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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第一章:「Xデー」事象の地平面
11/27

11 波及するエラーと、軋む箱庭

 コラボライブを間近に迫った『流れ星スタジオ』では残されたタレントとスタッフたちが、得体の知れない「違和感」の底に沈んでいた。


 タレント専用の控え室。

 普段なら無邪気な声で跳ね回っているはずの泉 鈴音は、部屋の隅のソファに膝を抱えて丸まっていた。トレードマークの猫耳パーカーのフードを深く被り、小刻みに震えている。


「鈴音ちゃん、温かいココア淹れたわよ。少し落ち着きなさい」


 先輩タレントの青山 早苗がマグカップを差し出すと、鈴音は怯えた子猫のように顔を上げた。いつも透に向けているような「作られた無邪気さ」は完全に鳴りを潜め、年相応、あるいはそれ以上に切羽詰まった表情が覗いている。


「⋯⋯早苗、ちゃん。ここ、なんか変だよ。絶対におかしい」

「変って、何が?」

「空気。⋯⋯空気が、ゼリーみたいにベタベタしてる。息をするのも重いし、さっきからずっと、耳の奥で大勢の人がザワザワ喋ってるみたいな『圧』がするの。⋯⋯ねえ、綺羅々ちゃん、本当に帰ったんだよね?」


 鈴音の言葉に、早苗は眉をひそめた。

 伊知花なら通しリハーサルが終わってすぐに風河マネージャーがタクシーに乗せて帰宅させたはずだ。だが、鈴音の言う「圧」は、早苗自身も肌で感じていた。

 スタジオの空調は完璧に機能しているはずなのに、部屋の中の気圧が不規則に変動しているような、内臓を直接撫で回されるような不快感がある。


 早苗はふと壁掛け時計を見上げた。

 赤い秒針が、カチ、カチ、と規則正しく時を刻んでいる。


 ――カチ。


 そこで秒針が「止まった」。

 電池切れではない。針が目に見えない強固な壁にぶつかったように、微かに痙攣しながらその場に留まっている。


 一秒。二秒。三秒。


 早苗と鈴音が息を呑んで見つめる中、四秒後。

 秒針は止まっていた時間を無理やり帳尻合わせするかのように、一瞬で「三秒分」をワープして動き始めた。


「⋯⋯ひっ」


 鈴音が短い悲鳴を上げ、早苗の腕にしがみつく。


「大丈夫、大丈夫よ。ただの時計の故障だから⋯⋯」


 早苗は鈴音の背中を撫でながら必死に自分にもそう言い聞かせた。だが、彼女の手のひらにはじっとりと冷たい汗が滲んでいた。



 一方、スタジオ奥のコントロールルームでは、スタッフたちが沈痛な面持ちでモニターの群れと対峙していた。


「宇園チーフと連絡はつきましたか?」


 腕を組んだ風河 薫が、苛立ちと不安の混じった声で矢部に問う。


「いえ、電話にも出ません。大学の深層計算層からの回線は生きていますが⋯チーフがいない今、こちらからコアのアルゴリズムには手出しできません」


 矢部は血走った目でコンソールを叩き続けていた。

「風河さん、これを見てください。リハーサルは終わって綺羅々のアバターはシステムからログアウトしているはずなんです。それなのにエッジサーバーの負荷がまったく下がらない」


「どういうことですか。配信もしていないのに、何がサーバーに負荷をかけていると?」


「『期待(・・)』です」


 隣でパケット解析を続けていた篠崎が、亡霊でも見るかのような目でポツリと呟いた。


「明後日のコラボライブに向けた数百万人の視聴者の『期待』という名のノイズが、ネットワークの空き領域に勝手に事前読み込み(プレロード)され続けているんです。誰もアクセスしていないはずの座標に、実体のないトラフィックが山のように積み上がっていく⋯⋯」


「馬鹿なことを言わないでください。人間の感情がネットワークに干渉するなど、オカルトの類です」


 風河は徹底した合理主義者としてそれを一蹴しようとしたが、その声にはいつもの冷徹な張りが欠けていた。彼女の足元でも先ほどからボールペンが転がる速度が妙に遅かったり、スタッフの足音が二重に聞こえたりと、合理では説明のつかない現象が連続しているのだ。


「オカルトで済むなら、そっちの方がマシですよ」


 ミキサー卓から戻ってきた灰原が重い足取りでコントロールルームに入ってきた。彼は首のタオルを乱暴に引っ張り、メインモニターの前にタブレットを投げ出した。


「誰もいない収録ブースのマイクの電源を入れてみた。ノイズゲートも全部切って部屋の『素の音』を拾ってみたんだ。⋯⋯聞いてみろ」


 灰原が再生ボタンを押す。

 スピーカーから流れてきたのは、静寂ではなかった。


『――らら』

『――きら、ら』

『――ここに、いる』


「⋯⋯っ!?」


 風河が息を呑み、篠崎が咄嗟に耳を塞ぐ。


 それは地鳴りのような、あるいは何万匹もの羽虫が羽音を立てているような、おぞましい歓声の残響だった。

 誰もいない完全防音の密室。そこから確かに「数百万の熱狂」が物理的な音波となって観測されている。


「システムのエラーじゃない。空間そのものが、星川 綺羅々という存在の『熱』を記憶してバグり始めてるんだ。宇園の野郎が何に気づいて逃げ出したのかは知らねえが⋯⋯」


 灰原は忌々しげにコントロールパネルを睨みつけた。


「俺たちは今、とんでもない『お化け屋敷』の中に閉じ込められてるぞ」


 誰もいないブースから漏れ聞こえる幻聴。逆流してくる未来のデータ。そして、時折コマ送りになるスタジオの現実。

 理解の及ばない現象に取り囲まれ、流れ星スタジオのスタッフたちは来るはずのコラボライブに向けて、ただ名状しがたいパニックと絶望を膨らませていくことしかできなかった。

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