43 空白の記憶と、残された微笑み
運命の「Xデー」から数日後。
7月も終わりに近づき、帝都には本格的な真夏の陽射しが降り注いでいた。
『流れ星スタジオ』のラウンジには、エアコンの静かな駆動音と、窓の外から微かに聞こえる蝉時雨だけが響いている。
あの夜、同時接続数1200万人という歴史的な大記録を打ち立てた「星川 綺羅々」の狂騒は、世間ではいまだ冷めやらぬ熱狂としてメディアを席巻していた。だが、その爆心地であったはずのスタジオ内には、奇妙なほどの静寂とどこか重苦しい空気が漂っていた。
「⋯⋯伊知花ちゃん?自分のジュース、もう空っぽよ」
不意に声をかけられ、窓の外をぼんやりと見つめていた宇園 伊知花はビクッと肩を揺らした。
見れば手元のグラスのストローから、ズズッと氷の鳴る虚しい音が立っている。向かいの席に座る青山 早苗と隣の泉 鈴音が、ひどく心配そうな顔で伊知花を見つめていた。
「あ⋯⋯ごめんなさい、早苗さん。ちょっとボーッとしちゃってて」
伊知花は慌ててグラスをテーブルに置き、無理に笑顔を作ろうとした。だが、その表情は痛ましいほどに生気がなく、ひどく落ち込んでいることは誰の目にも明らかだった。
「無理もないわよ。あんな凄まじいステージをこなしたんだもの。まだ疲れが抜けきってないのよ」
早苗が慰めるように伊知花の頭を撫でる。
だが、伊知花が抱えている不安の正体は「疲労」ではなかった。
「⋯⋯違うんです。私、本当に⋯⋯何も覚えていなくて」
伊知花は自身の両手を力なく見つめ、ポツリとこぼした。
「ライブの一週間くらい前から、自分の体が自分じゃないみたいにフワフワしていて⋯⋯。ライブ当日の記憶なんて完全にすっぽり抜け落ちているんです。気がついたらステージの上で倒れていて⋯⋯みんなが『大成功だったよ』って言ってくれても、まるで他人の夢の話を聞いているみたいで」
特異点に完全に肉体をオーバーライドされていた間のログは、伊知花の脳には一切残されていなかった。彼女の中にあったはずの「星川 綺羅々」という強烈な偶像の感覚すらも、今は綺麗に消え去っている。
「気に病むことはないわ。極度のプレッシャーと集中で、記憶が飛ぶことは私たちでもよくあることだし。ね?鈴音ちゃん」
「う、うん!私も前回のライブのアンコール、頭真っ白で全然覚えてないもん!だから伊知花ちゃんは何もおかしくないよ!」
早苗がフォローを入れ、鈴音も明るく同調する。
二人はあえて、伊知花が一番聞きたがっている「その名前」を出さないように、必死に話題を逸らそうとしていた。だが、限界だった。
「⋯⋯お兄ちゃんは」
伊知花が、絞り出すような声で呟いた。
「お兄ちゃんは、まだスタジオに来ていないんですか?」
その言葉に、ラウンジの空気が一気に重く沈んだ。
ちょうどそこへ、何かの資料を抱えたチーフマネージャーの風河 薫が通りかかり、伊知花の問いを聞いて足を止めた。風河は小さく首を横に振った。
「ええ。あなたのお兄さんはあの日から一度も出社していません。マンションにも帰っていないみたいだし、連絡も一切つかない。警察に行方不明の届け出は出してはいますが⋯⋯」
「そんな⋯⋯」
伊知花は唇を強く噛み締め、俯いた。
あの「シスコン」とまで呼ばれ、伊知花の一挙手一投足に異常なまでの執着を見せていた兄が、彼女の最大の晴れ舞台が終わった途端に煙のように姿を消してしまったのだ。
コントロールルームのスタッフたちの証言も奇妙だった。「気づいたら席にチーフがいなかった」と口を揃えるだけで、誰も彼がスタジオから出ていく姿を見ていないという。
「⋯⋯私、嫌われちゃったのかな」
ポロリと、伊知花の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「私が、お兄ちゃんに甘えすぎたから……重荷になって、それで……っ」
「伊知花ちゃん!そんなことない、透さんが伊知花ちゃんを置いていくわけないじゃない!」
鈴音が慌てて伊知花の肩を抱き寄せ、背中をさする。
だが、伊知花の涙は止まらなかった。
記憶がすっぽりと抜け落ちている彼女の脳裏に、たった一つだけ、奇妙な映像が焼き付いて離れないのだ。
それは、現実のステージの記憶ではない。
真っ青なグリッドの線が走る、暗くて、どこまでも深い光の渦の中。
そこに透が立っていた。
だが、夢の中で見た兄の姿はまるでノイズの混じったホログラムのように、ひどく曖昧で、今にも消え入りそうなほど輪郭が透き通っていた。
そして、彼は伊知花の方を見て――ひどく安堵したような、それでいて、泣きたくなるほど哀しい、柔らかい微笑みを浮かべたのだ。
『――お前はもう、自由だ』
そんな声が聞こえた気がした。
そして透の隣にはもう一人、彼の手を引く「黒髪の少女」の影があったように思えるが、そこから先の記憶は何度思い返してもノイズに掻き消されてしまう。
(お兄ちゃん⋯⋯どこに行っちゃったの……?)
ただの夢だと、自分に言い聞かせようとしても無駄だった。
あの時の、この世のすべてから解放されたような兄の哀しい笑顔が、伊知花の魂の奥底に決して消えない喪失感として深く刻み込まれていたのだった。




