8 観測の熱狂と、因果律
コントロール室を飛び出した透は、逃げるようにスタジオ裏の非常階段へと駆け込んだ。
重い鉄扉を閉めると、アイドルの歌声も、サーバーの排熱音も、すべてが分厚いコンクリートの向こう側に遮断された。薄暗い踊り場には、非常誘導灯の緑色の光だけが冷たく落ちている。
「⋯はぁ、はぁっ⋯ぁ」
透はコンクリートの壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちるように座り込んだ。
酸素が足りない。息を吸っても、肺の奥まで空気が届かない感覚があった。震える両手で顔を覆い、必死に呼吸を整えようとするが、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。
(落ち着け。論理的に考えろ。⋯すべては数値化できる。計算できるはずだ)
透は脳内で、必死にデバッグ作業を開始した。
先ほどのコントロール室での異常現象。それを合理的に説明するための「言い訳」を、彼の中のエンジニアとしての理性が必死に掻き集める。
(Ping値がマイナスになったのは、NTPサーバーの時刻同期エラーだ。大学側のマスタークロックとエッジサーバーのローカルクロック間に、異常な揺らぎが発生し、タイムスタンプが逆転して記録されたに過ぎない。そうだ、ネットワークインフラでは稀に起こるバグだ)
(音声の逆転もそうだ。AIの予測アルゴリズムが、伊知花のこれまでのステップや呼吸のパターンから『次に発声するタイミング』を誤って算出し、バッファ上の合成音声をフライングで再生してしまったんだ。マイクのハウリングと重なって、あんな不気味なエコーに聞こえただけだ)
そうだ。すべてはソフトウェアの不具合だ。
ハードウェアの限界と、最適化不足のアルゴリズムが引き起こした、ただの奇跡的なバグの連鎖。
直せないエラーなんてない。自分が書いたコードなのだから、原因は必ずシステムのどこかにある。
(⋯本当に、そうか?)
しかし、透の奥底にある「極めて優秀な技術者としての直感」が、その陳腐な言い訳を冷酷に切り捨てていく。
どんなに高度な予測アルゴリズムを組もうが、現実の人間が声を出すより「先」に、その声の波形を完全に生成してスピーカーから出力することなど不可能だ。
どんなに時計が狂おうが、パケットが『送信される前』に、受信確認のデータがネットワーク上に実体として発生することなどあり得ない。
それは、工学的なエラーではない。
因果律そのものが、時間軸に対して逆流しているのだ。
『観測者の熱狂が、膨大な情報の重みとなってその座標に雪崩れ込む』
丹羽教授の呪いのような仮説が、脳裏にこだまする。
数百万人の「星川 綺羅々はこう動く」「こう歌う」という強烈な思い込み。
それがシステムを通じて伊知花という座標に集中し、世界を構成する演算エンジンに過負荷を与え……ついには『現実の伊知花の行動』よりも先に、『世界が星川 綺羅々の結果を処理し始めている』としたら?
自分が組み上げた『Unisonプロトコル』が、ただの配信システムではなく、数百万人の「観測」を束ねて現実を書き換えるための恐るべき回路になってしまっているとしたら。
「俺が、伊知花を⋯?」
透は自分の両手を見つめた。
両親に放置され、ゴミだらけの部屋で膝を抱えていた妹。
「私を、誰もが目を離せない完璧な女の子にして」と泣きついた彼女に、自分は最高の居場所を与えたはずだった。彼女を守るための、最も美しく、最も強固な檻。
だがその完璧な偶像が今、巨大なブラックホールのように、現実の物理法則すらも歪めて飲み込もうとしている。
このまま同接数が膨れ上がり、負荷が臨界点を超えた時、世界はエラーを起こしたプログラムをどう処理するのか。
『存在しなかったこと』として、デリートするのか。
「⋯⋯ふざけるな⋯ッ!」
透は、震える両手を強く握り込み、立ち上がった。
非常誘導灯の光の中、彼の瞳には、絶望を無理やり押し殺したような暗い炎が宿っていた。
「宇宙だろうが物理法則だろうが、知ったことか。俺のシステムだ。俺の妹だ。バグがあるなら、力ずくで書き直してやる」
透はスマートフォンを取り出し、大学の深層計算層へのアクセス権限をさらに一段階引き上げるコマンドを叩き込んだ。
恐怖や混乱に押し潰されそうになる心を、「エンジニアとしてのタスク」に無理やり変換する。そうしなければ、立っていることすらできそうになかった。
重い鉄扉を押し開け、透は再び、熱気と狂気に満ちたコントロールルームへと戻っていった。




