36 事象の残響と、ビニール傘の孤独
気づけばいつもこの大学のキャンパスに立っていた。
私が誰に声をかけても、誰も振り向かない。
必死に手を伸ばしても、私の指先は学生たちの肩を、まるでホログラムのように力なくすり抜けてしまう。
自分が世界の正常な階層から“ズレた”場所にいるのだという自覚を持つまでにそう時間はかからなかった。
なぜなら、私の目に映るこの現実の風景はひどく機械的に見えていたからだ。
木漏れ日の揺らぎは、意図的にレンダリングされたテクスチャのように薄っぺらく。
キャンパスを行き交う人々の足取りは、あらかじめ決められた経路をなぞるだけの無機質なモーションにしか見えなかった。
世界全体が巨大なコンピューターの中に構築された箱庭のように、冷たい規則性を持って稼働している。その中で私だけが計算式に組み込まれていない“不要なデータ”として浮遊していた。
右手に握りしめた、安っぽいビニール傘。
私はいつもこれを持っていた。自分が何者なのかという記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、この傘の冷たい感触だけが、私がかつて「人間」として存在していたことを証明する、唯一のアンカーのように思えて手放せなかった。
漠然と漂うノイズのような記憶に身を任せ、私は幽霊のように、ただキャンパスをさまよい続けていた。
そんな虚無の底で、彼と出会ったのだ。
宇園 透。
私と同じように世界のレイヤーから浮き上がり、この機械的なシステムにたった一人で抗おうとしている、傲慢でひどく傷ついたエンジニア。
彼と旧校舎裏で言葉を交わし、現状を照らし合わせた時。
私は彼に意図して「話さなかった」ことが一つだけある。
『何度も時間が巻き戻っている』と、彼は言った。
自分が過去に回帰してやり直しているのだと。
けれど、違う。
時間は逆行などしていない。
私の中には論理的な証明はできないものの、絶対的な確信があった。
私がこのキャンパスで「目覚める」たびに感じていたのは、過去に戻ったという既視感ではない。
それは例えるなら、重力も大気の成分もわずかに異なる『まったく別の星』に、突然放り出されたような感覚だったのだ。
宇宙という名の巨大な物理エンジンは、時間を巻き戻しているわけではない。
特異点(星川 綺羅々)を完璧に顕現させるという「結果」を出力するために、前回の演算で生じたエラー(透の抵抗)を学習し、より最適化された『新しい宇宙のバージョン』をその都度“一”から生成しているのだ。
だからこそ、彼が言うこの五度目の世界では、エピステミオンの理論が最初から「公的な科学」として社会に根付いている。
時間が戻ったのではない。透は、より綺羅々にとって都合よく構築された、より難易度の高い『別の盤面』へと強制的に意識を回帰させられているに過ぎない。
(透さん。あなたは過去に帰っているんじゃない。より深く、この正解の奥底へと降ろされているだけなんです)
私はビニール傘の柄を強く握りしめたまま、足元に走る幾何学的なノイズを見つめた。
彼がその絶望的な事実に気づいた時、果たして精神がもつだろうか。
でも、今はまだ言えない。
この仮説を伝えれば、彼の残された希望すらも完全に破壊してしまうかもしれないから。
私は「不可視のトロイの木馬」として、彼の書いた反逆のコードを特異点の中心に届ける。
この終わらないループ――否、終わらない『別世界への幽閉』を断ち切るために。




