1 重力とコーヒーの自由落下
「なあ、宇園。お前ならどう説明する?最近ネットを騒がせてる『星川 綺羅々』の怪現象だよ」
帝都理工大キャンパスの近くにあるカフェテリア。プラスチックの安っぽいテーブルを挟んで、佐久間 蓮が身を乗り出してきた。
佐久間は大介のゼミ仲間で、およそ学問とは無縁そうな、ジャラジャラとした銀のアクセサリーと派手なストリートファッションに身を包んだ男だ。だが、その実態は「ネットの掃き溜め」から誰よりも早く真偽不明の噂を拾い上げる、オカルトと陰謀論の蒐集家だった。
「またその話か」
宇園 透は、ノートパソコンの画面から視線を外さずに、溶けかけたアイスコーヒーのストローを弄った。周囲では、就職活動の愚痴や週末の予定が、とりとめもない日常のノイズとして飛び交っている。
「いや、今回はマジだって。星川 綺羅々の深夜配信中、リスナーが同時に『体が重くなった』って言い出してる。それも一人や二人じゃない。スマホの加速度センサーの数値をアップした奴までいるんだぜ。集団幻覚にしては出来すぎてるだろ?」
「アホくさ。深夜まで画面に齧り付いてりゃ、目も疲れるし肩も凝る。それが『重力』のせいに見えてるだけだろ」
透の隣でハンバーガーを頬張っていた桐谷 大介が、呆れたように鼻で笑った。
大介は偏屈で四六時中モニターと睨み合っている透にとって、大学で数少ない親友と呼べる存在だ。社交的で現実主義な彼は、透の突飛な思考や孤独な作業環境を否定せず、こうして適度な「世間」へと繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「佐久間。お前、そういうのを信じすぎるのが悪い癖だぞ」
「違うんだって大介!他にも『時計の秒針が止まった』とか『コップの水が揺れた』とか、まるでみんなの視線が一点に集まりすぎて空間が耐えきれなくなってるみたいだって」
佐久間と大介が軽口を叩き合うのを横目に、透はタイピングの手を止めた。
(視線の集中⋯⋯アクセス密度の過負荷か)
透の脳裏で別の可能性が弾き出された。オカルトではない。技術的な『バグ』の可能性だ。
自分が構築したアバター制御システム『Unisonエンジン』は、物理演算の精度が高すぎるため、クライアント側(視聴者の端末)に莫大な負荷をかける。
「佐久間、その書き込みが増える時間帯に共通のきっかけはあるか?」
「え?ああ、綺羅々の同接数が10万人を超えたあたり、かな。みんなの視線が集まりすぎて空間が耐えきれなくなってるみたいだって」
「ふーん、なるほどな。ありがとう、参考になった」
透はパソコンをパタンと閉じ、立ち上がった。
「おい透、もう行くのか?」
「ああ。俺の組んだエンジンのせいで、視聴者の端末に熱暴走を起こさせてる可能性がある。センサーの誤作動も、映像が止まって見えるのも、スマホ側の処理落ちだ。早急にメモリリークの原因を特定して、パッチを当てないとな」
大介の制止も聞かず、透は足早にカフェテリアを後にした。
システムのバグならば、直せばいいだけのことだ。透は「厄介な仕事が増えた」というエンジニア特有の焦燥感と、「原因さえ掴めばどうとでもなる」という楽観を抱えながら、足取り軽く帰路についた。
―――――――――――――――
透は大学を後にし、都内の一等地にある高級低層マンションへと帰還した。
宇園 透。帝都理工大に通う20歳の大学生。だが、最近は大学そっちのけで高校生の妹、宇園 伊知花が所属する事務所のエンジニア業に専念している。
妹が住むセキュリティ万全の3階の部屋(302号室)と、透が住む屋上に設置された電磁波シールド仕様の特注コンテナハウス。本来一介の大学生と高校生が住めるような代物ではない。これは協力者である大学教授の強力な伝手によって大学側が用意し、妹の所属事務所である『流れ星スタジオ』名義で借り上げられた、事実上の「観測実験施設」だった。
本来、数百万人の視聴者に対しアバターの骨格挙動や空間の物理演算を「完全同期」させるには、一事務所の機材やシステムでは到底不可能だ。それを実現しているのは、屋上のコンテナハウスや専用スタジオのコントロールルームから大学の地下深くへと直通している専用の回線――『深層計算層へのバイパス』である。
普段の自宅からの個人的な雑談配信などは既存の動画配信サイトを利用しているが、全身の緻密なトラッキングを伴う大規模なスタジオ生配信や3Dライブの際には、透が構築したこの独自の配信プラットフォーム環境へと意図的に切り替えられる。
実は、大手VTuber事務所『流れ星スタジオ』と帝都理工大は、水面下で技術提携を結んでいる。
事務所は大型ライブ時において、「星川 綺羅々」というトップタレントの圧倒的な実在感――単なる平面の映像配信ではなく、視聴者の専用アプリ側で物理空間そのものを同期・再構築させる次世代のエンターテインメント――を支える巨大な演算インフラを求めた。
一方の大学側はそのインフラを提供する見返りとして、専用プラットフォームを通じて数百万人の人間からリアルタイムで送り返されてくる「極限の観測データ」を、理論物理学の研究材料として求めたのだ。
その双方の利害の一致を繋ぐ要こそが、透の開発した『Unisonプロトコル』なのだ。
透は大学が保有する最先端の計算資源を秘密裏に間借りし、その圧倒的なパワーをコンテナハウス経由で妹の大型配信へと注ぎ込んでいる。
透はメインデスクに座り、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。
その時だった。
トクン。
コーヒーの最後の一滴が、注ぎ口からこぼれ落ちる。
それがカップの水面に落ちるまでの時間が――ほんの一瞬、空中で「粘り」を持ったように見えた。
「⋯⋯ん?」
透は目を瞬かせ、眉間を揉んだ。
「⋯⋯最近徹夜が続いてたからな。脳がフレームドロップを起こしてる」
透は己の眼精疲労のせいだと即座に結論づけ、開発用エディタを開いて昨夜のシステムのログを呼び出した。
そこには、確かに不可解なデータが記録されていた。
空間の座標を定義する数値が配信のピーク時に、ごく僅かに『矛盾』した挙動を見せている。
「なんだこの浮動小数点のエラーは。トラッキングセンサーの同期ズレか⋯?」
透は舌打ちをした。どうやら思ったよりも根の深いバグらしい。下手をすれば配信中にアバターの挙動が破綻するリスクがある。
「まあいい。物理演算のサブルーチンを書き直せば済む話だ。今日の夕方スタジオの現場で実機テストをしよう」
透はあくまで「自分の手の内にあるシステム障害」として対処するべく、修正コードのタイピングを始めた。




