表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第一章:「Xデー」事象の地平面
6/26

6 依存の引力と、決定的な綻び

 夜。マンションの302号室。

 スタジオでの完璧なパフォーマンスを終えた伊知花は、ダボダボのジャージ姿に着替え、散らかったソファの上で完全に虚脱していた。


「⋯お兄ちゃん、ジュース」

「冷蔵庫から自分で出せ。それと、少し配信のペースを落とすぞ」


 透の言葉に、伊知花はビクッと体を震わせ、血走った目で兄を睨んだ。


「なんで!?来週コラボライブなんだよ!?今休んだら、みんなが私を忘れちゃう!」

「システムのメンテナンスが必要なんだ。どうも最近、機材の調子がおかしい」

「お兄ちゃんが作ったシステムでしょ!?直せないの!?」


 伊知花は癇癪を起こすようにクッションを床に投げつけた。


「私が綺羅々でいなきゃ⋯⋯私が完璧な女の子でいなきゃ、お兄ちゃんは私のことなんか見てくれないじゃないっ!また、パソコンの画面ばっかり見て⋯⋯私のことなんか、どうでもよくなるんでしょ!」


 それは、両親から放置され、決して届かない兄の背中だけを見て育ってきた少女の、悲痛な叫びだった。

 星川 綺羅々という完璧な偶像は、リスナーのためではなく、他でもない「宇園 透」という兄を自分に繋ぎ止めておくための、彼女の必死の依存の形なのだ。


「伊知花、俺はそういう意味で言ったんじゃ⋯⋯」


 透が一歩近づき、床に転がった空のペットボトルを拾い上げようとした、その瞬間だった。

 伊知花の飲んでいたエナジードリンクの空き缶が、テーブルの端から滑り落ちた。


 透の視界の中で。

 空き缶は、床から10センチほどの空中で――完全に『静止(・・)』した。


 コンマ数秒ではない。

 一秒。二秒。三秒。

 まるでそこだけ、動画の再生ボタンが一時停止されたかのように、空き缶は微動だにせず空中に浮かび続けていた。


「⋯ッ!」


 透は息を呑み、後ずさった。

 錯覚ではない。眼精疲労でもない。システムのバグでもない。

 自分の目の前で、明確に、物理法則が破綻している。


 カランッ、と。

 四秒後。宇宙の処理が追いついたかのように、空き缶は何事もなかったように床に落ちて転がった。

 不貞腐れた伊知花はスマホの画面を見ていて、その異常な現象に全く気づいていない。


 透の耳の奥で、丹羽教授の言葉が蘇る。


『情報密度が高すぎるせいで、世界を構成する仕組みそのものが、重要度の低い物理現象の計算を後回しにし始めたとしたらどうだ?』


『負荷が臨界点を超えれば、世界はその場所を存在しないものとして切り捨てるだろう』


 システムトラブルという透の楽観は、今、完全に消えた。

 目の前で起きた現象は、幻覚でもソフトウェアの不具合でもない。現実の、我々が知る物理法則とは違う異常な現象が起こっている。大学の計算リソースをいくら注ぎ込もうが解決できる次元の問題ではなかった。


 なぜ、こんな異常が起きているのか。その原因は全く分からない。

 だが、丹羽教授の狂った仮説が、恐ろしいほどの現実味を帯びて透の脳髄を侵食していく。


 この世界そのものが、正体不明の負荷に耐えきれず、静かに崩壊を始めている――。

 理由のわからない絶望と底知れぬ不安が、透の足元からひたひたと這い上がってきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ