幕間1:観測終了と、遺された平凡
帝都理工大学、地下研究室。
真夏の熱暑から隔絶された丹羽研究室の観測ルームは、ひどく無機質で空虚な冷気に満ちていた。
「今日も、ゼロ。ノイズ一つすら拾わないな」
丹羽教授は、メインモニターに映し出された真っ平らなグラフを見つめ、深く重い溜息をついた。
画面に表示されているのは、かつて彼女が心血を注ぎ、この世界で公的な学問として認められていたはずの『認識の質量』の観測スペクトルだ。
7月24日、あの「星川 綺羅々」のコラボライブの夜。
大衆の狂熱が臨界点に達し、観測システムが特異点の発生を予期して「隔離モード」へ移行したあの瞬間を境に――世界から、エピステミオンという概念そのものが完全に消失してしまったのだ。
「システムのエラーじゃない。センサーも正常、ネットワークも完璧に稼働している。⋯⋯でも、観測できない」
丹羽は手元のコーヒーカップを弄りながら、自嘲気味に笑った。
世間では星川 綺羅々のライブは歴史的な大成功として語り継がれ、今もなお多くのファンが彼女に熱狂している。だが、その熱狂から生じるはずの「物理法則を歪める力」は、今はもう微塵も存在していなかった。
それはただの「人間の純粋な感情」という、科学の範疇には収まらない、平凡で無害な熱意へと戻ってしまったのだ。
あの夜、強制的なセーフティプロトコルが解除された直後、丹羽が目にしたのは無限大に発散しようとしていたエネルギーの数値が、コンマ一秒の間に「完全にデリートされた」という不可解なログだった。
特異点は開かなかった。
いや、開く直前で何者かの手によって宇宙のルール(因果律)そのものが根本から書き換えられ、事象が修正されたとしか思えなかった。
「エピステミオンが公理として認められていたこの世界そのものが、異常なエラー状態だった。そして、そのエラーはもう完全に『デバッグ』されてしまった。そう考えるのが自然⋯⋯か」
丹羽の視線が観測ルームの隅にある、今は主のいないデスクへと向けられた。
天才的な頭脳を持ち、誰よりも冷徹にシステムを組み上げていた彼女の協力者。
宇園 透の姿はあの日を最後に行方知れずとなっている。
彼が残したプログラムのソースコードをいくら解析しても、あの日彼が何を行い、どこへ消えたのか、その痕跡は一切残されていなかった。
まるで最初からこの次元に存在していなかったかのように。
「宇園。お前がこの狂った世界を、ただの『退屈な現実』に書き直してくれたのか?」
丹羽はモニターの電源を落とした。
青白い光が消え、研究室は完全な静寂と暗闇に包まれる。
もはや彼女が観測すべき「魔法」は、この宇宙のどこにも存在しない。
天才エンジニアと、システムから抹消された黒髪の少女。
二人の「観測不可能な」存在が成し遂げた、ただ一度きりの完璧な反逆。
かくして、狂気の特異点を巡る物語は誰にも知られることなく幕を下ろし、世界は再び退屈で愛おしい日常の平穏を取り戻したのだった。




