28 偽装の観測と、代替の器
5月も終わろうとするある日の午後。『流れ星スタジオ』のレッスンルームは、和やかな空気に包まれていた。
「綺羅々ちゃん、今のターンの後のポーズ、すごく可愛かったよ!」
先輩タレントの泉 鈴音が、タオルを首にかけながら伊知花に駆け寄った。
「最近、本当に表情が明るくなったよね。前はもっとこう、不安そうに踊ってたっていうか、自信がついたのかな?」
「えへへ、ありがとうございます、鈴音先輩。コラボライブが近いから、気合入れなきゃって思って」
伊知花は、年相応のはにかんだ笑顔を見せ、少し照れくさそうに頭を掻いた。
その様子をガラス越しに見ていた同じ事務所タレントの青山 早苗や、厳しいチーフマネージャーの風河 薫でさえ、安堵の入り混じった頷きを見せている。そこには、兄にサポートされがらも健気に頑張る、周囲がよく知る「宇園 伊知花」の姿が完璧に存在していた。
だが、コントロールルームのコンソールに座る透だけは、背筋に這い上がるような悪寒を噛み殺していた。
メインモニターに流れる『Body Physics』の生ログデータ。
そこには、今の伊知花の「人間らしい愛嬌」や「わずかにブレたターン」が、すべてAIによってコンマ数秒前に計算され、『意図的に出力された不完全さ(ノイズ)』であることがはっきりと示されていた。
彼女は「普通の宇園 伊知花」を、寸分の狂いもなくエミュレートしているだけなのだ。
「それじゃあ今日の全体リハはここまで。みんな、しっかり休むように」
風河の言葉で、スタッフやタレントたちが次々とスタジオを後にする。
「お疲れ様でしたー!」
伊知花も明るい声で手を振り、鈴音たちを見送った。
やがて、重い防音扉が閉まり、スタジオとコントロールルームに透と伊知花の二人だけが残された。
カチッ、と。
まるで物理的なスイッチが切り替わったかのように、空間の温度が反転した。
「⋯⋯ねえ、お兄ちゃん。今の『普通の伊知花』の出力、何点だった?」
ガラスの向こう側に立つ伊知花の顔から、先ほどまでの愛らしい妹の表情が、電源を落とされたモニターのようにスッと消え去った。
彼女はゆっくりとコントロールルームの扉を開け、透の背後へと忍び寄る。その足取りは重力を無視したように静かで、正確だった。
「演技のつもりか」
透はモニターから目を離さずに、冷淡な声で応じた。
「演技じゃないよ。みんなが望む『伊知花ちゃん』をシミュレートしてあげたの。だって、その方がノイズが減って、お兄ちゃんのシステム管理がスムーズに進むでしょう?」
伊知花は透の座る椅子の背もたれに手をかけ、逃げ場を奪うように顔を近づけた。
彼女の顔が、透の視界の端で不自然に歪む。
いや、それは歪みではなく、純粋な最適化だった。彼女の口角がコンマ数ミリの単位で理想値へと吊り上がり、透ただ一人に向ける、狂気的なまでの親愛のプロトコルへと固定される。
「怖い顔しないで。私は、お兄ちゃんが望む通りの『完璧な素材』になってあげてるだけだよ」
彼女の手が透の首筋をなぞる。
その指先は驚くほど冷たく、生身の血の巡りを感じさせない。まるで精巧に作られたシリコンのようだった。
「やめろ、伊知花。お前はシステムに呑まれているだけだ。そんなものは愛情じゃない」
透は彼女の手を冷たく振り払おうとした。だが、伊知花の腕は『Body Physics』の強制補正によって先読みするように受け止める。
「いいえ、これこそが究極の同期だよ。お兄ちゃんが作った檻の中で、お兄ちゃんの視線だけを食べて生きていく。⋯⋯お兄ちゃんが私を突き放そうと冷たくすればするほど、私の中の『星川 綺羅々』が、お兄ちゃんの論理を理解して最適化していくの」
伊知花は恍惚とした瞳で、透の耳元に囁いた。
「もっと冷たくして。もっと私を否定して。そうすればするほど、私はお兄ちゃんの理想のデータに近づける。⋯⋯あはは、最高に幸せ」
透は絶望的な理解に突き当たった。
「妹への執着を捨てる」という彼の試みは、皮肉にも伊知花の中のAIに、「観測者の関心を惹き続けるための最適解」として学習されてしまったのだ。
透がオフラインの観測者になろうと冷酷に振る舞えば振る舞うほど、彼女はより完璧な、より歪んだ形での受容を演じ、透をこのエピステミオン集積回路のコアとして縛り付けようとする。
妹を救うための「否定」が、彼女を狂気という名の無敵の檻に閉じ込めていく。
透は、自分にすがりつく「完璧で空虚な二面性の偶像」を前に、事象を切断することの絶望的な難しさを噛み締めていた。
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あれから対策を巡らせ数日が経つ。
そして伊知花の歪んだ依存を加速させてしまったミスと、因果律の泥沼から抜け出せない焦燥感の中で、透は一つの『可能性』に辿り着いた。
(俺の視線が、伊知花の回路を繋ぎ止めるアンカーになっているのなら)
ならば、その観測対象を意図的に分散させればどうなるか。
今の伊知花は透の視線を独占することに異常なまでの執着を見せている。無理に視線を外せば、彼女の中の『星川 綺羅々』が暴走しかねない。
そこで透は、意識的に「別の特異点」を擬似的に作り出し、自身の計算リソースをそちらへ割く方法をと思ったところで、ある記憶を掘り起こした。いつのことだったか、リハーサルの合間に先輩タレントの「朱都 ねこね」こと鈴音が冗談半分に言っていた言葉だ。
『透お兄ちゃん、今日もPCのカタカタしに来たの?ねこねの3Dモデルも、もっと可愛く動くように魔法かけてよー!』
白羽の矢を立てたのは、先輩タレントの泉 鈴音だった。
彼女の持つアバターは他の2人と比べても動物的なデザインに加え衣装の稼働パーツが多い。
そのため、透の“遠い”記憶で彼女は自分の3Dモデル『朱都 ねこね』の挙動に人知れず悩みを抱えていたはずだ。今この時間軸ではまだ口に出していないが、その潜在的な欲求を透が先回りして引き出す。
「泉さん。少し、いいかな」
全体リハの合間、透は機材の片付けをしていた鈴音を呼び止めた。
「透お兄ちゃん?どうしたの、珍しい!私に何か用?」
鈴音は驚いたように大きな目をパチクリさせた。
透はあえて無機質なエンジニアの顔を保ち、彼女のタブレットに表示されていた『朱都 ねこね』のモデルデータを指差した。
「リハの映像を解析したんだが、ねこねの尻尾の物理挙動⋯⋯特に、ターン時の二次遅延の設定が甘いかなと。今のままでは、泉さんの本来のキレのある動きにモデルが追いついていないように見えます」
「えっ、それ、私もちょっと思ってたの。でも、気のせいかなって⋯⋯透お兄ちゃん、そんなところまで見てくれてたんだ」
鈴音の顔がパッと輝いた。彼女の中にあった「もっと可愛く、もっと私らしく動きたい」という未分化の願いが、透という絶対的な観測者の言葉によって、明確な形を持って顕現した瞬間だった。
「調整が必要ですね。⋯⋯今夜時間を作れます?泉さんの動きに合わせて、ボーンのウェイトを直接書き直したいと思って」
「やるやる!お願いします、透お兄ちゃん!」
鈴音は小柄な体を弾ませて喜び、透の腕を掴んでブンブンと振った。
彼女の放つ熱量は、最適化された伊知花の冷徹な完璧さとは正反対の、人間らしい無秩序な生気に満ちていた。
それからの数日間、コントロールルームに詰める透の隣には、頻繁に鈴音が座るようになった。
「ねえねえ、ここをもっと『ふわっ』と『ぷるん』とさせてほしいの。猫っぽく!」
「ふわっとぷるんとね⋯⋯この係数をいじれば、空気抵抗が増えて希望に近い挙動になるはずだ」
深夜の静かなスタジオで、二人はモニターを囲んで作業に没頭した。
鈴音は透が渡したブラックコーヒーを顔をしかめながら飲み、「お兄ちゃん、これ苦すぎだよ!」と文句を言いながら、持参した甘い菓子パンを透の口に強引に突っ込んでくる。
「もー、ちゃんと食べなきゃダメ。透お兄ちゃん最近どんどん顔色が悪くなってるんだから!ほら、あーん!ちゃんと食べないと透お兄ちゃん倒れちゃうよ?」
「おい、よせ。キーボードが汚れる!」
鈴音の屈託のない笑顔と、無秩序で温かい「人間」としてのエネルギー。
その無遠慮なまでの距離の詰め方は、透が意図的に構築した『冷徹な観測者』というレイヤーを、いとも容易く踏み越えてくる。
いつしか他人行儀な話し方も消え、傍から見たらまるで兄妹のような光景になっていく。
それは、最適化され、冷徹な静謐さをまとい始めた伊知花の空気とはあまりにも対照的だった。
不思議なことに、鈴音と過ごす時間が増えるにつれ、透の脳内を支配していたあの不気味な緊張感が、わずかに和らぐのを感じていた。
「⋯⋯よし。朱都 ねこねの尻尾の物理挙動、修正完了だ。確認してくれ」
「わあ、すごい!完璧だよ、透お兄ちゃん!ありがとうっ!」
鈴音は感極まったように透の首に抱きついた。
その瞬間、コントロールルームの外。
暗い廊下の影に、一筋の冷たい視線が走ったのを、透は逃さなかった。
ガラスの向こう側からスタジオの暗がりに立ち、無言でこちらを見つめる伊知花。
(効いているな)
透は鈴音の背中を軽く叩きながら、ガラスの向こう側を凝視する。
そこには、自分たちを静かに見つめる伊知花の姿があった。
スタッフの前で見せる「優しい妹」の仮面も、透の前で見せる「狂信的な偶像」の表情もない。
彼女の瞳には、あの恍惚とした愛情ではなく、どす黒い虚無がその瞳に宿っている。
透が鈴音という「別の器」に執着(観測)を分散させたことで、伊知花へと流れ込んでいたエピステミオンの奔流に淀みが生じ始めていた。
だが、それは同時に新たな危うさを孕んでいた。
鈴音という無関係な人間を、この因果律の歪みに巻き込んでしまった。
彼女のキャラクター「朱都 ねこね」のモデルに透が触れるたび、そこにも微弱なエピステミオンが集積し始める可能性がある。
「透お兄ちゃん、明日も会える?私、新しいダンスのモーションも見てほしいな」
「ああ。いいだろう」
透は隣で幸せそうに笑う鈴音を見つめながら、内心で激しい葛藤に苛まれていた。
妹を救うための「毒」として、この明るい少女を利用している自分。
伊知花の歪んだ瞳が、暗闇の中でさらに深く、黒く濁っていく。
事象の切断。そのための生贄として、透は無意識のうちに、第二の特異点を生み出そうとしているのかもしれない。
「つくづく、最低だ」
透は誰にともなく呟いた。
鈴音は不思議そうに小首を傾げたが、再び楽しそうに次のライブの計画を話し始めた。
雨音はまだ聞こえない。だが、事象の切断という目的のために、透は無意識のうちに鈴音という新たな生贄をこの因果律の戦場に引きずり込んでいた。




