉を交わさない愛の儀式、精神安定魔法―――― 《メンゾ・コンティ・ハーティア》……エリカはライナスの背中にもたれたまま目を閉じる。
彼もまた、何も言わずに数秒間、その心地よい重みを受け止めていた。
戦場という極限の状況下でしか許されない、二人だけの密やかな接触……。
その短い余韻を断ち切るように、バハルの豪快な声が飛んできた。
「おいおい二人とも、イチャついてる暇はねえぞ!道が下りになってる。この凍った道を抜けないと街へは行けねえみてぇだ!」
「イ、イチャついてなんかいないわよッ!」
カッと耳まで赤くしたエリカが慌ててライナスから離れ、杖をライナスに押し付けると前方を睨みつける。
ライナスは誰にも見えないように楽しそうな笑顔を浮かべ、再び歩き出した仲間たちの後を追った。
崖道を下り、すり鉢状になった薄暗い谷底へ足を踏み入れた途端、周囲の空気が一変した。
肌を刺すような極寒……そして、視界を数ガルイ先まで真っ白に染め上げる濃霧が、まるで生き物のように谷底から湧き上がってきたのだ。
「なんだこれ……急に前が見えなくなったぞ!」
「気を付けて!ただの山霧じゃない……この霧、自然じゃないよ!」
アルベローゼが耳をピクピクと動かしながら身構える。
隣にいるディオンも身を屈め、周囲を警戒した。
その時、霧の奥からフワフワと青白い発光体が複数現れた。
「え?綺麗……。おいで、おいで……」
気を張っていた筈のアルベローゼが、ふらふらとその光に向かって歩き出そうとする。
「アルベローゼ、目を覚ませ!!」
ディオンが咄嗟に彼女の腕を強く引き寄せた。
直後、アルベローゼが足を踏み出そうとしていた場所の霧が晴れ、そこが底なしのクレバスであったことが露わになる。
ぱっくりと口を開けた裂け目は、覗き込んでも全く底が見えない。
尻もちをついたアルベローゼの足元から、砕けた薄い氷が雪と共に奈落へと崩れ落ちていった。
「ひっ……!?」
「『ネーベル・ヴィスペ』です!旅人を幻惑して断崖へ誘い込む浮遊する魔物……それに、この急激な冷気は……!」
ライナスの言葉を裏付けるように、足元の岩盤がピキピキと音を立てて凍りつき始めた。
霧の奥から現れたのは、巨大な四つのシルエット。
濃霧に紛れる巨大な白狼、『ネーベル・クローエ』の群れだった。
彼らの吐息は強烈な冷気を帯びており、獲物の足元を凍らせて機動力を奪い、なぶり殺しにするという狩猟を行う。
「グルルルゥゥ……」
低い唸り声とともに、四方向から同時に白狼が飛びかかってきた。視界ゼロの中での死角からの同時攻撃。
「させねえよ!!」
バハルが大盾を地面に突き立てて壁となり、ディオンが白狼の鼻先を斬り裂く。
エリカが叫んだ。
「ライナス!視界を!」
短サーベルを納刀し、ライナスが叫んだ。
「《ルーメン・ストラール・リンゼル》!」
神聖な杖から周囲へ円環状の浄化光が放射され、谷底に充満する濃霧と幻惑の青白い光を一瞬にして吹き飛ばす。
隠れ蓑を失い、白日の下に晒されて目を細めるネーベル・クローエたち。
「そこよッ!」
エリカは身を翻し、ライナスが杖を握り締めるその両手の上から、自らの手を強く重ね合わせた。
エリカはライナスが杖を譲ってくれると思っていたが、次の詠唱を始めていたライナスが杖を離せるわけはない。
二人の魔力が一つの杖の中で瞬時に交じり合う。
多術者重詠唱魔法など、奇跡の御業である。
二人の魔導量誤差5エーテ未満、魔力密度誤差30ヴェイン未満、魔導出力誤差7アーク以下、魔導媒体への魔導伝導率92%以上と理論値にはある。
魔導学園のテストでも出る問題の一つ……再現は不可能――――不可能魔導の定説。
二人が放とうとしたのは第一位階の低レベル魔法だったが、瞬時に幾百重にも展開した魔法陣からは、氷を溶かすほどの純白の奔流が撃ち放たれた。
ドゴォォォォォォォォォォォォォオオオ!!!
山肌を穿ち、触れたものをただ消滅させる。
回避する間もなく、白狼たちは悲鳴を上げる暇すらなく……灰にすらならず……ただ、消滅した。
霧が完全に晴れ渡り、強烈な山風が谷底を吹き抜けていく。
目の前には、斜め上方に向けて直径40ガルイほどの大穴が口を開けていた。
「な……なんだよこれ……魔法ってもんじゃねぇぞ」
バハルが唖然として呟く。
「なになに……二人で魔法って重ねられるの?……そんなこと聞いたことないんだけど」
アルベローゼは信じられないとばかりに、ポカンと口を開けている。
「ああ……なんて事なの……純粋な……純魔力照射。ライナス……この現象、分かるわよね?」とエリカ。
「もちろんです……学説がひっくり返りますよ」
――――再現不能。
理論は存在しても、その条件を満たした記録は、歴史上一度として存在しなかった。
「もー!難しい事はいいの!お腹すいたし、ヴィルヘル居なくなったし、目の前が山の出口だよ!もう、雪もないしエルカリアの月(四月)に戻って来たよ!あー疲れた。肉肉!早く行くわよライナス!」とアルベローゼが急かす。
その時、ライナスの杖が音もなく粉塵と化して消え去った。
ライナスがクスクスと笑う。
「いいタイミングでした。新調させてもらいますよ」
「ええ……それにしてもあの理論値なんて、二人の気持ちが……いえ、魂そのものが同じでもない限り無理じゃない……」
エリカはそっとライナスの指先に触れる。
ライナスも、ゆっくりとエリカの指を包み込もうとする。
そこにディオンが声をかけた。
「兄さん、早く行こう。アルベローゼの胃袋がもたないらしいんだ」
二人の間の張り詰めていた空気が解け、エリカはライナスの手からパッと離れると、大きく息を吐き出して額の汗を拭った。
一緒に死線を越えた二人にだけ許された甘い時間は、ディオンの邪魔によって一クロム(一秒)で終わった。
「見ろよ!街だぜ!」
先頭を進んでいたバハルが、歓喜の声を上げて前方を指差す。
霧と岩壁の迷路を抜けた彼らの眼下に、ついにその威容が現れた。
険しい山腹を削り出して作られた、巨大にして堅牢な城塞都市。
山岳地帯へ向かう最後の補給基地であり、狩猟隊と山岳警備隊の拠点でもある『ベルク・ヴァッハ』だ。
幾重にも連なる分厚い石造りの城壁……無数の煙突から立ち上る活気ある黒煙。
そして、風にはためく警備隊の旗印。
それは、地獄のような『グリフト・ヘラー』の闇と、死と隣り合わせの山岳路を乗り越えてきた彼らにとって、何よりも美しい文明の象徴であった。
「にししっ!やったー、着いたぁー!!絶対に……絶対に一番高いお店でお肉食べるんだから!」
アルベローゼが両手を突き上げて歓喜のステップを踏む。
「ああ、アルベローゼ待ってくれ……兄さんとエリカがついていけていない」
「魔力欠乏?バハル!ライナスおぶって!」
「エリカは私におぶさりなさいよ。お腹空きすぎたんだから、早く行くの!」
アルベローゼの耳がピクピクと小刻みに動く。
ライナスとエリカが笑い合いながら、バハルとアルベローゼの背中を借りた。
エリカは風に吹かれながら、眼下に広がる街の景色を静かに見つめていた。
理論にはこうある……二人の術者の魂の魔力流すら同調する必要があると。
ふと、バハルに背負われたライナスが隣に並んだ。
「……素晴らしい連携でしたね、エリカ。この奇跡……私は生涯忘れる事はないでしょう」
彼が前を見たまま、静かに囁く。
「当たり前でしょ。……それに、あなただったからよ。……あれは魔法じゃないわ……」
エリカもまた、前を見たまま微かに微笑んで応えた。
(愛……の究極の到達点よ……)
エリカは何も言わない。
互いの視線は交わらない。
言葉の裏に隠した狂おしいほどの情熱と、相手への恋心にかけた重い封印を、それぞれ心の奥底に秘めたままで。
それでも、仲間に背負われながら夕闇の中を進む二人の肩は、先ほどよりもほんの少しだけ近づいていた。
アルベローゼとバハルは、赤い顔の二人を見てニヤリと笑っている。
ベルク・ヴァッハの重厚な城門が、過酷な旅を生き抜いた五人の英雄を迎え入れるように、ゆっくりと開かれていった。




