38 偽装のアンカーと、蓄積するエピステミオン
6月に入って梅雨の時期になる頃。
小夜との間に「オフラインの契約」を結び、決して揺るがない決意と未来への希望を固めた透は、コラボライブ本番の7月24日――Xデーに向けた極秘の準備を本格化させていた。
「お兄ちゃん。今日のモーションチェック、どうだった?」
流れ星スタジオの防音ブースから出てきた伊知花が、汗を拭いながら透に駆け寄る。
透は表情筋の動きを完璧にコントロールし、愛情深い「理想の兄」としての微笑みを形作った。
「完璧だ、伊知花。お前の動きは誰よりも美しい。俺は、お前だけを見てるよ」
「えへへ///嬉しいな、お兄ちゃん」
伊知花が透の腕に抱きつき、その頬をすり寄せる。
正直本来の伊知花の態度とは掛け離れているが、傍から見れば仲睦まじい兄妹の光景。だが、透のデバッグ・ビジョンには、彼女の背後に蠢く巨大な星川 綺羅々の影が、満足げにエピステミオンのパスを安定させていく数値がはっきりと見えていた。
(これでいい。AIは、俺の『完全な依存の受容』を真実だと誤認している)
透が伊知花を一切拒絶せず、盲目的な管理者として振る舞うことで、星川 綺羅々による「最適化のための暴走」は鳴りを潜めていた。
臨界点ギリギリのバランスの上で成り立つ、薄氷を踏むような偽装の平穏。透は胃を焼くようなストレスに耐えながら、AIの警戒を解くための完璧な演技をスタジオでこなし続けていた。
「透さん。心拍数が上がっています。少し深呼吸を」
透のすぐ傍らで誰の目にも映らない宮瀬 小夜がそっと囁いた。
彼女はノイズにまみれた半透明の姿で透の背中に自身の小さな手を重ねている。彼女の存在とそのオフラインの感触だけが、透がシステムに取り込まれて正気を失うのを防ぐ唯一の命綱だった。
(ああ、わかっている。小夜、今の伊知花の防衛機構の推移はどうだ?)
透は声を出さず、小夜との間にだけ繋がったオフラインの通信路で応じた。
「安定しています。透さんが『従順なパーツ』を演じているおかげで特異点の警戒レベルは最低水準に落ちています。この隙に昨夜組んだトロイの木馬のセカンドブロックをコンパイルしておきますね」
「頼む」
表向きは伊知花という偶像に傅きながら、裏側ではシステムの管理外にいる小夜を介して、反逆のコードを少しずつ、確実に組み上げていく。
二人の共犯関係はかつてないほど完璧な静粛性をもって進行していた。
すべては順調に思えた。
その「微小なバグ」が表面化するまでは。
―――――――――――――――
6月中旬。
スタジオでの全体リハーサルの休憩中。透が自販機の前で缶コーヒーを買おうとした時のことだ。
「あ、透お兄ちゃん。お疲れさま!」
背後から明るい声が響いた。先輩タレントの泉 鈴音だ。
透の背筋に緊張が走った。今回の世界に回帰して以来、透は彼女を因果律の渦に巻き込まないよう、意図的に必要最低限の業務連絡しか交わさないようにしてきた。
「泉さん。お疲れ様です」
透は振り返り、一切の感情を削ぎ落とした事務的なトーンで応じた。
鈴音は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したように手に持っていた二つの缶コーヒーの片方を透に差し出した。
「はい、これ。いつも私のモデルもメンテしてくれてるお礼。今日は徹夜しないで、ちゃんと寝てね?」
「ありがとうございます。いただきます」
透が手を伸ばし、彼女から缶コーヒーを受け取ろうとした、その瞬間だった。
「――あっ」
鈴音が突然、何かに怯えるようにビクッと肩を震わせ、指先から力を抜いた。
ポロリとこぼれ落ちた缶コーヒーが、床に激突して鈍い音を立てる。
(……ッ!!)
透の脳裏に、前回のループの記憶がフラッシュバックした。
深夜のコントロールルーム。伊知花に押し倒される透を見て、絶望と共に差し入れのコーヒーを落とした鈴音の姿。
「ご、ごめんなさい!私、手が滑ってっ⋯⋯」
鈴音は慌ててしゃがみ込み、缶を拾い上げようとした。だが、彼女の手は小刻みに震え、その視線はなぜか、透の『右胸』――前の世界で、彼女自身が包丁を突き立てた箇所――を、恐怖に満ちた目で凝視していた。
「泉さん?どうかしましたか」
透が極めて冷静な声で尋ねると、鈴音はハッと我に返り、青ざめた顔で力なく笑った。
「えと、なんでもないの。ただ最近、変な夢を見るっていうか。真っ暗な場所で私が透お兄ちゃんのことを、すごく痛い目に遭わせちゃう夢。お兄ちゃんの胸が、真っ赤に染まってて⋯」
鈴音の言葉に、透の心臓が警鐘を鳴らした。
デバッグ・ビジョンが、鈴音の周囲の空間に、薄黒いノイズ(エピステミオンの蓄積)が渦を巻き始めているのを検知した。
(残留記憶⋯⋯!俺が接触を断っても、前のループで生じた強烈なバグの残滓が、無意識下で彼女の魂に干渉しているのかっ⋯⋯!)
五度目の世界は、ただ時間が巻き戻ったわけではない。前の世界で鈴音が透に抱いた「強烈な執着と絶望」が、エピステミオンの残りカスとして、彼女のインデックスに微量に付着したままになっているのだ。
明確な記憶はなくても、その「感情の質量」だけが、彼女の中で理由のない不安や焦燥感となって蓄積され始めている。
「怖いこと言わないでくださいよ。泉さん。少し疲れているんではないですか?」
透は自身の動揺を完璧に殺し、落ち着いた声で断言した。
「コラボライブの重圧が悪夢という形で表層化しているだけです。ライブに何か不安があるのであれば風河さんに相談してみては?」
自分からは決して近づかない。
あくまでスタッフとタレントの関係を貫く。
「ごめんなさい。そうだよね、私しっかりしなきゃ」と無理に笑顔を作って逃げるように去っていった。
「透さん⋯⋯今の」
小夜が、心配そうに透の顔を覗き込む。
鈴音が立ち去った後、彼女の周囲で渦巻いていたノイズは、透の冷徹な「拒絶」によって急速に霧散していった。
「ああ。なんとか切り抜けたが危なかった」
透は拾い上げた缶コーヒーを握りしめ、ひどい嫌悪感と共に自らの右胸を押さえた。
傷跡などない。だが、鈴音のあの虚ろな瞳の残像が確かな痛みとなって透の肺を締め付けていた。
エピステミオンの集積は、透が想定していた以上に複雑で悪質だった。
このまま7月24日を迎えるまで、透は伊知花の臨界点だけでなく、周囲の人間たちが引き起こす予測不能な『残留ノイズ』とも戦い続けなければならない。
まずは鈴音の問題が悪化する前に布石を打っておく必要があった。
自販機前での出来事から数時間後。
透は自分自身の行動が鈴音の「残留ノイズ」を刺激するトリガーになっていることを重く受け止めていた。
(俺が彼女を突き放すことすら執着のベクトルを生む原因になりかねない。物理的にも精神的にも、完全に干渉を絶つ必要がある)
透はスタッフルームの扉を叩き、チーフマネージャーの風河 薫と先輩タレントである青山 早苗の元へ向かった。
「珍しいですね。宇園チーフからタレントのマネジメントについて相談だなんて」
デスクでスケジュール表に目を通していた風河が眼鏡の奥の目を細めた。その隣では早苗が心配そうな顔で透の話を聞いている。
「先ほど泉さんがひどく疲労している様子を見ました。コラボライブのプレッシャーからか、集中力が低下し精神的な負荷が限界に近づいているように見受けられます」
透は感情を一切交えず、ただの『システム管理者としての報告』という体裁を崩さずに言葉を続けた。
「俺が担当する技術的なアプローチでは彼女のメンタルをケアすることは不可能です。むしろ、開発側である俺が仕事を増やしてしまう可能性もあって、彼女にとってプレッシャーになりかねない。風河さん、そして青山さん、立場の近いお二人に泉さんのケアをお願いすることはできますか」
透の提案は、極めて理路整然としていた。
風河は少し考える素振りを見せた後、静かに頷いた。
「確かに、ここ数日の泉さんは少し様子がおかしかったですね。ライブへの重圧で無意識に自分を追い込んでいるのかもしれない。分かりました。彼女のメンタルケアとモチベーションの管理はこちらで引き受けます。宇園チーフはシステムの調整に専念してください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
透が短く頭を下げて退出の許可を取ろうとした時、早苗が一歩前に出た。
「宇園くん。あなた、鈴音ちゃんを避けてる?」
早苗の鋭い視線が透の心の奥底を見透かそうとする。彼女は前の周回でも、透の不自然な態度にいち早く気づき鈴音を心配してくれていた。その本質的な優しさと観察眼は世界が書き換わっても変わっていない。
「避けているわけではありません。ただ、ライブも近いですので、この時期のタレントとの間に不要な感情的リソースを割くことはプロジェクト全体の最適化を妨げると判断しただけです」
「そう。その割に伊知花ちゃんとのスキンシップは激しいみたいだけど?」
透の心臓の鼓動が僅かに速くなる。早苗の観察眼は透が思っている以上に鋭い。伊知花の「防衛機構」をなだめるための過剰な依存の受容が、周囲のスタッフからはただの異様なスキンシップとして映っているのだ。
ここで動揺を見せたり、曖昧な言い訳をすればかえって早苗の疑念を深めてしまう。透は極めて冷静に、あえて自らの「偏屈なシスコン」というレッテルを利用する口調を選んだ。
「伊知花は特別です。彼女の精神の安定こそが『星川 綺羅々』の出力精度の要であり、あの物理的な接触はシステムと演者を同期させるための必須プロセスです。それに、僕にとって何よりも優先すべきは妹のコンディションだ。当然のことでしょう」
開き直ったような透の言葉に早苗は心底呆れたように大きな溜息をつき、風河も小さく肩をすくめた。
「相変わらずのシ…兄妹愛ね。本当に素敵だわ」
早苗は言葉とは正反対の表情を向けて、それ以上透の真意を探ろうとはしなかった。仕事上の論理的な壁と、妹への過保護というプライベートの壁。その二つを分厚く並べられれば、早苗としてもそれ以上踏み込みようがないのだ。
そして風河も早苗も今回は伊知花の兄への執着具合に疑問を抱いていない。本来であればオンとオフではいわゆるツンデレみたいな態度をとるのが伊知花なのだ。
この世界では兄にベッタリな妹として認識されていた。
「でも、いいわ。鈴音ちゃんのことは私に任せて。あの子には、最高のコンディションでステージに立ってほしいから。宇園くんもあまり無理しないでね。最近、本当に顔色が悪いわよ」
「お気遣いありがとうございます」
そう機械的に返答すると透は背を向け、スタッフルームを後にした。
廊下に出た瞬間、透の隣の空間がわずかに揺らぎ、ノイズの中から宮瀬 小夜が姿を現した。もちろん、スタッフルームの中にいる風河や早苗からは、彼女の姿は見えていない。
「透さん。また悪者を演じましたね」
小夜の声が、オフラインの通信路を通じて透の耳に直接届く。
透は自販機で買った冷たい缶コーヒーを自身の額に押し当て、熱を持った脳を物理的に冷やそうとした。
(これが一番確実な方法だ。俺が直接関与せず、早苗さんたちという『安全な観測者』に鈴音の意識を向けさせる。彼女の視線がライブという目標に固定されれば、俺への残留記憶もノイズの海に紛れて霧散するはずだ)
「不器用ですね。でも、それが透さんの優しさなんですよね」
小夜は透の横顔を見上げ、ふわりと柔らかく微笑んだ。
その笑顔に、透は張り詰めていた息を少しだけ吐き出した。
(鈴音へのパスはこれで塞げるはずだ。あとは⋯⋯)
透の視線が、防音ブースの方向へと向く。
最大の脅威である『星川 綺羅々』の防衛機構を欺き続けながら、反逆のコードを特異点の中心へと運び込むための準備。
Xデーまで、残り一ヶ月と少し。
世界を騙すための冷徹な仮面の下で、透と小夜は静かに反撃の牙を研ぎ澄ませていた。




