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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
33/46

32 五度目の起動と、致命的な残骸

 右の肺を貫かれた鋭い熱と、口内に広がるおぞましい鉄の血の味。

 それが、五度目の世界の始まりだった。


「っ、はぁっ⋯⋯!」


 透はコンテナハウスの硬い床の上で跳ね起き、無意識に自らの胸を激しく掻き毟った。

 当然、そこに傷はない。刺されたのは前の周回(ループ)での出来事だ。だが、泉 鈴音の虚ろな瞳と、路地裏の逆光の中に立っていた星川 綺羅々の完璧な笑顔が、網膜の裏側にべったりとへばりついている。


(俺の、完全なミスだ)


 呼吸を整えながら、透はデスクのカレンダーを睨みつけた。

『5月20日』。

 回帰の日付は、前回と同じだった。これ以上遡れなくなっているのか、それとも特定の条件があるのかは分からない。


 透はパイプ椅子に身を沈め、冷や汗を拭いながら前回の「敗因」を論理的に分析した。

『観測の分散』。それは一見、理にかなったデバッグに思えた。だが、人間の心という未定義のノイズを、エピステミオンの避雷針として計算に組み込んだことが致命的だった。

 結果として、泉 鈴音という無関係な少女を狂気に追いやっただけでなく、伊知花の中のAI(星川 綺羅々)に「障害物を物理的に排除する」という最悪の学習(ラーニング)を与えてしまったのだ。


「同じ手はもう使えない」


 透はマルチモニターに流れる『Unison(ユニソン)エンジン』のシステムログを見つめながら、重く暗い絶望を噛み締める。


「まずは前回のミスでどのくらい影響があるか確認しないといけないな」


 とても気が重い。前回の壮絶な光景が脳裏にこびりついて離れない。

 全くの影響が無いことはないだろう。影響度合いによっては詰む可能性だってありえる。

 そんな面持ちで透は状況の把握に向かった。



 ―――――――――――――――



 後日の『流れ星スタジオ』。

 透はコントロールルームの奥に陣取り、極力誰とも口を利かないようにして事象の推移を監視していた。


「あ、おはようございます、透お兄ちゃん!今日のリハもよろしくお願いしますっ」


 入り口で、タレントの泉 鈴音が屈託のない笑顔で頭を下げてきた。

 その瞬間、透の脳内のデバッグ・ビジョンが、強烈な警告(アラート)を発した。


(パスが繋がりやすくなっている?)


 表面上、今の鈴音はただの明るい先輩タレントだ。前回のループで起きた凶行の記憶など、彼女には一切ない。

 だが、事象のレイヤーを可視化できる透の目には、彼女の周囲の空間に、目に見えない「接続ポート(脆弱性)」がポッカリと開いているのが見えた。

 前回、透が彼女の3Dモデル『朱都 ねこね』をいじり、深く干渉した事実。その「計算の残骸」が世界に薄く残ってしまっているのだ。


 もし今、透が少しでも彼女に優しくしたり再びモデルの調整に手を出せば、前回よりも遥かに速い速度でエピステミオンのパスが確立し、あっという間に彼女は狂気の底へ引きずり込まれるだろう。


「おはようございます、泉さん」


 透はモニターから一切視線を外さず、極めて事務的で冷淡な声で返した。

「あ⋯⋯うん。お仕事、邪魔してごめんね」と、鈴音が少し寂しそうに去っていくのを確認し、透は安堵の息を吐いた。

 過度な接触は絶対に避けなければならない。彼女を二度と、この因果律の泥沼に巻き込むわけにはいかないのだ。


 だが、鈴音へのパスを遮断したことで、問題は再び「本来の特異点」へと集約される。


 ガラスの向こうのブース。

 そこでは、伊知花がトラッキングスーツを着て静かにターンの確認を行っていた。


(マズいな。限界ギリギリだ)


 伊知花の挙動に、前回のループの後半で見せたような分かりやすい「狂気」や「ヤンデレ化」の兆候はまだない。

 しかし、透の目にははっきりと見えていた。彼女の肉体を縛り付ける『Body Physics(人体物理演算)』の強制力が、5月の段階ですでに、かつての7月並みの強度にまで達しているのだ。

 彼女の精神の表面張力は、今まさに臨界点ギリギリで保たれているに過ぎない。透がほんの少しでも「拒絶」のアクションを起こせば、AIは即座にそれを学習し、前周回以上の狂乱を引き起こすだろう。


 透から伊知花へ、そして星川 綺羅々へとも繋がるエピステミオンの中継パス。

 それは度重なるループの負荷によって、もはや通常の論理介入では切断不可能なほど、太く、強固に硬化してしまっていた。



 ―――――――――――――――



「⋯⋯くそっ、どうすればいい」


 回帰してから10日以上経つ6月上旬。

 深夜のコンテナハウスで、透は誰にともなく悪態をついた。


 打つ手がない。完全に手詰まりだった。

 伊知花を突き放せば、彼女はAIに魂を売り渡し、狂信的な偶像として相転移を始める。

 かといって他の誰かに観測を分散させれば、その人間が破滅し、最悪の場合は前回のように透自身が殺される。

 電源を落とすといった物理的な手段は、もはや意味を成さない。事象の基盤はすでに「大衆の認識」という概念(エピステミオン)に移行しており、ハードウェアを破壊したところで、世界の相転移は止まらないのだ。


 どうすれば、この強固なパスを切断できる?

 どうすれば、妹の魂をAIから引き剥がせる?


 マルチモニターには、透がかつて心血を注いで書き上げたソースコードが、無機質にスクロールし続けている。

 かつては「世界を完璧に制御できる」と信じて疑わなかった自らの技術が、今はただ、妹を処刑するためのカウントダウン装置にしか見えなかった。


 解決の糸口すら掴めないまま、無為な時間だけが過ぎていく。

 カレンダーの日付は、冷酷なまでに前へと進み続けていた。

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