第12話 断崖の覇王
疲労困憊の極み。
血と汗と泥に塗れ、満身創痍となった一行が岩山の尾根を回り込んだ先。
魔力消費で立ち上がれなくなったエリカは、顔を真っ赤に染めながらライナスの背におぶわれていた。
正気を繋ぎ止めるために自身へ突き立てた足の傷は、ライナスの手によってすでに治療が終わっていたが、精神的な疲労は深い。
そんな彼らの前に、地獄のような風を遮るように、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟――『グリフト・ヘラー(猛禽の休息洞窟)』の、深く温かい闇が広がっていた。
「見えた!あそこが『グリフト・ヘラー』です!」
背中のエリカが叫び、一行は最後の力を振り絞り、転がり込むように洞窟の入り口へと殺到した。
――しかし。
洞窟へと滑り込もうとした彼らの足元を、巨大な「黒い影」が覆い尽くした。
太陽の光が遮られ、突如として吹き荒れた暴風が、一行の体を岩肌へと叩きつける。
「な……なんだ、こいつは……!」
バハルが大楯を地面に突き立てて風圧に耐えながら、上空を見上げて顔を強張らせた。
青空を覆い尽くすほどの巨大な翼。
獅子の下半身に猛禽の上半身を持ち、鋼鉄をも砕く金属質の黄金の嘴を備えたこの山の王者――『フリューゲル・ハスト』である。
「ここでは分が悪いわ……逃げて!」
エリカがライナスの背中から飛び降りると、残った気力を振り絞って洞穴の奥へと駆け出した。
仲間達もすぐにそれに続く。
松明や照明魔法を展開する暇はない。
洞窟内へと飛び込み、少し進んだ先で彼らはエリカの言葉の意味を瞬時に理解した。
そこはただの洞穴ではなかった……内部には切り立った断崖が続き、天井は風化した巨大な肋骨のようにところどころから空が覗いている。
そして断崖の数百ガルイ(メートル)下からは、轟音を立てて荒れ狂う地下水の濁流が牙を剥いていたのだ。
飛翔能力を持つフリューゲル・ハストにとって、天井から自在に侵入でき、地上からは逃げ場のないこの地形は、まさに絶好の狩り場であった。
十五セグ(十五分)ほど必死に走り続け、一行は洞穴の中でも比較的足場の安定した広場へと転がり込んだ。
しかしながら、崖を隔てて数十ガルイ先の巨大な風穴から、忌まわしいフリューゲル・ハストの巨体が再び姿を現した。
巨大な獲物を執拗に追ってきた暴君の、血と獣の体臭が混じった濃厚な死の匂いが、突風と共に一行の鼻腔を容赦なく蹂躙する。
「くっ、まだ諦めてないのか……!あのフリューゲル・ハスト、しつこすぎるぞ!」
ディオンが風を纏う剣を握り直すが、限界を迎えていた両膝がガクガクと震え、まともに立ち上がることすらできない。
バハルもまた、鳥女の攻撃を受け続けた腕の過労で大楯を完全に構えきれず、ライナスはエリカを庇うように杖を構えるのが精一杯だった。
四つの巨大な鉤爪が空気を裂き、絶望の質量となってディオンたちをすり潰そうと降下してくる。
万事休すかと思われた、その瞬間。
岩場を軽やかに跳ね回っていたアルベローゼが、空気を震わせるような、弾けるような声を張り上げた。
「みんな、落ち着いて!私の故郷に伝わる諺を教えてあげる。『フリューゲル・ハストは羽を焼け!』――そう、飛べない王様なんて、ただの図体がデカいだけの獣なんだからっ!」
その天真爛漫な叫び。
それが、恐怖で身体を強張らせていたエリカ・ヴァインの意識を、鋭く叩き起こした。
魔法を使えば、内なる「悪霊」が目覚める……。
自分自身が怪物に成り下がるかもしれない恐怖……それを言い訳にして、守るべき仲間を死なせる気か。
元『特務魔導中隊』中隊長の誇りが、緑の瞳に烈火の如き意志を宿らせる。
「……羽を、焼く……!」
エリカは震える手で樫の魔導杖を握りしめ、前へと踏み出した。
深く、世界中の魔力を吸い込むかのような呼気。
彼女の華奢な体から、周囲の空気が陽炎のように揺らぐほどの濃密な魔力が溢れ出す。
《フラグメ・フリマ(炎・高速射出)》――いや、それでは威力が足りない。
極限まで圧縮し、一点の威力を面へと変換する……必要なのは、さらに高度な複合魔力制御。
杖の先端に、幾重にも連なる複雑な赤い術式と翠の術式パターンが一瞬にして展開し、重なり合う。
エリカが纏うのは大気を焼き焦がす圧倒的な熱量と、吹き荒れる乱気流。
「墜ちなさいッ!!」
「《エメ・フラグメ・エレ(風・炎・衝撃)》!!」
エリカが杖を振り抜いた瞬間、術式から特大の紅蓮の炎が咆哮を上げて射出された。
ドガァンッ!!
最初に到達したのは、凄まじい風の衝撃波だった。
一瞬の熱波を伴う強烈な突風が、急降下してくるフリューゲル・ハストの全身を激しく打ち据え、表面の強靭な羽根を乱して焼き焦がす。
ゴォォォォォォッ!!
そして、本命――――衝撃によって防御を剥がされた巨体へ、風を喰らって爆発的に膨張した火炎の渦が真正面から直撃する。
空気を焼き、酸素を奪い尽くすほどの灼熱が、巨大な猛禽の誇る右翼を根元から容赦なく舐め回した。
「ギュァァァァァァァァッ!?」
羽毛が爆発的に燃え上がり、肉が焦げる悍ましい異臭が辺りに充満する。
揚力を失い、バランスを完全に崩した巨大な体躯が、悲鳴を上げながら重力に引かれて錐揉み回転し――ズドォォォォンッ! と、鋭い水晶柱を砕いて首が取れる。
そして、残った胴体は洞窟から少し離れた岩の斜面へと激突した。
大地が揺れ、もうもうと立ち昇る黒煙が空を覆う。
「やった……!」
ディオンが歓喜の声を上げようとした、その時。
――ドクン。
エリカの視界が、べっとりと真っ赤に染め上げられた。
(……もっと。もっと焼かなければ。その嘴を砕き、爪を引き剥がして、あの肉が焼け焦げる絶望の叫びを……いや……ヴィルヘルじゃ足りない……人を……人を焼きたい……断末魔の悲鳴をもっと私に聞かせて……!)
脳髄の裏側から溢れ出す、どす黒い「殺意」。
焼け焦げた獣の死の匂いが、極上の香水のように感じられる狂おしいほどの快楽。
ハッと我に返ったエリカは激しい動悸に襲われ、杖を握る両手が小刻みに、しかし制御不能なほどに震え始めた。
魔法を使えば使うほど、この禍々しい衝動が自分という人間の尊厳を呑み込もうとする。
(焼きたい……そこで安堵の息を吐いているディオンを。盾を降ろしたバハルを……)
悍ましい考えを打ち消すように、彼女は唇から血が滲むほど強く噛み締め、必死に耐えた。
「エリカ……?大丈夫か?」
ディオンが剣を収め、心配そうに駆け寄ってくる。
その顔を見た瞬間、エリカは弾かれたように後ずさり、青ざめた顔で自身の震える手を隠すように、魔導杖を胸に強く抱きしめた。
エリカの胸元で、ピシッ、と乾いた音が鳴る。
村で使っていた簡素な魔導杖は、本来想定されていない第四位階相当の複合魔力に耐えきれず、先端の蒼い魔導結晶が無惨にひび割れていた。
「……ええ。なんともないわ。……それより、早く洞窟の奥へ。ヴィルヘル(魔物)たちの残党が来るかもしれないから」
エリカは必死に口角を上げ、無理に作った笑顔を仲間たちに向けた。
だが、その顔色は蝋のように青白く、表情は酷く引きつっており、限界を超えた虚勢であることは明白だった。
しかし、死線を越えた直後で興奮状態にあるディオンとバハル、そして先ほどの攻撃で墜落したフリューゲル・ハストの貴重な素材に目を輝かせているアルベローゼは、その時、エリカの決定的な異変に深く気づく余裕がなかった。
「よし、他の魔物が血の匂いに引き寄せられる前に、剥ぎ取ってくる!」
「ディオン!急いで!」
三人は歓声を上げながら、巨体が激突した斜面へと足早に駆け出していった。
彼らの背中が岩陰に消え、見えなくなった瞬間。
プツリと、エリカの内で張り詰めていた糸が切れた。
カラン、と手からひび割れた魔導杖が滑り落ちる。
彼女は崩れ落ちるように冷たい岩肌に四つん這いになった。
「はぁっ……はっ……!」
滝のような冷たい脂汗が、土埃に塗れた顔を伝い落ちる。
肩で激しく息を繰り返し、全身の震えがどうしても止まらない。
酷使した魔導回路が悲鳴を上げているだけではなかった。
彼女の緑色の澄んだ瞳の奥底で、悍ましい赤い燐光が、まるで狂気が溢れ出ているかのようにゆっくりと点滅している。
(殺せ……引き裂け……肉を、血を……あははは……!)
脳髄を直接引っ掻き回すような、悪霊のドス黒い囁き。
「あっ、あっ、あぁぁ……」
エリカの口から、涎と涙に塗れた、声にならない絶望の叫びが漏れる。
強烈な吐き気が胃の腑から込み上げ、彼女は堪えきれずに咳き込んだ。
ビチャッ。
不意に、胃液に鮮血が混ざった吐瀉物が、冷たい岩肌にぶちまけられた。
鉄が錆びたような血の匂いと、饐えた匂いが入り混じる。
自分が惨めで……醜くて……恐ろしい。
辛くて涙が止まらない。
これが『悪霊』を内に飼う者の末路なのだと……彼女は薄れゆく意識の中で打ちのめされていた。
――その時だった。
不意に、強く、それでいてひだまりのように温かい腕が、吐瀉物を口周りに貼り付けて震えるエリカの華奢な体を、背後からしっかりと抱きしめた。
「……っ!」
優しさがエリカを包んだ。




