10 偶像の孤独と、境界線の融解
冷たい雨が降り続く夜。
透が帰ってこない防音完備の高級マンション、302号室。
カーテンを閉め切った薄暗いリビングで、伊知花はソファに丸くなり、スマートフォンの画面が放つ青白い光だけを頼りに息を潜めていた。
床には相変わらず、空のペットボトルやコンビニ弁当の容器が散乱している。画面の向こう側で数百万人に愛される「星川 綺羅々」の輝きとは裏腹に、現実の宇園 伊知花の生活はひどく淀んで停滞していた。
彼女の親指は、SNSのタイムラインを機械的な速度でスクロールし続けている。
『明後日のコラボライブ楽しみすぎる!』
『綺羅々ちゃんの新衣装、早く見たいな』
『綺羅々がいない世界なんて考えられない』
次々と流れてくる自分宛ての無数の称賛。伊知花はそれをまるで命を繋ぐ点滴のように目で追っていた。
嬉しい、という純粋な感情はとうに摩耗している。あるのは、「自分がまだ世界に認識されている」という安堵と、それがいつか消えてしまうのではないかという強迫観念だけだ。
(私が完璧な『星川 綺羅々』でいれば、みんな私を見てくれる。お兄ちゃんも私だけを見てくれる)
両親に放置された空虚な現実を埋めるために作り上げた、無敵のアバター。
だが最近、伊知花はその「星川 綺羅々」という存在の重さに、文字通り押し潰されそうになっていた。
「⋯⋯なんか、息苦しいっ⋯!」
伊知花は首元を掻きむしり、荒い息を吐いた。
数日前から部屋の空気が妙に『重い』のだ。水の中に沈んでいるような、あるいは四方八方から見えない無数のカメラで監視されているような、異様な圧迫感。
気のせいだ、ライブ前のプレッシャーによるストレスだ、と自分に言い聞かせてきたが、その感覚は日を追うごとに強くなっている。
ふと、喉の渇きを覚えて伊知花はソファから立ち上がった。
ふらつく足取りでキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けようとした、その時。
『――きらら、ちゃん』
耳の奥で、いや、脳の髄に直接響くような、無数の囁き声が聞こえた気がした。
「⋯⋯え?」
伊知花は振り返った。誰もいない、散らかった薄暗いリビング。
だが、その空間のあちこちに、人間の「視線」のようなものがこびりついているような錯覚に陥る。
『ずっと見てるよ』
『綺羅々は、ここにいるよ』
文字として読んでいたはずのネットのコメントが、何十万という人々の「生きた熱量」を持った肉声となって、部屋の空気に溶け込んでいる。
「いや⋯⋯やめて。私、ちゃんとやるから。ちゃんと、完璧な綺羅々でいるから⋯っ!」
幻聴だ。プレッシャーでおかしくなっているんだ。
伊知花は耳を塞いでしゃがみ込み、目をきつく閉じた。
彼女は気づいていない。それが精神的なストレスなどではなく、数百万人の『観測』という名の物理的な情報質量が、この部屋の空間座標に直接雪崩れ込んできている「重力異常」のせいであることに。
しばらくして声が止み、伊知花は恐る恐る目を開けた。
フラフラと立ち上がり洗面所へ向かって冷たい水で顔を洗う。
鏡を覗き込むと、そこには目の下に隈を作り、血の気のない顔をした「宇園 伊知花」がいた。
「⋯⋯ひどい顔」
自嘲気味に呟き、タオルで顔を拭く。
そして、もう一度鏡を見た瞬間。
伊知花の心臓がヒュッと音を立てて縮み上がった。
鏡の中の『自分』が一瞬だけ、伊知花の動きに遅れて瞬きをしたのだ。
「え⋯⋯?」
錯覚かと思い伊知花は右手を挙げてみる。
鏡の中の右手も挙がる。だがやはりコンマ数秒、ぬかるみに足を取られたように動きが遅い。
まるで鏡というディスプレイを通した映像が「ラグ」を起こしているように。
さらに不気味なのは、遅れて動くその鏡の中の自分の表情が、ひどく「整いすぎている」ことだった。
血の気のない肌は、徐々に照明のせいか透き通るように白く見え、隈は消え、瞳は不自然なほどキラキラと発光しているように見えた。
それは現実の伊知花ではなく、無意識のうちに『星川 綺羅々』のテクスチャが現実の鏡にレンダリングされかけているような、名状しがたい違和感だった。
「⋯⋯お兄ちゃん⋯⋯」
伊知花は恐怖に後ずさり、洗面所の壁に背中を打ち付けた。
部屋の空気がさらに重くなる。
世界が、宇園 伊知花という不完全な存在を許容できなくなり、「星川 綺羅々」という完璧な特異点に強制的に書き換えようと軋みを上げている。
システムにバグが起きているのではない。
自分自身が、この世界のバグになりかけている。
その明確な異常の理由を知る由もない伊知花は、ただガタガタと震えながら自分をこの檻に閉じ込め、同時に守ってくれている唯一の存在――兄の帰りをただひたすらに祈るしかできなかった。




