9 情報の負荷と、膨張する事象
徹夜での無謀な「デバッグ」を終え、透は這うような足取りで帝都理工大のキャンパスへ向かった。
大学の深層計算層へのアクセス権限を引き上げ、エッジサーバーとの同期アルゴリズムを力技でねじ伏せようと試みたが、エラーログはもはや透の理解を拒絶するような幾何学模様を描き始めていた。
昼下がりのカフェテリア。
プラスチックのテーブルに突っ伏しそうになっている透の顔を、向かいに座った大介が本気で心配そうに覗き込んでいた。
「おい透。お前まともに寝てないだろ。顔色が死人のそれだぞ」
「⋯⋯少し、厄介なバグの特定に手こずっていてな」
透は乾いた声で返し、手元のブラックコーヒーを喉に流し込んだ。
大介の存在は、透にとって「正常な現実」を繋ぎ止めるための、最後にして最強の錨だった。二次元のアイドルにも、オカルトめいた怪現象にも一切の興味を持たない大介。彼が目の前でカツカレーを美味そうに頬張っている光景だけが今、透の心を辛うじて狂気から引き離してくれていた。
「ほどほどにしろよ。まぁ、最近じゃ俺も人のこと言えないんだけどな」
「なんだ?お前の疲れと一緒にすんな」
大介はそんな透の返しにツッコミもせず、半分ほど減ったカツカレーの皿を見つめ、首を傾げた。
「いやな、この前もこんな感じでカレーを食べようとしてスプーンを口に運んだんだ」
思い出すように手に持ったスプーンを皿から口へ運ぶ動作をする。そんな変哲もない動きを透は大学の研究室で見たことがあった。
「カツの衣のサクサクした感触とか、カレーの匂いまで確かに感じた『記憶』があるのに⋯⋯一瞬意識が飛んで気づいたらスプーンがまだ皿の上にあるんだよ」
「⋯⋯なに?」
「ネットゲームでよくあるだろ?通信が遅延して、移動したはずのキャラが元の位置に戻されるやつ。あんな感じの『ラグ』が、現実で起きたんだ。俺も就活のストレスで疲れてんのかな」
大介は「まいったな」と笑って、再びスプーンを口に運んだ。
だが、透の持つコーヒーカップは、カチリと不自然な音を立ててソーサーの上で完全に静止していた。
(巻き戻った?いや、ロールバック処理だ)
透の背筋を、暴力的なまでの悪寒が駆け上がった。
大介は、星川 綺羅々に微塵も興味がない。数百万人の観測者のネットワークには一切接続されていない、完全に無関係な人間だ。
それなのに、彼が認識する現実の物理法則にまで、明確な綻びが生じている。
理由の仮説は、嫌でも弾き出された。
世界という巨大な演算エンジンが、星川 綺羅々という「特異点」の描画と物理同期にリソースを奪われすぎているのだ。その結果、システムは全体を維持するために、大介のような『(特異点にとって)重要度の低いオブジェクト』の行動計算を一時的に破棄し、数秒前の状態へロールバックさせた。
「大介、今日はもう帰って寝ろ。午後の講義も休んだほうがいい」
「ははっ、お前みたいなワーカホリックに言われると妙に説得力あるな。じゃあ、そうするわ」
大介が席を立ち、カフェテリアの出口へと向かう。
その後ろ姿を見送りながら、透はゆっくりと周囲の喧騒を見渡した。
就職活動の愚痴。週末の合コンの予定。響き渡る笑い声。
一見すればいつも通りの平和な大学の昼休みだ。だが今の透の目には、その光景が酷く歪んで見えた。
遠くの席で笑う女子大生の声が、コンマ数秒だけCDの音飛びのようにリピートしている。
誰かが落とした紙ナプキンが、床に落ちる寸前で、見えない壁にぶつかったように一瞬カクりと滞空する。
透は首を振る。幻覚か、周りを見て人々の日常は普段通りに流れている。
ただ、世界が膨大な情報の重みに耐えきれず「描画の省略」を始めている。
「クソッ⋯!」
透は吐き気を覚え逃げるようにカフェテリアを飛び出した。
気づけは外は冷たい雨が降っていた。
物理法則の崩壊が日常にまで浸食している。自分の作ったシステムが、大介のような無関係な人間の現実すらも削り取っている。その罪悪感と恐怖で透の呼吸は浅く乱れていた。
傘を差す気力もなく、雨に打たれながらキャンパス内のレンガ通りを歩いていた時のことだ。
行き交う傘の波の中に、ふと、異質な影が混じった。
無意識に避けようとしたすれ違いざま、雨音に紛れて、ひどく無機質な呟きが耳に飛び込んできた。
「⋯⋯私はここにいるの」
透はハッと足を止めた。
彼女の気配とともに水たまりに落ちる直前の雨粒が、ほんのコンマ数秒、空中で透明なガラス玉のように『静止』していた。
思わず振り返ると、カラン、と周囲の時間が追いつき、静止していた雨粒が一斉に水たまりを叩きつけた。
跳ねた水しぶきに思わず目を瞬かせた、わずか一秒にも満たない隙。
再び目を開けた時、そこにはもう誰もいなかった。色とりどりの傘が通り過ぎるだけで、そんな影などまるで最初から存在しなかったかのようにキャンパスの風景に溶けて消えていた。
透は冷たい雨に打たれながら立ち尽くしていた。
ふと自分を取り巻くこの異常事態が、決して単なるシステムエラーなどではないという事実だけが、冷たい雨と共に透の体温を奪い去っていった。




