7 加速する歪みと、未来の声
大型コラボライブまで、あと3日。
『流れ星スタジオ』のサーバーコントロール室は、物理的な排熱による「熱」とはまったく異なる、異様で重苦しい空気に支配されていた。
数十台のモニターが放つ青白い光の中、若手エンジニアの矢部 良太は、頭を抱えるようにしてコンソールに突っ伏していた。
「⋯⋯チーフ、これ、もう論理演算の範疇を超えてます」
矢部が血走った目で指差したメインモニターには、数百万の視聴者(現在は仮想的な負荷テストのリクエストも含む)から送られてくる同期確認のトラフィックグラフが表示されていた。
本来、サーバーがデータを送り、クライアントがそれを受け取ったことを返すのが正常な通信のやり取りだ。しかし、グラフが示す波形は、明らかにその因果律を無視していた。
「視聴者側からの逆流データが、まるでひとつの巨大な『波』になってエッジノードを叩きつけています。負荷分散装置がトラフィックを分散させようとしても、ノード自体が『そのデータを受け取ることを拒絶』しているみたいに、パケットを弾き返しているんです」
「篠崎、昨日俺が当てた120Hzの同期パッチは機能していないのか?フィルタリングの設定はどうなっている」
透が苛立ちを込めて問うと、隣のデスクでログを解析していた篠崎が、微かに震える指でキーボードを叩いた。彼女の冷静沈着な顔には、明確な恐怖の色が浮かんでいた。
「パッチは完全に機能しています。大学側の深層計算層とのリンクも正常です。ですが⋯⋯ノイズのフィルタリングが無意味なんです。チーフ、これを見てください」
篠崎がサブモニターに引き出したのは、各端末との通信遅延を示すPing値のリアルタイムログだった。
「なんだこれは⋯⋯」
透は息を呑んだ。
通常、いかに高速な光回線を用いても、物理的な距離がある以上、数ミリ秒から数十ミリ秒の遅延は必ず発生する。しかし、モニターに表示されている数値には、工学的に、いや物理学的にあり得ない記号が付与されていた。
『Ping:-4ms』
『Ping:-12ms』
「マイナス⋯⋯?応答速度がマイナスだと?」
「はい。未来のデータが、過去を上書きしています」
篠崎の声は、もはや報告というより独り言のように虚ろだった。
「私たちが大学のスパコンから引き出した『星川 綺羅々の物理演算データ』を送信するよりも前に、視聴者側から『綺羅々はこう動いたはずだ』という結果のデータが先に届いているんです。⋯⋯ノイズというより、何百万という人間の『思い込み』そのものが実体を持って、私たちのシステムの因果を逆流してきている感覚です」
未来の結果が、現在の演算を書き換える。
透の背筋に、氷のような悪寒が走った。丹羽教授の言葉が蘇る。『観測者の思い込みが、膨大な情報の重みとなってその座標に雪崩れ込む』。
「馬鹿な。NTPサーバーの時刻同期ミスだ。クロック周波数の異常で、タイムスタンプがズレているだけだ」
透は無理やり自分を納得させるように吐き捨てた。
「矢部、タイムサーバーへの問い合わせをローカルに切り替えろ。篠崎はマイナスのPingを叩き出しているパケットをすべて破棄するスクリプトを組め。システムが未来を予測するわけがない」
「でもチーフ!これ以上強制的に破棄させたら、エッジサーバーと大学側の間で矛盾が臨界点に達して――」
矢部の悲痛な叫びを遮るように、スタジオの防音扉の向こうから、マイクを通した伊知花(星川 綺羅々)の歌声が響いてきた。今日は本番を想定した、衣装チェンジと激しいダンスを伴う通しリハーサルだ。
『――だからずっと~私だけを見ててね!』
透はコントロール室のガラス越しに、ブースの中で踊る伊知花を見つめた。
トラッキングスーツを着た彼女の動きは、相変わらず完璧だった。だが次の瞬間、透の耳を疑うような現象が起きた。
『――だからずっと~(だからずっと~)私だけを(私だけを)見ててね!(見ててね!)』
防音扉越しに聞こえる伊知花の「生の声」と、システムを経由してモニタースピーカーから流れる「綺羅々の声」。
それが、不気味なエコーのように重なって聞こえたのだ。
しかも、遅れて聞こえてくるのは「生の声」の方だった。モニタースピーカーから流れる合成音声が、ブース内の伊知花が実際に発声するよりも『ほんのコンマ数秒早く』響いている。
「⋯⋯ッ!」
透は反射的にスピーカーの電源を叩き切った。
静寂が訪れる。ブースの中では、伊知花が何事もなかったかのように笑顔で踊り続けている。
矢部と篠崎も、今の現象に気づいたのか、血の気の引いた顔で透を見つめていた。
システムが伊知花の行動を予測したのではない。
数百万人の観測者が無意識に作り上げる『星川 綺羅々の理想の挙動』という圧倒的な情報質量がシステムを通じて、現実の伊知花という物理的存在を『後からトレースさせている(引っ張っている)』のだ。
「⋯⋯チーフ。今の、声」
「何も言うな」
透は篠崎の言葉を鋭く遮った。
「機材のハウリングだ。音声出力のルーティングがループしているだけだ。⋯⋯俺が直す」
透は震える手でタブレットを掴み、コントロール室を飛び出した。
システム上のバグだ。タイムスタンプのズレだ。ルーティングのミスだ。
必死に論理的な言い訳を並べ立てながらも、透の頭の中では、現実の崩壊を告げるカウントダウンが、間違いなくマイナスの時を刻み始めていた。




