6 依存の引力と、決定的な綻び
夜。マンションの302号室。
スタジオでの完璧なパフォーマンスを終えた伊知花は、ダボダボのジャージ姿に着替え、散らかったソファの上で完全に虚脱していた。
「⋯お兄ちゃん、ジュース」
「冷蔵庫から自分で出せ。それと、少し配信のペースを落とすぞ」
透の言葉に、伊知花はビクッと体を震わせ、血走った目で兄を睨んだ。
「なんで!?来週コラボライブなんだよ!?今休んだら、みんなが私を忘れちゃう!」
「システムのメンテナンスが必要なんだ。どうも最近、機材の調子がおかしい」
「お兄ちゃんが作ったシステムでしょ!?直せないの!?」
伊知花は癇癪を起こすようにクッションを床に投げつけた。
「私が綺羅々でいなきゃ⋯⋯私が完璧な女の子でいなきゃ、お兄ちゃんは私のことなんか見てくれないじゃないっ!また、パソコンの画面ばっかり見て⋯⋯私のことなんか、どうでもよくなるんでしょ!」
それは、両親から放置され、決して届かない兄の背中だけを見て育ってきた少女の、悲痛な叫びだった。
星川 綺羅々という完璧な偶像は、リスナーのためではなく、他でもない「宇園 透」という兄を自分に繋ぎ止めておくための、彼女の必死の依存の形なのだ。
「伊知花、俺はそういう意味で言ったんじゃ⋯⋯」
透が一歩近づき、床に転がった空のペットボトルを拾い上げようとした、その瞬間だった。
伊知花の飲んでいたエナジードリンクの空き缶が、テーブルの端から滑り落ちた。
透の視界の中で。
空き缶は、床から10センチほどの空中で――完全に『静止』した。
コンマ数秒ではない。
一秒。二秒。三秒。
まるでそこだけ、動画の再生ボタンが一時停止されたかのように、空き缶は微動だにせず空中に浮かび続けていた。
「⋯ッ!」
透は息を呑み、後ずさった。
錯覚ではない。眼精疲労でもない。システムのバグでもない。
自分の目の前で、明確に、物理法則が破綻している。
カランッ、と。
四秒後。宇宙の処理が追いついたかのように、空き缶は何事もなかったように床に落ちて転がった。
不貞腐れた伊知花はスマホの画面を見ていて、その異常な現象に全く気づいていない。
透の耳の奥で、丹羽教授の言葉が蘇る。
『情報密度が高すぎるせいで、世界を構成する仕組みそのものが、重要度の低い物理現象の計算を後回しにし始めたとしたらどうだ?』
『負荷が臨界点を超えれば、世界はその場所を存在しないものとして切り捨てるだろう』
システムトラブルという透の楽観は、今、完全に消えた。
目の前で起きた現象は、幻覚でもソフトウェアの不具合でもない。現実の、我々が知る物理法則とは違う異常な現象が起こっている。大学の計算リソースをいくら注ぎ込もうが解決できる次元の問題ではなかった。
なぜ、こんな異常が起きているのか。その原因は全く分からない。
だが、丹羽教授の狂った仮説が、恐ろしいほどの現実味を帯びて透の脳髄を侵食していく。
この世界そのものが、正体不明の負荷に耐えきれず、静かに崩壊を始めている――。
理由のわからない絶望と底知れぬ不安が、透の足元からひたひたと這い上がってきていた。




