第14話 亡骸の眠らぬ白峰
巨大な洞窟『グリフト・ヘラー』の奥深く、硫黄の匂いと地熱に包まれた広間に、朝を告げる微かな青白い光が差し込み始めていた。
極寒の山岳地帯において、風穴を抜けてくる山の冷気は刃のように鋭いが、仲間たちが交代で番をした焚き火の残り火が、彼らの身体を優しく温めていた。
「よし、全員揃っているな。忘れ物はないか?」
巨漢の戦士バハルが、自身の身の丈ほどもある巨大な大盾を背負い直しながら声を張る。
彼の足元には、昨夜の死闘の末にアルベローゼが回収したフリューゲル・ハストの黄金の『嘴』と、鋭く湾曲した『魔導羽根』が、丈夫な麻袋に乱暴に詰め込まれていた。
「にしし!一番の宝物は私がちゃんと確保してるよ!さあ、早く街に行ってお肉食べよう!」
おてんばなエルフ少女アルベローゼが、軽やかに岩場を跳ねながら先頭に立つ。
その傍らで、ディオンが入念に愛用の武具の点検を終え、静かに頷いた。
「……体調は、大丈夫ですか?エリカ」
荷物を纏め終えたライナスが、静かな足取りでエリカの傍らへと歩み寄った。
長い銀髪を揺らし、簡素な神官服に身を包んだ彼の表情は、いつものように穏やかな微笑みを湛えている。
彼の視線の先には、エリカの手の中で魔導結晶が無残にひび割れた杖があった。
昨夜、限界を遥かに超えた魔力行使を強行した代償として、杖の中枢である魔導結晶が完全に焼き切れ、もはや使い物にならなくなってしまったのだ。
「ええ。誰かさんが過保護なほど丁寧に神聖魔法をかけてくれたから。……魔力回路の痛みもないわ」
エリカは、役に立たなくなった杖を手に持つと、少しだけ顔を背けながらそう答えた。
昨夜――悪霊の声に苛まれ、吐瀉物に塗れて這いつくばった自分を、彼は嫌な顔ひとつせず、自らの肉体を魔導媒体としてまで浄化し、そして湧水で介抱してくれた。
彼が背負ってくれた時の熱烈な体温と、耳元で囁かれた言葉。
それを思い出すだけで、首筋からカッと熱が這い上がってくるのを感じ、エリカはわざと冷たい風が吹き込む洞窟の出口へと早足で向かった。
ライナスはその背中を静かに見つめ、己の奥底で渦巻く『愛おしい』という激情をもう一度だけ鋼鉄の鎖で縛り付けると、完璧な神父の仮面を被り直して彼女の後に続いた。
洞窟を抜けると、そこは目を疑うほど峻厳な山岳地帯だった。
かつての『グリフト・ヘラー』の周辺――彼らの地図によれば、ここから次の目的地である城塞都市『ベルク・ヴァッハ』までは、直線距離にして僅か数ライン(キロ)に過ぎない。
山頂付近に立ち込めていた濃霧が、刃のように鋭い山風に撫でられてふわりと晴れた。
肌を刺す極寒の澄んだ空気の向こう、南側にそびえる切り立った尾根のさらに彼方――重く垂れ込めた灰色の空を焦がすように、一本の黒煙が微かに、しかし力強く立ち上っているのが見えた。
鉄とドワーフの街、城塞都市ベルク・ヴァッハ……その心臓部たる巨大な高炉が絶え間なく吐き出す、文明の息吹である。
「見えた……!ベルク・ヴァッハだよ!」
先頭を歩いていたアルベローゼが、吐く息を真っ白に染めながら歓声を上げた。
視界が開けた崖の縁から見下ろすその景色は、死と隣り合わせの過酷な旅を続けてきた一行にとって、何よりの希望であった。
直線距離にしてしまえば、ここから街まではさほど離れてはいない。
もしここが障害物のない、歩きやすい平坦な平原であったならば、一クロス(一時間)もかからずに到達できる程度の距離だ。
「ああ、すぐそこに見えるってのに……。道は最悪だな」
バハルが自身の身の丈ほどもある大楯を、雪と岩が混じる硬い地面に突き立てて深いため息をつく。
彼の言う通り、眼下に広がるのは幾重にも入り組んだ峡谷と、足を踏み外せば底すら見えない断崖絶壁の連なりだった。
目的地は目と鼻の先にあるように見えて、そこへ至る道は迷路のような迂回を強いてくる。
そして何より、ここはヴィルヘル(魔物)が跋扈する極寒の死地である。
吹きすさぶ風の音の隙間に、時折、何者かの獣じみた遠吠えや、硬い岩が爪で削られるような不気味な音が木霊していた。
「……それにしても、聖国屈指の難所と言われるにしては不気味なくらいに綺麗な道だな」
ディオンが足元の安定性を確かめながら、雪と剥き出しの岩肌に鋭い視線を落とした。
これほどの難所であり、未熟な冒険者や運の悪い行商人が数え切れないほど命を落としている危険地帯であるにもかかわらず、彼らが歩いてきた道中には、犠牲者の痕跡が全く存在しなかった。
朽ちた荷物や引き裂かれた衣服はあるが、死体の類は全く無いのだ。
「綺麗なものですか。……それがこの山の……ヴィルヘルの一番恐ろしいところでしょう」
ライナスが眼鏡の奥の瞳を細め、冷気で痛む肺から静かに白い息を吐き出した。
「ヴィルヘルは、決して獲物を残しません。彼らは犠牲者をどこかへと連れ去るか、あるいはその場で血の一滴、骨の髄に至るまで完全に食らい尽くしてしまう。だからこそ、この場所には『死体』というもっとも分かりやすい痕跡が残らないのです」
「……ええ。残った死体の数や惨状で、その道の危険性を推し量ることなんて、この世界では不可能なのよ」
エリカがライナスの言葉を引き継ぎ、冷え切った手を握り込みながら周囲の岩壁を睨みつけた。
ヴィルヘルが存在しない別の世界――存在すら知らない架空の世界……戦場や魔物の生息域であれば、古い死体や血痕が「これ以上進むな」という警告の標識代わりになるのかもしれない。
しかし、ヴィルヘルが絶対的な捕食者として君臨するこの世界においては、その常識は通用しない。
血の匂いがしない不気味な静寂……それこそが、無数のヴィルヘルが常に周囲を取り囲み、次の獲物を待ち構えているという絶対的な証左なのだ。
死体がないからといって、安全であるはずがない。
今自分たちが踏みしめているこの岩の表面にも、かつて誰かが流した血と絶望が、冷たい山風に削り取られて消えただけなのだから。
「気を引き締めなさい。街が見えるこの下り道にこそ、ヴィルヘルは待ち構えているわ……一瞬でも気を抜けば、私たちも『痕跡すら残らない』ことになる」
エリカの静かで冷徹な声に、仲間たちの顔から街を見つけた安堵の色が消え、歴戦の緊張感が再び宿った。
血の微かな匂いと凍てつく風が入り混じる中、一行は空を焦がす黒煙を唯一の道標とし、不気味な静寂が支配する崖道へと再び足を踏み入れた。
死体は無いが血の匂いがする――つい先程、ここで誰かがズタズタに引き裂かれ、どこかへと引きずり込まれたばかりなのだ。
行く手を阻むのは、何千ガルイ(メートル)もの高低差を持つ断崖絶壁と、谷底へ向かって迷路のように入り組んだ獣道だった。
「大きく迂回してあの谷を越えないと辿り着けないなんてね……」
エリカが風に金糸の髪をなびかせながら、眼下の底見えぬ峡谷を見下ろしてため息をついた。
彼女の背中には、昨夜の死闘で魔導結晶が無残にひび割れた魔導杖が背負われている。
魔導師にとって手足を奪われたに等しい今の彼女にとって、この過酷な道のりは一層の重圧となってのしかかっていた。
「油断するなよ。この山は、足元から頭上まで、全部が魔物の狩り場だ」
バハルが警戒心を露わにして大盾を構える。
一行は、人一人がようやく通れるほどの切り立った崖道を、一列になって慎重に進み始めた。
先頭を偵察役のアルベローゼとディオンが固め、中央にエリカとライナス、そして最後尾をバハルが警戒する布陣である。
こういった逃げ場のない狭道では、後背からの奇襲が最も恐ろしいからだ。
出発して一クロス(一時間)ほど経過した頃だった。
谷と谷を結ぶ、細い石橋のような天然石のアーチに差し掛かった時、先頭を歩いていたアルベローゼが突如、片手を高く上げて足を止めた。
「……待って」
アルベローゼの鋭い声に、全員の足がピタリと止まる。
「どうした、アルベローゼ?何かいるのか?」
バハルが最後尾から前へ出ようとするが、ライナスが手でそれを制した。
アルベローゼは足元の石を拾い上げると、前方の何もない空間へ向かって軽く投げつけた。
――キンッ。
石が空中で『見えない何か』に弾かれ、真っ二つに切断されて谷底へ落ちていく。
「なっ……!?」
「グラート・シュピンネの巣だよ。すっごく硬くて見えない糸が、谷を塞ぐように張り巡らされている……。私のエルフの目がなければ危なかったね!」
アルベローゼの言葉に、バハルが青ざめて首をすくめる。
山岳地帯の魔物は、冒険者の命を刈り取るための天然の罠を息をするように仕掛けてくる…………「見えない死神」と呼ばれる所以だ。
「私が燃やすわ。……《フラグメ・イグニ》」
エリカが、ひび割れた魔導杖を取り出し、虚空に簡易式を描く。
通常魔法でありながら、壊れた杖を無理矢理媒体とする危険な魔導行使。
極小の火炎弾が放たれ、硬質の糸は高熱に触れた瞬間、ジューッと嫌な音を立てて溶け落ちた。
だが同時に、エリカの右手から『ヂッ』と微かに皮膚の焼ける音が響き、彼女は痛みに顔を顰めた。
割れた魔導結晶から漏れ出た炎の魔力が、制御を失って火花のように弾け飛んだのだ。
「エリカ……無茶をしないでください」
背後からライナスが咎めるように眉を寄せる。
「大丈夫……まだ大丈夫よ、ライナス」
死の雪山の見えざる地獄はまだ先が長い……。




