第13話 秘めし双恋
「《メンゾ・コンティ・ハーティア(精神安定)》」
耳元で紡がれた、極めて静かで、力強い詠唱。
通常、魔法とは己の魔力を『魔導杖』などの外部媒体を通して術式化し、世界に干渉する。
だが、今、エリカを包み込んでいる淡く清らかな黄金色の光は、杖からではなく、彼女を抱きしめる彼自身の肉体から直接放たれていた。
自らの身体そのものを魔導媒体とする行為――それは、術者の魔導回路に直接莫大な魔力負荷と高熱を強いる、極めて高度かつ危険な技術だ。
魔導の奔流に肉体を晒すその消耗は、杖などの触媒を用いた時の比ではない。
「エリカ……あなたのお陰で、みんなが救われました。……女性に対して、少し無作法を許してくださいね」
背中から聞こえるその声は、いつもと変わらぬ、優しく穏やかなライナスのものだった。
「ライナス……それ……ごほっ……」
エリカは血の混じった咳を吐き出しながら、必死に首を振ろうとした。
「自分を……媒体にするなんて……ゴホッ……だめ……消耗が、ひどすぎるわ……」
自身の狂気を抑え込むために、彼に命を削らせるわけにはいかない。
それに、こんな泥と血と吐瀉物に塗れた自分に触れれば、彼の服まで汚れてしまう。
「ローブが……私のせいで、汚れちゃ……う……」
消え入りそうな声で拒絶しようとするエリカ。
だが、ライナスは抱きしめる腕の力を決して緩めなかった。
彼は魔導流の高負荷に自らの顔を真っ赤に発熱させ、額に脂汗を滲ませながらも、柔らかく微笑んだ。
「仲間の命に代わるものなど、この世界にはありませんよ。それに、こちらの方がより、魔導が身体の中まで届くのは知っているでしょう?それに、衣服の汚れなど、いくらでも洗い流せます……そこの湧水でもね」
黄金色の聖光が、エリカの体内を暴れ回っていた赤い悪霊の残滓を、陽光に溶ける雪のように優しく浄化していく。
「それに……これでも私は神聖魔法のエキスパートです。私の魔力制御を、舐めてもらっては困りますよ、特務中隊長殿?」
少しだけ悪戯っぽく囁かれたその言葉に、エリカの目から、再び堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
温かい。
恐ろしい殺意も、絶望的な孤独も、すべてを包み込んで許してくれるような、絶対的な安心感。
エリカは震える血まみれの手を、自らを抱きしめるライナスの背中へとゆっくりと回した。
彼の背中の確かな温もりを確かめるように、きつく、しがみつく。
「……ありがとう……ライナス……」
その消え入りそうな感謝の言葉を最後に、エリカの意識は、深く穏やかなまどろみの底へとゆっくりと沈んでいった。
意識を失い、張り詰めていた糸がふつりと切れたように完全に脱力したエリカを、ライナスは自らの背に優しく引き上げ、しっかりと背負い直した。
自身の肉体を神聖魔法の魔導媒体として酷使した代償は極めて重く、ライナスの足元は微かにふらつき、視界の端には未だ熱を持った火花が散っていた。
自身の目の端からの不意の出血を、ライナスは軽く拭いとる。
だが、背中から伝わってくるエリカの微かな体温と、トクン、トクンという弱々しくも確かな鼓動が、彼に膝をつくことを決して許さなかった。
(……本当に、貴女という人は無茶ばかりする)
肩越しに振り返ると、泥と汗、そして吐瀉物に汚れたエリカの青白い横顔があった。
いつもは凛と結ばれている唇は苦痛から解放されて僅かに開き、微かな寝息を立てている。
背中まで届く美しい金糸の髪が、ライナスの肩をすり抜けて力なく揺れていた。
湧水の近くにエリカを下ろすと、吐瀉物を丹念に拭い取った。
再びエリカを背負うと、彼女の金糸がライナスの顔の横に優しく揺れた。
血と魔導残滓、そして魔物が放つすえた獣の脂の匂いが充満するこの『グリフト・ヘラー』の冷たい闇の中にあって、彼女の髪から漂う微かに甘い残り香だけが、今のライナスにとって唯一の救いのように感じられた。
三十歳になるライナスにとって、二十一歳のエリカは、九つも歳の離れた幼馴染であり、守るべき妹のような存在……のはずだった。
三歳という幼さで悪霊に取り憑かれ、業火に焼かれるような絶望を味わいながらも、必死に生き抜いてきた彼女。
魔導エリートしか門をくぐることを許されない王立魔導学園を主席で卒業して、国家最強の魔導師として上り詰めながらも、常に己の内に潜む狂気に怯え続けていた気高くも危うい背中。
そして今、自らが「怪物」に堕ちる恐怖と引き換えにしてでも、仲間を守ろうと極限の魔法を行使した彼女の凄絶な脆さを目の当たりにし、ライナスの胸の奥底で、とうの昔に枯れ果てたと思っていた熱い感情が静かに、しかし確実に芽吹いていた。
それは単なる『仲間』への情でも、『幼馴染』への庇護欲でもない。
一人の女性として彼女をどうしようもなく愛おしいと切望する、ひどく身勝手で、痛いほどの熱情だった。
泥に汚れた彼女の頬を拭う。
許されるなら、その震える小さな肩を抱き寄せ、生涯をかけてこの手で守り抜きたい――。
「……いけませんね。私は……神に仕えし身でありながら……」
ライナスは自嘲気味に小さく呟くと、エリカの寝顔に向けかけた熱を帯びた視線を、前方の暗闇へと鋭く戻した。
彼らにはまだ、成し遂げねばならない過酷な使命がある。
この旅の目的は、彼女の魂を蝕む悪霊の謎を解き明かし、真の平穏を取り戻すことなのだ。
己の胸に芽生えたこの赦されざる感情は、彼女の命を救うという絶対の使命の前では、今は不純物でしかない。
もし自分がこの想いを表に出せば、優しく責任感の強い彼女は、苦悩するに違いないのだ。
だからこそ、ライナスは彼女を蝕む悪霊を強固な術式で縛り付けるのと同じように、自らの内に生まれた『愛おしい』という激情を、幾重にも鍵をかけて心の最も深い檻の底へと沈め、厳重に封印した…………二度と転び出ることのないように。
その封じ込めた痛みが、彼自身の心をどれほど締め付けようとも。
「今はただ、ゆっくりとおやすみなさい、エリカ。……貴女の歩む道は、私が命に代えても必ず切り拓いてみせますから」
誰の耳にも届かない微かな誓いの言葉は、巨大な洞窟を吹き抜ける極寒の風に溶け、静かに消えていった。
やがて前方から、フリューゲル・ハストの素材を抱えたディオンたちの賑やかな足音が近づいてくる。
ライナスは背中の温もりを……甘い髪の匂いを……もう一度だけ密かに確かめると、いつもの穏やかで完璧な神父の微笑みを顔に貼り付け、光の差す方へと歩みを進めた。
「おーい!ライナス、エリカ!見てみろよこれ、とんでもねえ大物だぜ!!」
「にしし!一番高いお店で、美味しい料理、確定だよっ!」
風穴の向こうから、バハルの豪快な笑い声と、アルベローゼの弾けるような明るい声が響いてくる。
ディオンも含めた三人が、巨大なフリューゲル・ハストの爪や素材を誇らしげに掲げながら、賑やかにこちらへと戻ってきていた。
地獄のような恐怖と狂気の淵での、ひそやかで命懸けの抱擁。
その重すぎる真実を二人だけの秘密として背負い直したライナスは、戻ってきた仲間たちへ向け、いつものように穏やかな微笑みを浮かべたのだった。
一行は洞窟のさらに奥深く、外の風が届かない広間へと歩を進め、ようやく腰を落ち着けた。
時刻はすでに深夜に近い。
広間の岩肌は、長年ここを中継地とした冒険者たちの焚き火によって燻され、黒光りしている。
奥の亀裂からは、微かに硫黄の匂いを伴った地熱の温かい空気が流れ出し、極寒の山中とは思えないほどの心地よい空間を作り出していた。
パチッ……と、バハルが熾した焚き火の薪が爆ぜる。
沈黙が広間を包み込む中、一人だけ岩場をうろうろしていたアルベローゼが、弾けるような声で戻ってきた。
「にしし!見てよこれ、大収穫だよ!」
彼女が自慢げにドサリと地面に放り出したのは、フリューゲル・ハストの黄金に輝く巨大な『嘴』と、鋭く湾曲した『魔導羽根』だった。
「おい、いつの間に……!お前、あの首が転がってった斜面までわざわざ取りに行ったのか!?それ、ギルドに持っていけばきっとすげえぞ!」
バハルが目を丸くして驚愕の声を上げる。
アルベローゼは腰に手を当て、「怖い思いしたんだから当然だよっ。これくらい貰っておかないと割に合わないもん!」と得意げに鼻を鳴らした。
素材の解体や武具の手入れなど、思い思いに休息の準備を進める仲間たちのやり取りの傍らで、エリカは一人、炎の揺らめきを見つめながら膝を深く抱え込んで丸くなっていた。
彼女の魂の奥底には、未だに先ほどの戦闘で限界まで引き出された「殺意」の記憶の残滓が、松脂のようにベッタリと張り付いている。
「殺意」はライナスの魔法で消えたが「記憶」が消せるわけではない。
フリューゲル・ハストの肉が焼け焦げる悍ましい異臭を『極上の香水』だと錯覚して歓喜した、あの狂気の記憶。
(もし、私が眠っている間に……あの悪霊が完全に主導権を握ってしまったら……?)
いつまた狂気が顔を出し、無防備に眠る仲間たち――ディオンの、バハルの、アルベローゼの喉笛を、自らの手で掻き切ってしまうかもしれない。
想像するだけで全身の血の気が引き、エリカは震える腕で自身の身体をきつく抱きしめた。
――だが、現在彼女の心を激しくかき乱しているのは、呪いに対する恐怖だけではなかった。
『仲間の命に代わるものなど、この世界にはありませんよ』
不意に脳裏に蘇る、ひだまりのように温かく、そして力強い腕の感触。
吐瀉物に塗れ、絶望の中で声にならない叫びを上げていた自分を、一切の躊躇なく背後から抱きしめてくれたライナスの体温。
極限の魔力行使による高熱と、彼の簡素な神官服から漂う微かな彼の匂い、そして耳元に落ちた深く優しい声の響き。
思い出すだけで、カッと顔に熱が集まり、心臓が痛いほどの早鐘を打つ。
九つも歳の離れた、穏やかで誰よりも優しい幼馴染への、長く密かな想い。
それは、死線を越えた極限状態の中で、もはや自身の理性では抑えきれないほどに膨張し、今にも胸の奥底を突き破って爆発しそうになっていた。
(ダメよ、エリカ……。考えてはダメ……)
エリカはギュッと目を閉じ、膝に顔を埋めた。
こんなにも薄汚れた、呪われた女が、彼に恋愛感情を抱くことなど絶対に許されるはずがない。
彼は神に仕え、命を削って人々の傷を癒やす気高き聖職者だ。
対して自分はどうだ……いつ暴走して周囲を凄惨な血の海に変えるか分からない、破滅と殺意を孕んだバケモノに過ぎない。
幼い頃、自分を救うために命を落とした彼の実母セレスティナ……そして、育ての母であったイゾルデ。
彼の大切な家族の命を二度も奪って生き延びたこの身体で、どうして彼に愛されたいなどと願えるだろうか。
(私が彼の側にいれば、いつか必ず彼を傷つけてしまう。……私の呪いが、彼を殺してしまうかもしれない……)
自らへ言い聞かせる残酷な真実は、鋭い刃となって彼女自身の心をズタズタに切り裂いていく。
それなのに……きつく抱きしめた自分の両腕には、先ほどまで彼女を包み込んでいたライナスの熱烈な体温の残滓が、呪いの刻印よりも深く、鮮明に焼き付いて離れなかった。
「……っ……」
届かぬ想いと、手放せない温もり。
燃え盛る焚き火の赤に照らされたエリカの頬を、誰にも気づかれることのない一筋の涙が、静かに伝い落ちていった。
ふと、隣に柔らかな気配が降りた。
アルベローゼが、ひょいっとエリカの隣に座り込み、下から覗き込むようにして悪戯っぽく笑いかけたのだ。
「エリカ、そんな暗い顔してると、せっかくの美人が台無しだよ?ほら見て、この嘴!」
アルベローゼは、自分の顔ほどもある黄金の下嘴を掲げてみせる。
「街に行ったらね、これを売って、最高に美味しいお肉をいっぱい食べようね。私がこの馬鹿バハルとディオンを脅してでも、一番高いお店に連れて行ってあげるからっ!だから……もう、怖い顔はおしまい」
その言葉の裏にある、不器用で、けれど真っ直ぐな優しさ。
アルベローゼは、エリカが何を恐れ、何に苦しんでいるのかを察した上で、あえて日常の他愛ない欲で塗り替えようとしてくれているのだ。
張り詰めていたエリカの心の糸が、ふっと緩むのを感じた。
ドロドロとした黒い泥のような心の澱が、少女の屈託のない笑顔の前に、少しずつ溶けていく。
エリカは毒気を抜かれたように、ようやく、本当の小さな笑みを漏らした。
「……そうね。アルベローゼ、ありがとう。一番高いお店……期待しているわ」
「にしし、どういたしまして!任せといて!」
広間の空気が、じんわりと温かく解れていく。
「さーて、見張りはどうするの?私はディオンと組むよ。ディオン、絶対に寝かさないからねっ」
アルベローゼがディオンの腕に抱きつきながら宣言する。
「ああ、アルベローゼ。一緒にやろう。……君が起きていられるなら、の話だけどな」
ディオンが苦笑混じりに返す。
岩肌を舐める焚き火の赤い光が、広間に集まった仲間たちの顔を柔らかく照らし出している。
エリカは、炎を挟んで向かいに座る銀髪の神父を静かに見つめた。
先ほどの惨状が嘘のように、彼女の緑の瞳には穏やかな理性が戻っている。
「エリカ。あなたは魔力の消耗が激しすぎる……見張りは私たちに任せて、朝まで休んだ方がいい」
ライナスが気遣わしげに眉をひそめて提案するが、エリカはすぐさま首を横に振って返した。
「誰かさんが無茶をして使ってくれた『高度な神聖魔法』のおかげで、すっかり元気なの。……自身の肉体を媒体にするなんて禁忌スレスレの事をして、今にも倒れそうになっている『誰かさん』に言われたくないわ」
少しだけ口を尖らせて強がるエリカ。
その実、互いに限界まで命を削り合った直後ゆえに、相手の負った消耗の深さを誰よりも痛感しているのだ。
彼女の不器用な、しかし確かな愛情を含んだ気遣いに、ライナスは困ったように小さく息を吐き、やがて優しく目を細めた。
「……敵いませんね。では、見張りは私と一緒ということで良いでしょうか?」
ライナスが細い指で眼鏡の位置を直し、穏やかな声で尋ねる。
「もちろんよ」
エリカは自身の頬が微かに熱を帯びるのを感じながら即座に頷き、その照れを隠すように視線を隣の巨漢へと移した。
「……バハルも、それでいい?」
「ああ……って、ディオン!お前、この前みたいなのはいいからな……今日は本当に限界だろ。ちゃんと寝とけ!」
バハルが呆れたように念を押す。
「分かってるよバハル。今日は流石に……泥のように眠れそうだ」
パチッ、と再び炎が跳ねる。
過酷な地獄の道中を越え、安息の地で束の間の休息を得た五人。
外の岩肌を叩く冷たい風の音は、温かい地熱と仲間たちの穏やかな寝息に紛れ、やがて遠くへ消えていった。




