第11話 私は私のはず
肌を刺すような極寒の冷気と、薄い空気が肺を焼き付ける過酷な山岳地帯。
エルカリアの月(四月)下旬だというのに積雪が残る。
一行は、標高三千ガルイ(三千メートル)を超える険しい岩山の中腹を、這うようにして進んでいた。
目指す安息の地『グリフト・ヘラー(猛禽の休息洞窟)』まではあと僅かだというのに、ここに至るまでの道程は、まさに底なしの地獄であった。
――ヒュンッ!
極寒の風切り音が空気を鋭く裂いた。
刃のように硬化した無数の羽が、虚空から驟雨のごとく降り注ぎ、岩肌を無慈悲に砕いて鋭利な石片を撒き散らす。
たまに傷口に凍傷をもたらす『魔導』を含んでいるものが混ざる。
「くっ、この鳥女ども……キリがないぞ!」
龍人バハルが、重厚な黒鋼の大楯を頭上へ掲げ、雨霰と降り注ぐ羽の礫を必死に防いでいた。
ガガガガンッ!と、鼓膜を劈く激しい金属音が連続して鳴り響く。
強固な盾の表面に火花が散り、その凄まじい運動エネルギーがバハルの太い腕の筋肉をきしませた。
灰色の空を覆い尽くすように旋回するのは、人間の若い女性の上半身に猛禽の翼と鋭い鉤爪を併せ持つ魔物――『フレイア・フリューゲル』の群れだ。
彼女たちは獲物を嘲るような、耳障りな歌を口ずさんでいる。
青白い死人のような肌をした女の顔が、岩陰の死角からこちらの絶望を覗き込み、鼓膜にへばりつくような甲高い嘲笑を撒き散らしては執拗な投射攻撃を繰り返してくる。
その数は優に十数体。
血と獣の脂が混じった強烈な悪臭が、冷たい風に乗って一行を包み込んでいた。
「アル!あいつら、どこまで追いかけてくるんだ!」
バハルの大楯の影で、ディオンが荒い息を吐きながら叫ぶ。
彼の銀がかった蒼髪は汗と土埃にまみれ、左腕にはすでに数本の深い掠り傷が刻まれ、どす黒い血が滴り落ちていた。
《エメ・アンベル・ヴェルン(風属性魔力・刀身収束)》を施し、淡い翠の光を帯びた剣を振るって迎撃を試みるものの、高空からの一撃離脱を繰り返す敵に対し、彼の間合いでは極めて分が悪い。
「くそっ……!届かないッ!」
ディオンの歯軋りが響く。
跳躍して斬りかかろうにも、足元は凍結した脆い岩肌。
少しでも体勢を崩せば、谷底の奈落へ落下する。
空を制する絶対的な優位から獲物をなぶる魔物たちを見上げ、バハルとディオンは己の「手の届かなさ」に、悔しさを滲ませていた。
彼らがどれほど屈強な戦士であろうと、上空から浴びせられる広範囲の死の雨から、後衛の仲間を完全には庇いきれないのだ。
「知らないよ!それより、少し青い羽根のやつに気をつけて!あの羽、触ったら凍っちゃうよ!」
アルベローゼの切羽詰まった叫びが響く。
「もう凍ってるぜ!」
霜のついた大楯を構えるバハルが叫ぶ。
「あの子たちはしつこいわ!この岩場を抜けるまでが『フレイア・フリューゲル』の食堂なの。縄張りさえ抜ければ諦めるわ!」
エリカの冷徹な指揮の声が飛んだ。
絶望的な死地にあって、取り乱しかけていたエルフの少女アルベローゼは、エリカの毅然とした言葉によって本来の落ち着きを取り戻した。
彼女は風の精霊そのもののような軽やかさで、崩れゆく岩から岩へと樹上動物のように跳ね回り、流れるような動作で白樺の弓を引き絞る。
ビュッ!
魔法の補助すら持たない純粋な物理の矢が、空の彼方で嘲笑う鳥女の眉間を正確に穿つ。
カンッ!
ビュッ!カン!
「ギェェェェッ!」
醜い断末魔と共に岩肌へ墜落し、鮮血を撒き散らす魔物。
だが、多勢に無勢……一羽を落とせば、すぐに別の二羽が死角から急降下し、新たな羽の刃をばら撒いてくる。
ザシュッ!
「……っ!」
バハルの盾の防御範囲をすり抜けた一枚の鳥羽が、エリカの華奢な肩を深く抉った。
「うっ」
パッと岩肌に鮮血が飛び散る。
続いて、ライナスの頬も羽礫が切り裂き、一筋の赤い線が引かれる。
「エリカ!」
ディオンが悲痛な声を上げるが、その瞬間、後方から澄み切った詠唱が鳥女の巻き起こす吹雪の音を切り裂いた。
「《ヴィータ・レクト・ブラギーズ(止血)》《ヴィータ・レクト・セリア(細胞治癒)》」
ライナスの司祭の杖から放たれた淡く清らかな緑色の聖光が、エリカの肩口にまとわりつく。
流れ出た血が瞬時に凝固し、七ミロ(七センチメートル)くらいに裂けた肉がゆっくりと結合していく。
「問題ありません。前へ……歩みを止めないでください」
ライナスは自らの頬から流れる血には目もくれず、銀の長髪を風に靡かせながら、極めて冷静に術式を紡ぎ続けていた。
絶え間なく降り注ぐ死の雨の中、彼は一行の生命線をただ一人で繋ぎ止めていたのだ。
「《ヴィータ・アンベル・カルネ・シュネル(歩行補助・歩行疲労軽減)》」
断続的に展開される第一位階の神聖魔法が、限界を迎えているバハルとディオンの筋肉に強引な活力を注ぎ込む。
しかし、神聖魔法のエキスパートである彼といえど、絶え間ない魔力消費と極度の緊張により、その端正な顔立ちは蒼白になり、額からは脂汗が滲み出していた。
(このままでは……全滅する!……冷静に………適切な魔法を考えるのよ……)
エリカの緑の瞳が、血塗れになりながらも盾を掲げるバハルとディオンの悔しげな背中を、そして命を削って癒しの光を灯し続けるライナスを映し出す。
魔法を使えば、内なる「悪霊」が目覚める。
その恐怖がエリカの心臓を鷲掴みにしていた。
だが、守るべき者たちが傷ついていく惨状を前に、元『特務魔導中隊』中隊長の誇りが、呪いの恐怖を凌駕した。
「……私が、落とす」
エリカは大きく息を吸い込み、冷たい肺の奥底まで魔力を充填した。
左手は、腰に帯びた『月光魔導の短剣』の冷たい柄を、指が白くなるほど強く握りしめている。
もし自分が狂乱し、仲間に刃を向けそうになったら、その瞬間に自分の喉を突く。
その絶対の覚悟と共に、彼女は魔導杖を天へと掲げた。
「《ヴォルテクス・ストラール(雷・光線)》!」
第二位階・通常魔法――杖の先端に青白い術式パターンが展開した瞬間、極限まで圧縮された細く強烈な雷光が、一直線に天空を貫いた。
「ギャッ!?」
雷速の一撃は、上空で嘲笑っていた三体の鳥女を一直線に串刺しにし、その内臓を瞬時に炭化させた。
黒焦げになった肉塊が、バラバラと雨のように降ってくる。
――ドクン。
脳髄の裏側に、泥のような歓喜がへばりつく。
(もっとだ。もっと殺せ。次はそこで喘いでいるライナスの首を刎ねろ――)
「黙れッ!!」
エリカは血を吐くような悲鳴を心の中で上げ、悪霊の囁きを強引な魔力行使でねじ伏せた。
彼女の緑の瞳の奥底で、悍ましい赤い燐光が明滅する。
構わず、彼女は次の術式を多重展開した。
「《マギ・ホルメア・イグニ(純魔力・追尾・投射)》!」
第三位階――杖の先から放たれた十数発の純魔力光線が、意思を持つ生き物のように虚空を這い、岩陰に隠れていた鳥女たちへ正確に殺到する。
空中で次々と鳥女を貫通する魔力光線は貫通部分の肉を弾き飛ばす……引き裂かれた羽と肉片が、赤い雨となって極寒の岩肌を濡らしていく。
「エリカ……っ、無理をするな!」
ライナスの悲痛な叫びを背に受けながら、エリカは限界を超えた魔力の奔流を杖の先端へ集中させた。
「《フラグメ・フリマ(炎・高速射出)》!」
第三位階――機関砲のごとき勢いで放たれた無数の火炎弾が、上空に残った敵の群れを次々と飲み込んでいく。
肉を焼き焦がす悍ましい匂いと、鳥女たちの狂乱の悲鳴が、山岳の冷気を地獄の業火へと塗り替えた。
「あはははは!燃えろ、千切れろ!仲間もまとめて灰にしてしまえ!」
エリカの口から放たれた言葉はドス黒い魔を含んでいる。
悪霊の哄笑が脳内に木霊し、エリカの口角が、彼女の意志に反して三日月のように吊り上がっていた。
「エリカ!!」
冷徹なライナスが叫ぶ。
「うぅ、ぁぁぁぁッ……!」
エリカは左手に握った短剣を、咄嗟に旅装ローブ越しに自らの太ももに突き立てた。
切先が数ミロ(センチメートル)沈み込む。
走る鋭い痛み。
その物理的な苦痛によって、すんでのところで意識の主導権を繋ぎ止める。
圧倒的な魔導の暴力。
瞬く間に上空の群れの大半が灰と化し、残った数体の魔物たちは恐怖に顔を引きつらせ、ギャァギャァと喚きながら雲の彼方へと逃げ去っていった。
静寂が戻った。
風の音だけが響く中、エリカは杖を手放してその場に崩れ落ちた。
四つん這いになると、荒い呼吸を繰り返し、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、自らの内なる狂気と必死に戦っている。
「エリカ……!」
ディオンが駆け寄ろうとするのを、ライナスが手で制した。
ライナスは静かに歩み寄り、エリカの震える背中にそっと手を当てる。
「《メンゾ・コンティ・ハーティア(精神安定)》…………」
……第三位階・神聖魔法。
温かい波紋がエリカを包み込み、荒れ狂う悪霊の衝動を、陽光に溶ける雪のように優しく鎮めていった。
「……ありがとう、ライナス……。私は……まだ、人間でいられた……」
エリカの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちる。




