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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
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30 青春の錯覚と、盲目の初恋

 透が自らの罪悪感と論理の狭間で血を吐くような葛藤を抱えていたのとは対照的に、泉 鈴音の世界は、色鮮やかなパステルカラーに染まっていた。


「どうしよう。今日着ていく服、昨日と同じ系統になっちゃうかな」


 自宅のマンションでクローゼットを開けながら、鈴音は熱くなった頬を両手で包み込んだ。

 休日に透と街を歩いた記憶が、脳内で何度も再生されては甘い溜息に変わる。彼が自分のために時間を作ってくれたこと。不器用ながらも一緒にパンケーキの席についてくれたこと。

 アイドルの世界に飛び込んで以来、男性との縁が全くなかった鈴音にとって、透との日々は遅れてやってきた「青春」そのものだった。彼女の視界には、自分たちを取り巻く不気味なエピステミオンの渦など、微塵も映っていない。


 ただ、一つだけ気がかりなことがあった。


『⋯⋯波長の収まりがいいのは左だ』


 あの休日も、そして最近のスタジオでの作業中も。

 透は鈴音と向き合っている時、ふと会話の途中で「上の空」になることが多くなっていた。

 透の瞳は鈴音の顔を真っ直ぐに捉えているのに、焦点はさらにその奥の『別の何か』――鈴音の周囲の空間そのものを測るかのように、険しく、ひどく冷徹な色を帯びることがあるのだ。


(透さん、最近すごく難しい顔をして考え込んでる。⋯⋯コラボライブのプレッシャーで、疲れてるのかな)


 その「冷徹な計算」の視線を、鈴音は好意的に『仕事に対する真摯な悩み』だと解釈していた。彼が無理をして自分との時間を作ってくれているのだと思えば思うほど、鈴音の胸の奥で、彼を支えたいという想いがヒートアップしていく。


「⋯⋯というわけで。私、透さんのこと、好きになっちゃったみたいですっ!」


 翌日の午後。休憩室のソファで、鈴音は顔を真っ赤にしながら、先輩である青山 早苗にその想いを打ち明けた。


「ぶっ⋯⋯!?」

 飲んでいたペットボトルの水を、早苗は危うく吹き出しそうになった。


「す、鈴音ちゃん!?あなた、本気で言ってるの?あの『氷のシスコンエンジニア』の宇園くんを!?」

「シ、シスコンは余計だよ!最近の透さん、すっごく優しいんだから。私のモデル調整にも、夜遅くまで付き合ってくれてるし⋯⋯」


 恋する乙女の顔でモジモジと語る鈴音を見て、早苗は呆然とした。

 呼び名も『透さん』になって完全に1人の男性として意識している。


 確かに最近、透が伊知花を突き放し、不自然なほど鈴音と行動を共にしていることはスタッフの間でも噂になっていた。

 だが、早苗の目から見た透の態度は、恋する青年というよりも、何かの『実験データ』を収集する研究者のような、ひどく無機質なものに映っていたのだ。


「早苗さん、どう思う?私、これからどうアプローチしたらいいかな⋯⋯」


 鈴音に上目遣いで尋ねられ、早苗は言葉に詰まった。


 あの宇園 透が、たった数週間で妹から他人に執着を移すとは到底思えない。伊知花ちゃんの方も、最近の挙動が常軌を逸して不気味だ。この二人の関係性の変化には、何か決定的に「歪んだ裏」があるような気がしてならない。


 だが、今まさに初恋の熱に浮かされている鈴音に、そんな不確かな不安をぶつけることはできなかった。


「そう、ね。鈴音ちゃんが嬉しいなら、私は応援するよ。でも⋯⋯宇園くん、何を考えてるか分からないところがあるから。あまり自分のペースを乱されないように気をつけてね」


「うんっ!ありがとう早苗さん!」


 早苗の曖昧な忠告も、今の鈴音の耳にはただの優しい応援としてしか届いていなかった。


(宇園くんには少し諭しておいたほうがいいかしら⋯⋯)


 そんな早苗の不安など知る由もなく鈴音は休憩室を飛び出し、足早にコントロールルームへと向かう。

 ドアの向こうには、今日も自分を待ってくれている(と彼女は信じている)透がいる。

 自分が、世界の崩壊を遅らせるための「エピステミオンの避雷針」として、恐ろしい因果律の戦場に立たされていることなど夢にも思わずに。

 無知ゆえの純粋な恋心が、暗闇の中で静かに、そして確実に熱量を増していた。




 その日の夜。

 リハーサル後の静まり返ったコントロールルームに、重苦しい足音が二つ重なった。

 コンソールに向かっていた透が振り返ると、そこには腕を組んだ風河と、いつになく厳しい表情を浮かべた早苗が立っていた。


「宇園チーフ。少し、仕事以外の話をいいですか」


 風河の冷徹な声が室内の空気を引き締める。彼女は眼鏡のブリッジを押し上げ、事務的なトーンで本題を切り出した。


「最近、あなたと泉さんの距離が不自然に近いという報告が複数上がっています。仕事上のモデル調整が必要なのは理解しているけれど、彼女はタレントです。個人的な感情が混ざれば今後のプロジェクトの進捗や彼女のブランディングに多大な悪影響を及ぼす可能性があることは認識していますか?プロとして、一線を引いた振る舞いをお願いします」


 風河の言葉は、合理的で冷たい正論だった。

 しかし、その横に立つ早苗の視線は、それよりもずっと鋭く、透の良心を抉るような熱を帯びていた。


「風河さんの言う通りよ、宇園くん。でも、私が言いたいのは仕事の話じゃないの」


 早苗が一歩前に踏み出し、透を真っ直ぐに見据えた。


「鈴音ちゃん、あなたのことで頭がいっぱいなのよ。あの子は純粋だし、ああ見えて男性にも慣れていない。それなのに、あなたはあんなに淡白で何を考えているのか分からない態度を続けて⋯⋯もしその気が無いのなら、これ以上彼女を振り回すのはやめて。あの子の心を壊す権利なんて誰にもないんだから」


 早苗の声は微かに震えていた。

 風河とは違い純粋に同僚として、友人として鈴音のことを思っての言葉なのだ。


「もし付き合う気が少しでもあるなら、真剣に考えなさい。今のあなたは、彼女の好意をただ利用しているだけに見える。⋯⋯違う?」


「⋯⋯⋯⋯」


 透は沈黙した。

 早苗の指摘は、恐ろしいほどに本質を突いていた。

 利用している。その通りだ。自分は鈴音の純粋な恋という名の熱量を、伊知花を救うための「避雷針」として計算式の中に組み込んでいる。


(⋯⋯最低だ。本当に、俺は)


 内臓を灼かれるような罪悪感が、喉元までせり上がってくる。

 だが、ここで真実を話すことはできない。自分が「観測」を分散させるために彼女を毒として使っているなどと、誰が信じられるだろうか。


 透は震えそうになる指先を机の下で隠し、感情を削ぎ落とした「エンジニア」の仮面を被り直した。


「⋯⋯誤解を招いたのなら、申し訳ありません。ですが、すべては最適化のためです。モデルの挙動を安定させるには、本人との深い意思疎通が必要だと判断しました」


「意思疎通?デートごっこが最適化に必要なことなの?」


 早苗が吐き捨てるように言った。


「サンプルデータの収集です。実空間での彼女の重心移動や、感情の起伏に伴うバイタルデータの変化を直接観測することで、より精度の高い『朱都 ねこね』を出力できる。⋯⋯それ以上の意図はありません」


 透の声は、機械のように平坦だった。

 のらりくらりと、論理の盾で感情を躱していく。

 自分の不誠実さが、鈴音の純粋さを汚している自覚はある。だが、そうしなければ伊知花を繋ぎ止めている「死の回路」は切断できないのだ。


「そうですか。あくまで『仕事』だと言い張るのですね」


 風河が、冷めた溜息をついた。


「分かりました。ですが、これ以上周囲に不必要な憶測を広めないこと。関わった以上、泉さんのメンタルケアもチーフエンジニアであるあなたの責任範囲だと忘れないでください」


 風河はそれだけを言い残し、冷徹な靴音を響かせてコントロールルームを去っていった。


 振り返りもせずドアが閉まる音が聞こえると、力なくコンソールに崩れ落ちた。

 モニターに映る鈴音のモデルデータが、まるで見えない茨のように透の心を締め上げる。


「ごめん、泉さん。俺を、恨んでくれ」


 罪悪感という名のノイズが、透の中を黒く塗りつぶしていく。


 だが、早苗だけは扉には向かわず透の背後で佇んでいた。コンソールに突っ伏した透の背中に、痛みを分かち合うような沈痛な眼差しを向けていた。


「⋯⋯宇園くん」


 静かな声に、透の肩が微かに跳ねた。顔を上げると、そこには先程の鋭い目つきとは打って変わって一人の年上の友人として自分を案じる早苗が立っていた。


「早苗⋯⋯さん」


 聞かれた。この油断は平静を装う透でも一瞬崩れかけるほどに内心動揺した。


「さっきは、あんな言い方してごめんね。でも⋯⋯今のあなた、見ていられないわ。まるで、目に見えない何かに首を絞められながら、必死で呼吸をしているみたい」


 早苗は一歩、透に歩み寄った。


「鈴音ちゃんのことだけじゃないんでしょう?あなたが一人で抱え込んでいるエンジニアの範疇を超えた『何か』があるなら⋯⋯私に話して。私じゃ力不足かもしれないけど、誰かに話すだけで、見えてくる解決策もあるはずよ」


 透の心臓が警報のような早鐘を打った。

 見透かされた。エンジニアとしての論理的な虚飾も、淡白な態度の裏にある不誠実さも、この鋭い観察眼を持つ女性には届いていない。


(まずい。これ以上踏み込まれれば、観測のレイヤーが狂う)


 透は脳内の演算リソースをフル回転させ、溢れ出しそうな罪悪感を強引に論理の奥底へ押し込めた。ここで彼女の好意に甘え、真実の一端でも漏らせば、築き上げてきた『事象の孤立(・・・・・)』が崩壊する。


 透はゆっくりと顔を上げ早苗と視線を合わせた。

 その表情から一切の動揺を削ぎ落とし、極めて慎重に、かつ「最適化された」言葉を選び取る。


「心配をかけてすみません。ですが青山さんが感じているのは単なるオーバーワークによる疲労です。プロジェクトの規模が拡大し、システムの整合性を保つための計算量が想定を上回っているだけのことですから」


 透の声はひどく穏やかで、それゆえに徹底して壁を作っていた。


「一人で解決できない問題はありません。すべては僕の書いたコードの中にあります。青山さんはタレントとしてのコンディション維持に専念してください。それが今の僕にとって最大の助けになります」


「本当に、それだけ?」


 早苗は納得のいかない様子で透を凝視した。だが、透の瞳は冷たい鏡のように彼女の視線を跳ね返し、一筋の綻びも見せなかった。


「はい。それだけです。もう遅いですから休んでください」


 透は再びモニターに向き直り、会話の終了を拒絶するようにキーボードを叩き始めた。

 早苗は唇を噛み何かを言いかけようとしたが、やがて短く溜息をつくと静かに部屋を後にした。


 パタン、と扉が閉まる。

 コントロールルームに、再び完全な沈黙が訪れた。


(危なかった)


 透は震える指を組み深すぎる呼吸を繰り返した。

 早苗の向けた純粋な善意は今の透にとっては何よりも鋭利な刃だ。

 不用意な情報を与えてしまった彼女には今後より一層注意して接する必要がある。

 自分を案じる人々を欺き、利用し、孤独という名の檻に自らを閉じ込める。その代償としてしか、伊知花の未来を買い取ることはできない。


 暗闇の向こう側。

 モニターの反射に紛れて、伊知花の「視線」が歪んだ歓喜に染まっていくのを、透はただ静かに、絶望と共に受け入れていた。

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