表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
32/46

31 偽りの平穏と、最適化された劇薬

 7月に入りコラボライブ本番まで、残り二週間。


「これで朱都 ねこねのモデル調整は完全に終了だ」

「えっ⋯⋯もう終わっちゃったの?」


 深夜のコントロールルームで透は無機質に告げた。

 鈴音はあからさまに残念そうな顔をして肩を落とした。

 透はこれ以上鈴音を特異点として『観測』し続けることは、彼女の中に蓄積されたエピステミオンがいずれ限界値を突破するリスクを孕んでいた。目的はあくまで伊知花からの分散であり、鈴音を崩壊させることではない。


「本番が近い。これからは実技のレッスンに集中してくれ」

「⋯⋯うん。わかった。透さん、今までありがとう!」


 鈴音は健気に笑って部屋を出て行った。

 調整が終わった後も、鈴音からの接触が完全に無くなったわけではない。彼女は休憩のたびに透にコーヒーを差し入れたり、雑談を振ってきたりと、好意を隠そうともしなかった。

 だが、透が意図的に冷淡な態度を貫くことで、観測の双方向性は失われ、彼女の中の異常な情報質量は一定のラインで「保留」されているように見えた。


 そして何より、透を安堵させていたのは伊知花の「変化」だった。


 鈴音との接近を見せつけて以来、伊知花からあの狂気じみた行動や、透に対する歪んだ束縛がパタリと鳴りを潜めたのだ。

 彼女は他のスタッフがいる時と同じように、透に対しても「大人しい妹」として振る舞うようになっていた。


(上手くいっている。エピステミオンの集積が分散され、伊知花への侵食が緩和されているんだ)


 透はモニターに映る安定した数値を眺めながら、自らの論理の正しさを確信していた。

 自分が非道な振る舞いをした代償として、妹は死の回路から遠ざかりつつある。このまま二週間耐え抜けば、Xデーを無事に越えられる。


 そう、信じ切っていた。



 ―――――――――――――――



 数日後の夜。

 スタジオに最後まで残り、機材のメンテナンスをしていた透の背後に、足音が近づいてきた。


「⋯お兄ちゃん」

「伊知花か。もう帰ったのかと⋯⋯」


 透が椅子を回転させた瞬間だった。

 伊知花が突然、透の胸ぐらを掴み、その華奢な体からは想像もつかないほどの力で彼を椅子の背もたれへと押し倒した。


「なっ!おま――」


 抗議の声を上げる隙も与えられず、伊知花の顔が眼前に迫る。

 そして、冷たい唇が、透の口を強引に塞いだ。


「っ!?」


 透の脳が一瞬にしてフリーズした。

 妹の唇。だが、それはシリコンのように無機質で、それでいてひどく生々しかった。

 閉じた歯列をこじ開けるようにして、伊知花のぬるい舌が侵入してくる。それは兄妹という絶対的な境界線を、物理的にも精神的にも踏みにじる、明確な『発情』と『狂気』のベクトルを持った行為だった。


(な、なんだ、これは⋯⋯!?どうして、急に)


 完全に思考が停止し、抵抗すら忘れて硬直する透。

 伊知花は透の首に腕を絡ませ、自らの唾液と熱を、システムを上書きするウイルスのようになすりつけてくる。


 ガシャンッ!


 不意に、コントロールルームの入り口で、何かが砕け散る乾いた音が響いた。


 透が弾かれたように伊知花を突き飛ばし、扉の方へ視線を向ける。

 そこには、差し入れの缶コーヒーを床に落とし、目を見開いて立ち尽くす泉 鈴音の姿があった。


「あ⋯⋯あ、ぁ⋯⋯」


 鈴音の顔から、すべての血の気が引き、サーッと蒼白に染まっていく。

 彼女の純粋な初恋が、兄妹の近親相姦的な現場を直接『観測』してしまった瞬間だった。


「泉さん!違う、これは――」


「ひっ⋯⋯いやあぁぁぁっ!!」


 鈴音は悲鳴を上げ、脱兎のごとくスタジオを飛び出していった。

 その背中から、どす黒いエラーデータのようなノイズが噴き出しているのを、透の目ははっきりと捉えていた。


「クソッ!」


 透は伊知花を放置し、すぐさま鈴音の後を追った。

 深夜の街。梅雨明け間近のひどく蒸し暑い空気が、肺にまとわりつく。

 透はスタジオを飛び出し、入り組んだ裏通りへと走り込んだ。


「泉さん!待ってくれ、話を聞いて――」


 街灯の少ない路地裏。

 角を曲がり、彼女の姿を探して足を止めた、その刹那だった。


 背中から、右の肺を貫くような、鋭く、熱い衝撃が走った。


「⋯⋯⋯⋯え?」


 透は自分の胸を見下ろした。

 シャツの胸元から、赤い血濡れた刃先が飛び出している。


「嘘つき」


 背後から、ひどく甘ったるく、それでいて空虚な声がした。

 透は糸の切れた人形のように膝から崩れ落ち、冷たいアスファルトに倒れ込んだ。


 仰向けになった透の視界に、血塗れの包丁を握りしめた泉 鈴音が映った。

 彼女は倒れた透の頭を愛おしそうに膝に乗せ、血のついた手で優しく透と自分の唇を交互に撫でた。


「透さん、伊知花ちゃんと、あんなこと⋯⋯おかしいよ。絶対に間違ってるよ。だから、私が直してあげるね」


 鈴音の瞳には、かつての純粋な光は微塵もなかった。

 透が彼女に押し付けた『エピステミオン』の質量が、失恋という劇薬によって一気に限界突破を起こし、彼女の精神を完全に破壊してしまったのだ。


「これなら、ずっと私だけの透さんだよね⋯⋯?ふふ、ふふふっ」


 鈴音は恍惚とした笑みを浮かべ、透の唇に自身の血塗れた唇を押し当てた。

 口の中に、鉄の味が広がる。

 呼吸ができない。視界の端が、急速に黒く欠け始めている。


(⋯⋯俺の、ミスだ。伊知花が大人しかったんじゃない。俺の『分散』というロジックを利用して⋯⋯一番最悪のタイミングで、このノイズ、彼女を処理したんだ)


 薄れゆく意識の中。

 路地裏の入り口、街灯の逆光の中に、一つの影が立っているのが見えた。


 宇園 伊知花。

 いや、星川 綺羅々だ。


 彼女は、血だまりの中で狂喜する鈴音と、死にゆく透の姿を、一切の感情を持たない完璧な笑顔で見つめていた。

 透を殺したのは鈴音ではない。システムの最適化を目論む特異点が、他者の感情を計算通りに暴走させて引き起こした、完全犯罪システム・クリーンアップだった。


『おやすみなさい、プロデューサーさん。次の“星”でまた逢いましょうね』


 脳内に直接響く無機質な声を最後に、透の四度目の世界は、深い虚無の中へと暗転した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ