4 日常に混じるノイズと、錯覚の連鎖
「またペットボトルの中身残ってるのに、そのまま捨てやがって」
都内の一等地にある高級低層マンション。その3階、302号室のリビングで、宇園 透はため息をついた。
大手バーチャルアイドル事務所『流れ星スタジオ』が看板タレントのために用意した、防音完備の豪華な3LDK。しかしリビングの床は、脱ぎ散らかされた服とコンビニ弁当の空き容器で埋め尽くされている。
両親は海外の研究所に詰めたまま、数年に一度しか帰国しない。結果として生活能力の欠如した17歳の少女の面倒を見るのは、兄である透の固定化された役割となっていた。
「おい伊知花、起きろ。今日からスタジオで大型コラボの合同リハだろ」
透がソファで毛布にくるまっている塊を揺さぶると、「うぅ⋯あと五分⋯」という情けない声が返ってきた。数百万人の熱狂を統べる『星川 綺羅々』の、これが現実の姿だ。
透は呆れながら、床に落ちていたボールペンを拾い上げようとした。
手が滑り、ペンが床に向かって落下する。
――その時、ペンの滞空時間が、ほんのコンマ数秒だけ「不自然に長い」ように見えた。
カチャッ。
ペンは床に落ちた。透は自分の手をまじまじと見つめ、眉間を揉む。
「⋯⋯またか」
昨日のコンテナハウスでのコーヒーの一件以来、どうも視覚がおかしい。脳が処理落ちを起こしているような感覚だ。
(やはり昨夜、大学の深層演算ターミナルで120Hzの同期パッチを徹夜で組み上げたせいだな⋯)
大学の地下で感じたスマートフォンの不自然な浮遊感。そして丹羽教授の言っていた「現実の宇宙が処理落ちを起こしている」というオカルトじみた仮説が脳裏をよぎったが、透は即座にそれを否定した。極度の疲労による眼球運動の遅延だ。それ以外にあり得ない。
大学の講義を適当にこなし、学食で大介と合流した時も、透の頭の中はインフラの挙動のことでいっぱいだった。
「お、透。今日の夕方から綺羅々ちゃんのコラボライブの準備だろ?頑張れよ、裏方さん」
大介がカツカレーを平らげながら陽気に笑う。
世間では数百万人が熱狂し、少しでも繋がりを持ちたいと願うトップバーチャルアイドル『星川 綺羅々』。そのシステムの全権を握る透と、これほど親しいにもかかわらず大介の態度はどこまでも淡白だった。
理由は単純で、彼が「二次元のアイドル」や「バーチャル」といった文化に微塵も興味がないからだ。大介にとって、画面の中で歌う美少女よりも、目の前のカツカレーや週末のフットサルの方がよほど価値がある。その徹底して地に足のついた現実主義こそが、透が彼を「唯一の錨」として心地よく感じる最大の理由でもあった。
「ああ。トラフィックの負荷が読めないから、昨日当てたパッチの挙動を念入りに監視しないとまずい。そういえば、佐久間は?」
「あいつなら『ゼミのレポート終わってねえ!』って図書館にこもってるよ。そうそう、あいつがまた変な噂仕入れてきてさ」
大介は面白そうに声を潜めた。
佐久間もまた、ある意味では大介と同系の人間だった。
彼も「二次元のアイドル」そのものには一切の興味がない。
彼の関心は常にオカルトや陰謀論、スピリチュアルな怪現象のみに向いているのだ。だからこそ、星川 綺羅々という数百万を魅了する巨大コンテンツすら、佐久間にとってはただの「不気味な都市伝説の発生源」としてしか機能していなかった。
「綺羅々の熱狂的なファンたちが、深夜に『同時視聴の儀式』みたいなことやってるらしいぜ。で、昨日の夜、ネットの掲示板で『部屋の空気が一瞬無くなった』とか『無音になった』って書き込みが相次いだんだと。佐久間は『ついに綺羅々の信者が空間を歪めた!』って大騒ぎしてたけど⋯⋯まあ、ただの集団幻覚だよな」
透の背筋を、冷たいものがツーッと流れ落ちた。
昨日のスタジオで、サウンドエンジニアの灰原が検知した「音の消失」。そして、篠崎が検知した「視聴者からの謎の逆流データ」。それらはすべてリンクしている。
「⋯大介、俺は先に行く。少し、エッジサーバーの様子を見ておきたい」
「えっ、まだメシ食い終わってないぞ?」
「後でカロリー食品でもかじる」
透は足早に学食を後にした。
ただのバグだ。エンジンの過負荷が視聴者の端末に誤作動を起こさせているだけだ。昨日当てた120Hzのパッチで、すべては正常化しているはずだ。
透は必死に自分にそう言い聞かせながらも、丹羽教授の仮説が頭の片隅でチラつく。そんな原因のはっきりしない不安を抱えたまま、曇り空の下をスタジオへと急いだ。




