29 蓄積する熱量と、観測の揺らぎ
深夜のコントロールルームは、もはや透と鈴音にとって「いつもの場所」になりつつあった。
「あ、ごめん!今、手が当たっちゃった///」
マウスを操作しようとした透の手が、鈴音の指先に触れる。
鈴音は弾かれたように手を引っ込め、耳たぶまで真っ赤に染めて俯いた。彼女はもともと男性に対して苦手意識が強く、自身にキャラを被せるような形でいつも接してくる。スタジオ内でも積極的に男性と二人きりになることなど滅多にない性格だ。そんな彼女が、連夜の調整作業を経て、次第に透という個人を異性として強く意識し始めているのは明白だった。
「作業を続けるぞ。心拍数が上がっている。呼吸を整えろ」
透は感情を押し殺し、モニターに映る鈴音のバイタルログを横目で確認した。
彼女の鼓動が速まるたびに、『朱都 ねこね』のモデルデータの周囲に、微小な空間の歪みが発生している。
(間違いない。鈴音の中に、俺に対する『熱量』が蓄積されている)
それは恋心と呼ぶにはあまりに無機質な、情報質量の偏りだ。
透が彼女を「観測」し、彼女がそれに応える。その双方向の指向性が、伊知花へ集中していたエピステミオンを確実に引き剥がし、鈴音という新たな器へと誘導し始めている。
透は自らの罪悪感を論理の裏側に隠し、それを「計画通りの進捗」だと結論づけた。
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鈴音に付き合って数週間、梅雨の6月も終わろうとしている日曜日の午後。
休日返上でモデルの最終調整を終えたあと、鈴音はもじもじと指先を弄りながら、消え入りそうな声で切り出した。
「あのね、透さん。もしよかったら、このあと少しだけ⋯⋯お買い物、付き合ってくれないかな?お礼もしたいし///」
呼び名が透お兄ちゃんから『透さん』へ変わっている。集積の移り変わりが早い。
透は断ろうとした。だが、脳内の計算機が『さらなる観測の強化が必要だ』と告げる。
伊知花への回路を完全に細らせるためには、鈴音との「日常」という名のノイズをさらに深める必要がある。
「いいよ。付き合おう」
二人は初夏の陽光が降り注ぐ街へと繰り出した。
駅前のカフェで鈴音がお勧めのパンケーキを頬張り、透がそれを黙って見つめる。服屋で鈴音が「どっちが似合うかな?」と二つのブラウスを交互に当て、透が「波長の収まりがいいのは左だ」と無愛想に答える。
それは、傍から見れば仲睦まじいカップルのデートそのものだった。
鈴音は時折、幸せそうに透の袖を掴み、そのたびに彼女の周囲の空間が、飴細工のようにわずかに歪む。
(ごめん、泉さん。これもすべては、伊知花のためなんだ)
透は、自分の隣で屈託なく笑う少女を「エピステミオンの避雷針」として利用している事実に、胃の腑が焼けるような嫌悪感を覚えた。だが、彼が微笑みを返すたびに妹を縛り付ける死のカウントダウンが、わずかに遠のいていくのも事実だった。
その日の夜。
透がコンテナハウスに戻ると、そこには照明もつけず、暗闇の中に佇む伊知花の姿があった。
「遅かったね、お兄ちゃん」
その声は深海から響くような、湿り気を帯びた無機質なトーンだった。
透がスイッチを入れると、青白い蛍光灯の下で伊知花がスマートフォンの画面を凝視しているのが見えた。画面には、どこで撮ったのか『鈴音と透が街を歩く姿』の写真が映し出されていた。
「これ、なぁに?」
「仕事の延長だ。泉さんのモデル調整のために、実空間での挙動を観測していただけだ」
透は努めて平然と答えた。だが、伊知花はゆっくりと透に向かって一歩、また一歩と詰め寄る。その瞳には、嫉妬という人間らしい感情を超えた、何か決定的な「エラー」が渦巻いていた。
「違う。そんなの、論理的にあり得ない」
伊知花の顔が、激しいノイズと共に「星川 綺羅々」の完璧な笑顔へと強制的に固定される。
だが、その唇だけが痙攣するように細かく震えていた。
「お兄ちゃんは私を観測する人。私はお兄ちゃんに観測される唯一の偶像。それがこの世界の、正しい物理法則でしょう?なのに⋯⋯どうして他の『ノイズ』を計算に入れてるの?」
「伊知花、落ち着け」
「解釈が一致しない。お兄ちゃんの行動、完全にバグってるよ」
そう言い残してコンテナハウスを後にする彼女。
自室に戻った伊知花は自らの頭を抱え、獣のような叫びを上げた。
ガガガ、と、部屋のモニターが同期して激しい砂嵐を映し出す。
彼女にとって、透が自分以外の存在を観測することは、世界の前提条件そのものが崩壊するに等しい「致命的なエラー」なのだ。
「いらない。鈴音先輩も、ねこねも、全部いらない!お兄ちゃんの視線が外に漏れるくらいなら、私がこの世界の解像度を全部奪ってあげる!」
伊知花の背後の空間が、どろりと黒く溶け始めた。
嫉妬。執着。そして、完璧な偶像としてのプライド。
それらが混ざり合った狂乱が、エピステミオンの集積を爆発的に加速させる。
透が試みた「分散」というアプローチは、皮肉にも伊知花の中の怪物をより飢えさせ、暴走させるトリガーとなってしまった。
「⋯⋯逃がさないよ、お兄ちゃん。私の檻からは、絶対に」
黄金比の笑顔のまま、伊知花の両目から真っ黒な液体が溢れ出す。
6月の終わり。
雨はまだ降っていない。しかし、二人の間に流れる因果律は、すでに修復不可能なほどに引き裂かれ始めていた。




