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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第一章:「Xデー」事象の地平面
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2 完璧な偶像と、現場のトラブル

 その日の夕方。透は修正コードを入れたノートPCを手に、バーチャルアイドル事務所である『流れ星スタジオ』を訪れた。


「あ、宇園くん。お疲れ様!」


 エントランスで明るい声をかけてきたのは、青山 早苗(あおやま さなえ)だった。

 彼女は事務所の看板タレント『蒼月 海流(あおつき みりゅう)』として活躍しているが、オフの場では伊知花の良き相談相手であり、透に対しても姉のように接してくれる、この業界では珍しく裏表のない女性だ。


「青山さん。お疲れ様です。伊知花は⋯」

「伊知花ちゃんなら、今スタジオで3Dトラッキングの調整中。風河(ふかわ)さんがかなりピリピリしてるから、気をつけてね」


 早苗が肩をすくめて立ち去る。

 透が防音扉を開けてスタジオに入ると、そこは現実の熱気に満ちていた。

 複数のモニター、飛び交うスタッフの指示。中央で腕を組み、鋭い視線でガラス越しのブースを睨んでいるのは、チーフマネージャーの風河 薫(ふかわ かおる)だ。徹底した合理主義でスタジオの管理を行う現場の最高責任者である。


「伊知花さん、今のステップ。重心が0.5センチ浮いています。ファンはあなたの『実在感』を求めているんです。もう一度」


 風河の冷徹な指示に、ブースの中の伊知花が肩を揺らした。


 ブースの中で、伊知花はセンサーだらけのスーツを着込み、ヘッドセットの向こう側にいる数万人の「幻影」に向かって笑いかけていた。

 両親の不在と孤独から逃げるため、兄の透に「完璧なアバター」をねだった17歳の少女。伊知花にとって星川 綺羅々は、自分を守るための最も美しい檻であり、彼女はその維持に病的なまでに依存している。


「お疲れ様です。宇園さん。エンジンの調整ですか?」


 透の姿を認めた風河が、軽く会釈をする。


「お疲れ様です。昨夜の配信で少し厄介なエラーが出ていたので裏のサーバーチームと状況を擦り合わせにきました」

「助かります。今度の大型ライブは数百万人が視聴します。インフラのクラッシュだけは絶対に避けてください」


 透は風河に短く応じると、スタジオの奥に併設された「コントロールルーム」の扉を開けた。

 そこは数十台のモニターが壁を埋め尽くし、低く唸るような空調音が響く、事務所の頭脳部だ。透のコンテナハウスが「原初の物理演算」を行うマスターノードだとすれば、ここはそれを世界中に分散・中継するエッジノードの前線基地である。


「宇園チーフ!お疲れ様です、助かりました」


 モニターの光に照らされた若手エンジニア、矢部 良太(やべりょうた)が、憔悴した顔で椅子から立ち上がった。


「昨夜の綺羅々の突発配信ですが、エッジサーバー側の負荷が異常です。ピーク時、既存の負荷分散装置(ロードバランサー)が完全に沈黙しました。矢継ぎ早にリソースを拡張してなんとか落とさずに済みましたが、オートスケールの閾値(しきいち)が追いつかないなんて初めてです」


「状況は把握している。矢部、トラフィックのログを見せろ」

 透は矢部の横に座り、流れるログを注視した。

「おかしいな。同時接続数に対して、リクエストのパケットサイズが不自然に膨れ上がっている。映像データの転送量じゃない。これは、プロトコルレベルのオーバーヘッドだ」


「私もそう思うんです。それで篠崎さんに解析を頼んだんですが⋯⋯」


 矢部が視線を向けた先で、ネットワーク解析担当の篠崎 舞(しのざき まい)が冷静にキーボードを叩いた。


「チーフ、これを見てください。視聴者の各端末から返ってくる同期確認(ACKパケット)の中に、定義されていない『ノイズ』が混入しています」


 篠崎がサブモニターに映し出したのは、パケットの生データだった。


「一見するとただの通信エラーによるゴミデータですが、構造が規則的です。まるで視聴者側にある『何か』がこちらの物理演算データに干渉しようとして、逆流してきているような⋯⋯。このノイズのせいで、エッジノード側の演算負荷が指数関数的に増大しています」


「逆流⋯⋯?視聴者のアプリ側から演算データが戻ってくる仕様なんて組んでいないぞ」

 透は眉をひそめた。Unison(ユニソン)プロトコルは、あくまでマスターからクライアントへの一方的な同期を前提としている。


 そこへ、「インフラの不調ですか?」と、透を追ってコントロール室に入ってきた風河が鋭い声をかけた。その後ろから、音響エンジニアの灰原 慧(はいばらけい)も険しい表情で顔を覗かせる。

 無精髭を生やし常に首にタオルを巻いている灰原は、この事務所の音響を一手に引き受ける現場のベテランだ。


「透、篠崎さんが言ってた『ノイズ』ってやつの影響かもしれない。これを見てくれ」


 灰原は手元のタブレットをコントロールパネルに接続し、波形データをメインモニターに飛ばした。


「篠崎さんがパケットの逆流を検知したのが23時14分。その瞬間、スタジオ内の全マイクが拾っていた『音』がこれだ」


 再生されたのは不自然なほどの静寂。

 ただの無音ではない。アナログな機材特有のサーッというホワイトノイズすらも、その数フレームの間だけ、剃刀で切り取ったように完全に消失していた。


「マイクの入力レベルがゼロを振り切っている?まるでこの空間に空気の振動そのものが存在しなかったみたいだ」


 篠崎が呟く。


「機材の故障じゃないぜ、透。俺はこの耳で聴いた。一瞬、スタジオ内の気圧がガクンと下がったような、鼓膜が吸い込まれるような感覚があったんだ」


 灰原の声には、技術者としての困惑を超えた、根源的な不安が混じっていた。


「灰原さん、落ち着いてください。物理的な気圧の変化なんて起こるはずがない」


 透は努めて平然を装い、エンジニアとしての楽観的な結論を口にした。


「原因は明白です。Unison(ユニソン)エンジンの同期スレッドがデッドロックを起こし、一瞬だけ音響反響のシミュレーションを停止させた。その停止命令がエッジサーバーを通じて視聴者側に送られ、逆流したパケットがノイズとして検出された。つまり、すべてはソフトウェアの最適化不足、俺の書いたコードのバグです」


「バグ⋯⋯本当にそれで済むのか?」


 灰原の不安を隠さない言葉に、風河も訝しげに目を細める。


「なあ透。ただの計算ミスで済む話か?俺が言ってるのは、マイクの電源が落ちたとか、ソフトがフリーズしたとか、そんなレベルじゃないんだ。詳しい理屈まではわからないが、要は大学のあのバカデカい計算機がサボった結果、今回の現象を引き起こしてるんじゃないかって言ってるんだ」


「仮にそうだとしても、それはインフラ側の同期プロトコルの不備です。灰原さん」


 透はキーボードを叩く手を止め、努めて無機質な声を返した。


「このスタジオの環境は、大学の深層計算層(バックボーン)と直結して、現実の物理挙動をリアルタイムで同期させている。大学側のマスターノードからの演算データがコンマ数秒でも遅延すれば、スタジオ側のエッジサーバーは計算の辻褄を合わせるために、一瞬だけ『デフォルト値(無)』をレンダリングしてしまうことがある。ソフトウェア的な補間ミスですよ」


「ですがチーフ」


 パケット解析を続けていた篠崎が、モニターに赤い波形を表示させながら割って入った。


「大学側からの逆流負荷(バックプレッシャー)が、専用回線の帯域を物理的に圧迫しています。同期が遅れているというより、あちら側の計算基盤そのものが、私たちの送っている観測データに対して『拒絶反応』を起こしているように見えるんです。このノイズの正体、本当にパケットの欠損(ドロップ)なんですか?」


「回線の温度も上昇しています」


 矢部がサーバーラックのステータスを指差した。


「光回線の伝送効率が落ちている。単なるデータ量の問題じゃない。大学のスパコンとこのスタジオの間で、何か規格外の『エネルギー』が往復しているような負荷です。宇園チーフ、ソフトウェアの改修だけでこの物理的な『質量(・・)』を抑え込めるんですか?」


「やるしかない。それがエンジニアの仕事だ」


 透は突きつけられたデータが示す「現実の綻び」から目を逸らすように、強引に結論づけた。


「大学の基盤だろうが物理法則だろうが、全ては数値で記述されている。なら、最適化できないはずがない。矢部、篠崎。大学側の計算ユニットとのハンドシェイクを一時的に120Hzまで引き上げろ。同期ミスが発生する前に、力技で現実に上書きするんだ」


 透はタブレットを掴み、立ち上がった。

「来週のコラボライブまでには、宇宙の法則より正確な物理演算を走らせてみせますよ」


 矢部と篠崎に指示を飛ばし、透は足早にコントロール室を後にした。

 背後で灰原が「⋯あいつ、何かに気づいてて隠してやしないか」と風河に囁く声が聞こえたが、透はそれを雨音と共に記憶の隅へと追いやった。

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