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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
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37 不可視の共犯者と、未来へのアンカー

 コラボライブ本番まで残り一ヶ月半。特異点の中心へ「不可視のトロイの木馬」を撃ち込むための、ただ一度きりの反逆の準備が静かに始まっていた。


「透さん。その変数、先ほどの定義と矛盾していませんか?綺羅々の防衛機構(ファイアウォール)に弾かれる気がします」


 深夜のコンテナハウス。

 透が叩き出す無機質なコードの羅列を、背後から覗き込んでいた宮瀬 小夜が指摘した。

 彼女の姿は相変わらず微細なノイズに覆われ、古いブラウン管の映像のように明滅している。だが、二人の間にだけ通った『オフラインのパス』のおかげで、彼女は透のパーソナルスペースに物理的な実感を伴って存在することができていた。


「ああ、本当だ。ローカルの係数と干渉しているな。修正する」


 透は小さく息を吐き、バックスペースキーを叩いた。

 自分一人で完璧なシステムを組み上げたつもりでいたが、小夜の「システム外からの視点」は、透の盲点を見事に突いてくることが多かった。彼女にはプログラミングの専門知識はないはずなのだが、世界のレイヤーから外れたことで、事象の矛盾(バグ)を感覚的に察知する能力が備わっているようだった。


「ふふっ。天才エンジニアさんも徹夜が続くと凡ミスをするんですね」


 小夜が口元を隠すようにして小さく笑った。

 透はキーボードから手を止め少しだけ驚いたように振り返った。


「なんだ。お前そういう風に笑うのか」

「どういう意味ですか、それ」

「いや⋯⋯出会った時がひどくこの世の終わりみたいな顔だったからな。もっと機械的で幽霊みたいに寡黙なやつだと思っていた」


 透の率直すぎる感想に、小夜は少しむっとしたように頬を膨らませた。顔にかかったノイズのせいで表情の細部は読み取りづらいが、その仕草は見た目相応の少女のそれで、ひどく人間臭かった。


「失礼ですね。ずっとひとりぼっちで誰とも話せなかったんですから、暗い顔にもなりますよ。それに透さんがいつも眉間に皺を寄せて難しい顔ばかりしているからです。私が笑わないとこの部屋の空気が凍りついてしまいます」


 小夜はそう言って透の眉間をツン、と指先でつつく真似をした。

 物理的な干渉力は弱いため、透の肌には微弱な静電気が走ったような感触しか残らない。だがそのおどけたような仕草と、ノイズの奥から覗くおちゃめな瞳に、透の張り詰めていた神経がわずかに緩むのを感じた。


(不思議なやつだ)


 彼女は自分が何者かもわからないまま、世界の隙間で途方もない孤独を味わってきたはずだ。それにも関わらず、彼女の中には人間としての愛嬌や他者を気遣う温かさが確かに残っている。

 伊知花の狂気やシステムに最適化されていく周囲の人間たちを相手に神経をすり減らしてきた透にとって、小夜とのこの穏やかな時間は、唯一「人間でいられる」時間になりつつあった。


「透さん?どうかしましたか?」


 透がじっと自分の顔を見つめていることに気づき、小夜が不思議そうに小首を傾げた。


「いや、なんでもない。作業に戻る」


 透は視線をモニターに戻し、再びキーを叩き始めた。

 だがその内心では、チクリと針を刺すようなデジャヴが脳裏を過っていた。


(気をつけろ。“距離感”を見誤るな)


 小夜と打ち解けていくことは、決して悪いことではない。共犯者としての信頼関係は作戦の成功に不可欠だ。

 だが、透の脳裏に前回のループで見た凄惨な光景がフラッシュバックする。


 自分に執着し狂気に呑まれてヤンデレ化した泉 鈴音。

 そして、冷たい路地裏で自分の胸を貫いた赤い刃先。


 あの時もそうだった。透が意図的に距離を詰め、「自分だけが彼女を見ている」という状況を作り出した結果、鈴音の中に過剰な執着(エピステミオン)が蓄積され、あのような破綻を招いてしまったのだ。


 そして今、宮瀬 小夜が置かれている状況はあの時の鈴音よりも遥かに極端で危険だ。

 小夜はこの世界で完全に孤立している。彼女の言葉を聞き、彼女に触れ、彼女を「観測」できるのはこの宇宙で宇園 透ただ一人なのだ。


 彼女がエピステミオンに影響はされることはない。泉 鈴音のような狂気に支配されるようなことにはならないだろう。

 だが絶対そうならないとも限らない。

 もしこのまま距離を詰めすぎれば?

 ずっと孤独と戦ってきた彼女が、無意識のうちに透という唯一の存在に『絶対的な依存』を抱いてしまったら?


(特異点の分散先になってしまう可能性がある⋯⋯そうなれば、今回もこの計画は失敗に終わるだろう)


 この失敗はただの失敗ではない。透には完全に打開のチャンスが無くなってしまうことを意味する。

 背後に立つ小夜の気配を感じながら、自身の心に強固なブレーキをかけた。

 彼女の笑顔に救われている自分を認めつつも、その感情を表に出すことは絶対に避けなければならない。

 彼女をもう一つの「特異点」にしないためにも、透はあくまで冷徹な『共犯者』としての境界線を死守する必要があった。


「透さん。コーヒー淹れましょうか。私、触ることはできてもカップを持ち上げるのは苦手なのでエアー・コーヒーになってしまいますが」


 冗談めかして笑う小夜の声に、透は振り返らずに淡々と答えた。


「不要だ。カフェインの過剰摂取は計算のノイズになる。お前もあまり俺に構うな。自分の存在を維持するリソースだけを残しておけ」


 わざと冷たく響くように調整された透の声。

 後ろで、小夜が「はい⋯⋯」と少しだけ寂しそうに答える気配がした。


 胸が痛んだ。

 事象を書き換えるまで誰も壊させない。もう二度と自分のミスで他人の魂をバグらせるわけにはいかないのだ。

 そう自分に言い聞かせながらも「本当にこれでいいのか?」と自分に問う。

 前回もこの罪悪感から失敗に向かったのではないのか?

 結局また傲慢に捉え自分だけで抱えてしまっているのではないのか?

 小夜は鈴音と違い何も知らない、こちらが一方的に利用する相手ではない。最初で最後の協力者、いや、運命共同体とも言える相手だ。

 そんな相手を遠ざけてしまってはまた失敗する。同じミスを絶対に起こすわけにはいかない。


 表情がはっきりと読み取れるわけではないが、少し落ち込みを見せる彼女と向き合うことを決意した。


 透は小さく息を吐き、コンソールに向けられていたパイプ椅子を完全に反転させた。そして、ノイズの向こう側で所在なさげに俯いている小夜を、誤魔化しなく真っ直ぐに見据えた。


「“小夜”、すまない。少し俺の認識が狂っていた」


 突然の透の謝罪に、小夜は弾かれたように顔を上げた。

 そしてこのとき初めて自分のことを「小夜」と名前で読んでくれたことにドキリとする。


「お前を遠ざけようとしたのは、俺の恐怖だ。以前俺は孤立を恐れるあまり他者を利用し、その結果、相手の精神に過剰な負荷をかけて壊してしまった。だから⋯⋯お前とも距離を取るのが正解だと思い込もうとしていた」


 透は自らの両手を組み、その震えを抑え込むようにして言葉を紡いだ。


「だが小夜、お前は違う。お前は俺が一方的に利用するような、何も知らない被害者じゃない。この狂ったシステムを内側から破壊するためのたった一人の共犯者だ」


 小夜の輪郭を覆っていたノイズが、透の言葉に呼応するようにわずかに揺らぎを収めていく。


「それに俺は今、お前と話している時だけ自分がただの『人間』に戻れている感覚がある。伊知花の狂気や世界の最適化という巨大なシステムの前に立つと、自分自身も感情のない機械にならなければ耐えられない。だが、お前が淹れてくれる『エアー・コーヒー』の冗談には本気で救われている自分がいるんだ」


 それは、徹頭徹尾、論理と計算で世界をねじ伏せようとしてきた宇園 透という青年の、初めての人間らしい告白だった。


「だからこそ、ここで互いの認識を同期(アセスメント)しておきたい。俺は俺の恐怖を話した。今度はお前が今抱えている感情を一つ残らず偽りなく教えてくれ。隠し事はシステムにおいて最も致命的なバグを生む」


 透の真摯な眼差しを受け、小夜は自身の半透明な両手を胸の前でそっと握りしめた。

 しばらくの沈黙のあと、彼女はポツリポツリと心の奥底に沈殿していた重い感情を言語化し始めた。


「⋯⋯私は、このキャンパスで目覚めてからずっと誰にも認識されず、誰にも触れられず、透明なまま終わっていくのだと思っていました。自分が何者なのかもわからないまま、ただこのビニール傘だけを握りしめて」


 彼女の視線が透の足元へと落ちる。


「でも、透さんが私を見つけてくれた。私に触れて、言葉をくれて、役割をくれた。嬉しかったんです。自分がこの世界に存在していいのだと許された気がして」


 そこで小夜は言葉を切り、苦しげに唇を噛んだ。彼女自身の内側で、ある『恐ろしい事実』に気づいてしまったかのように。


「透さんが私を遠ざけようとした時、胸の奥が冷たくて痛くなりました。見捨てられないためにもっと役に立たなきゃって、焦りました。透さんの言う通りです。私、無意識のうちにあなたという存在を『私のすべて』にしようとしていた⋯⋯」


 彼女の黒い瞳が、ノイズの隙間から悲痛な光を帯びて透を捉える。


「私にとって透さんはこの宇宙でたった一つの引力です。きっと私は⋯⋯あなたに依存し始めている。伊知花さんがあなたに執着したように、私もあなたに縋り付いて、重荷になろうとしているのかもしれない。それがすごく怖いんです」


 彼女は、自分の中に芽生え始めた感情の正体が狂気へと繋がる『依存の萌芽』であることを、透のヒアリングによって自覚してしまったのだ。

 冷たいコンテナハウスの中に、二人の孤独なオフライン観測者の、痛切なまでの本音が静かに満ちていった。


 透はその言葉を聞きながら、冷え切っていた脳の片隅で一つの明確な『解』に辿り着いていた。


 人間の感情というものは、プログラムのバグのようにデリートキーひとつで消去できるものではない。

 見ないふりをして蓋をし無理に抑え込もうとすればするほど、それは内部で異常な熱量を持ちシステムに激しく反発する。限界を迎えた時、必ず取り返しのつかない致命的なオーバーフローを引き起こすのだ。


 伊知花の愛情を「エラー」として拒絶し続けた結果があの狂信的な特異点の暴走だった。

 鈴音の好意を「不要な変数」として切り捨てた結果があの路地裏での凄惨なバッドエンドだった。


(今度は同じ轍は踏まない。感情(ノイズ)は、抑圧するから暴走するんだ)


 ならば、答えは一つしかない。

 透は深く息を吸い込み、決意を込めた真っ直ぐな視線で小夜の黒い瞳を見つめ返した。


「抑え込むな、小夜」

「え⋯⋯?」


「依存でも執着でも構わない。お前の中に芽生えた感情を無理に消そうとする必要はない。俺がそれをすべて受け止める」


 透の力強い断言に、小夜は目を丸くした。


「でも、でもそれでは透さんの負担に⋯⋯それに私が伊知花さんみたいに狂ってしまったら――」

「させないさ。俺がお前を絶対に一人で壊れさせたりしない」


 透はコンソールデスクから立ち上がり、小夜の半透明な肩へそっと手を伸ばした。

 物理的な干渉力は弱く、触れているというよりは微弱な静電気の膜を隔てて熱を共有しているような頼りない感触。それでも、透はその手を離さなかった。


「聞いてくれ。7月24日、特異点の中心にトロイの木馬を撃ち込み、この狂った宇宙を正常化できたら、次は俺がお前を救う番だ」


「私を?」


「ああ。俺の持つすべての技術、すべての演算リソースを懸けて、システムから抜け落ちたお前という存在を必ず復元する。そして、この世界の『実数』として再定義してみせる」


 それは神の領域である因果律のシステムに対する、傲慢なまでの天才エンジニアの宣戦布告だった。


「お前をキャッシュデータや幽霊のままでは終わらせない。他の人間と同じように、この世界で共に生きていけるようにする。だから、それまで俺に依存して俺の隣で足を踏ん張ってくれ」


 透の瞳には、一切の迷いも嘘もなかった。

 彼はあくまで「事象の解決と共犯者への報酬」という論理的な道筋を提示したに過ぎない。しかし、その「共に生きていけるようにする」という言葉は、客観的に聞けば、まるで命がけのプロポーズのような響きを持っていた。


 だが、小夜はそれを過剰な意味として解釈して顔を赤らめるようなことはしなかった。

 彼女の輪郭を覆っていた古いブラウン管のようなノイズが、ふわりと温かい光を帯びて霧散していく。


「透さんは、本当にずるい人ですね⋯⋯」


 小夜は泣き出しそうな、それでいて心底嬉しそうな、純粋な微笑みを浮かべた。


「そんな約束をされたら、もう絶対に消えるわけにはいかなくなっちゃうじゃないですか」

「ああ。消えさせないための、アンカーだ」


 透の不器用な答えに小夜は静かに頷き、透の伸ばした手の上に自身の手をそっと重ねた。


 人はただ暗闇の中の試練に耐え続けることはできない。

 どれほど過酷なエラーの渦中であっても、その先に「辿り着くべき未来」が示されていなければ、心は簡単に処理落ちして破綻してしまうのだ。

 透が提示した『実体を取り戻し、共に生きる』という未来は、小夜にとって何よりも強靭な希望の光となった。


「分かりました。私、あなたの共犯者として最後まで一緒に足を踏ん張ります。私のすべてを懸けてあなたの世界を直してみせます」

「ああ。頼む」

「その後はちゃんと“責任を取って”私を繋ぎ止めてくださいね?」


 小夜のちょっとした仕返し。そんな反撃をぶつけられて透は少し戸惑いを見せ、また「ああ」と返すことしかできなかった。


 コンテナハウスの薄暗い照明の下。

 二人の間に交わされたのはシステムに感知されないオフラインの契約。

 反逆のためのコードは、未来への確かな希望という最強のコンパイラを得て、ついに完成の時を迎えようとしていた。

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