3 システムの不具合と、教授の仮説
検証のため透は、その足で大学の地下にある、丹羽教授の研究室へと向かった。教授が持っている情報の照らし合わせと、修正コードの負荷テストを行うためだ。
透が通う帝都理工大は、国内でもトップクラスの設備を誇る研究機関である。とりわけ理学部棟の大深度地下層は、分厚い防音壁と厳重な空調管理に守られた、巨大な演算装置たちが鎮座する特殊な領域だった。
その最奥で、巨大なスーパーコンピューターを半ば私物化するように陣取っているのが、理論物理学の権威である丹羽 雫教授だ。白衣を無造作に羽織った彼女は、女性でありながら威圧感のある低い声と男性的な口調で喋る、学内でも札付きの変人学者として知られていた。
透は彼女のゼミに所属しているわけではない。だが、彼女の難解な物理シミュレーションのコード構築を透が手伝う見返りとして、このスパコンの強大な演算リソースを自由に間借りする権利を得ていた。独自のシステムを組み上げる透の常軌を逸した技術力を、丹羽教授は誰よりも高く評価している。だからこそ、透が妹のために仮想空間の物理エンジンを運用しているという事情も、彼女には明かしていたのだ。
「空間の座標計算に矛盾が生じ、音声データが消失しただと?」
白衣姿の丹羽教授は、透が持ち込んだログと、灰原から受け取った音声データを見比べ低く唸った。
「ええ。お恥ずかしい話ですが、俺の組んだエンジンがピーク時の負荷に耐えきれず、スレッド処理を落としたみたいです。アルゴリズムを最適化すれば直るはずなんですが⋯」
「馬鹿を言え。お前の書いたコードがどれほど重かろうと、現実のスタジオの『音』を消滅させることなど不可能だ」
丹羽教授はタブレットを机に放り投げ、乱雑な机の上から一枚のグラフを引っ張り出した。彼女の瞳に、科学者としての不気味な好奇心が点灯している。
「いいか宇園。昨夜の23時14分。お前がその『システム障害』を検知したのと全く同じミリ秒、私の観測機器もこの周辺の重力場における微小な揺らぎを検知していたんだよ」
「⋯⋯は?教授、何を言ってるんですか。ただのソフトウェアのバグですよ」
透は呆れたように笑ったが、教授は一切笑わずにホワイトボードの前に立った。
「あくまで私が研究している『仮説』の話だ」
教授はホワイトボードに、妹のアイコンと、それを取り囲む無数の観測者の目を描いた。
「この世界が、ある一定の法則に従って動いている巨大な大系だと仮定しろ。その大系の中に、突如として『天文学的な数の観測者』に注視される一点が生み出された。数十万、数百万という人間の『星川 綺羅々はそこにいる』という強烈な思い込みが、膨大な情報の重みとなってその座標に雪崩れ込む」
教授のペン先が、妹のアイコンを黒く塗りつぶした。
「世界の仕組みは、その矛盾した密度の高さを処理しきれず、綻びを出し始める。私はこれを『エントロピーの局所的飽和』と呼んでいる」
「エントロピーの……なんですか?」
「お前の言葉で言えば『処理落ち』だ。情報密度が高すぎるせいで、世界を構成する仕組みそのものが、重要度の低い物理現象の計算を後回しにし始めたとしたらどうだ?空中のコーヒーの落下速度や、部屋の中の小さな物音が一時的に描画されなくなる」
もうすでに冷めきっているであろうコーヒーの入ったマグカップを持ち上げると、落ちるような動きをして見せ、大真面目な顔でそう説明する教授。
透はそれを聞いて、思わず大きな溜め息をついた。
「教授、いくらなんでも飛躍しすぎです。現実の宇宙が処理落ちを起こすなんて、SF映画の観すぎですよ。佐久間みたいなオカルトマニアなら喜ぶでしょうけど、今回はただのサーバーの熱暴走とオーディオの処理遅延が重なっただけです」
「そうか?だが仮にこの仮説が正しく、その処理落ちが限界に達したらどうなると思う?」
「さあ。ブルースクリーンにでもなって、世界が再起動でもするんですか?」
透の冗談めかした言葉に、丹羽教授は鋭い視線を向けた。
「負荷が臨界点を超えれば、世界はその場所を『存在しないもの』として切り捨てるだろう。強制的なデリート⋯⋯虚無への回帰だ」
底冷えのするような声だった。
だが、透は話半分に聞き流し、タブレットを手に取って立ち上がった。そんなオカルトじみた現象が、現実の物理空間で起こるはずがない。
「面白い思考実験ですが、俺は現実の不具合を直さなきゃならないんで。宇宙がクラッシュしないように、せいぜいアルゴリズムを最適化しておきますよ」
透はそう言って研究室を後にした。教授の極端な理論物理学者の妄想に付き合っている暇はない。原因は自分のシステムであり、ソフトウェアの改修で必ず解決できる。透はそう固く信じていた。
雨音が、地下室の壁の向こうから重く響いていた。
―――――――――――――――
研究室を出た透は、そのまま理学部棟のさらに深層へと続く専用エレベーターに乗り込んだ。向かうのは、学内でも限られた者しか立ち入りを許されない「深層演算ターミナル」だ。ここには、大学のメインフレームとコンテナハウスを直結する専用回線の終端ノードがある。
エレベーターを降りると、そこは研究室の乱雑さとは対照的な、冷徹なまでの静寂に支配された空間だった。等間隔に並んだサーバーラックが発する青いLEDの光が、鏡のように磨かれた床に反射している。
「さて、始めようか」
透は端末デスクに座り、多層化されたセキュリティを解除していく。モニターには、スタジオで篠崎や矢部が見ていたものより遥かに高解像度な、大学側の演算リソースのステータスが展開された。
大学側のマスターノードの状況は、一見すれば「正常」そのものだった。しかし、透が修正パッチを適用し、擬似的に数百万人の観測負荷を再現するシミュレーションを開始した途端、コンソールに表示されるグラフが異常な脈動を始めた。
「⋯なんだ、この逆流負荷は」
キーボードを叩く透の指が止まる。
通常、データは大学からスタジオへ、そして視聴者へと流れる。だが、篠崎が指摘した通り、視聴者側からの「応答」が、単なるパケットの域を超えた異様な熱量を持って大学の基盤を突き上げている。
「プロトコル上の不整合じゃない。⋯物理的なハードウェアの干渉か?」
透は光回線の伝送効率を示すパラメータを確認した。数値があり得ない速度で上下に振れている。まるでケーブルの中を流れているのが電子の信号ではなく、もっと泥臭く、実体を持った「意思」の奔流であるかのように。
その時、端末の横に置いていた自身のスマートフォンが不自然に震えた。
通知が来たわけではない。ただ、机の振動とは無関係に端末そのものがコンマ数ミリ、物理的に「浮き上がった」ような感触がしたのだ。
「⋯⋯ッ!」
透は反射的にスマートフォンを掴んだ。
教授の言葉が呪いのように耳の奥を掠める。
『重要度の低い物理現象の計算を後回しにし始めたとしたらどうだ?』
「⋯馬鹿馬鹿しい。静電気かあるいは冷却ファンの振動だ」
透は自分の動揺を強引に捩じ伏せた。
目の前で起きていることは、あくまで技術的な課題だ。大学の演算基盤と自分のエンジンの間に、予期せぬフィードバックループが発生しているに過ぎない。
彼は震える指を抑えつけ、力強くエンターキーを叩いた。
「矢部、篠崎。スタジオ側のノードに同期パッチを流す。大学側のリソースをさらに30%解放するぞ。力技で現実に上書きするんだ」
通信回線の向こう側で、矢部の「了解です、チーフ!」という威勢のいい声が響く。
その瞬間、地下のターミナルを揺らすような低い震動が走った。
それは機械の振動ではなく、もっと根源的な、空間そのものが軋むような音だった。
透はそれを「古い建物の配管の不具合」だと自分に言い聞かせ、モニターの中に溢れる情報の濁流へと、再びその意識を沈めていった。
原因は自分のシステムであり、ソフトウェアの改修で必ず解決できる。
その「技術者としての誇り」という名の逃げ道が、まもなく完全に行き止まりになることを、彼はまだ認めるわけにはいかなかった。




