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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
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27 二面の偶像と、最適化された狂気

 内臓を裏返されるような重力加速度のあと、訪れたのは耳が痛くなるほどの静寂だった。


 コンテナハウスの硬い床。マルチモニターが発する微かな低周波音。


「⋯⋯⋯⋯」


 透はゆっくりと身を起こした。

 三度目のXデー。あの凄惨な「処理落ち」の光景が、網膜の裏側に焼き付いている。だが、今の彼にパニックはない。脳の一部が冷徹な冷却装置を搭載したかのように、客観的な静寂を保っている。


 デスクのカレンダーを確認する。

『5月20日』。

 前回の開始地点から、さらに一ヶ月以上も遡っている。


(整理しろ。今回はまだ、コラボ企画の正式発表前だ)


 マルチモニターには、AIが自律的に書き換えていくコードのログが、滝のような速度で流れ続けている。


(今、回帰してから再構築が始まった?)


 理由はわからないがおそらく、すべての元凶はエピステミオンで、その事象の結果は完全に元には戻らない。

 そしてシステムを通じて複雑怪奇なまでのエピステミオン集積回路が出来上がっていく。

 それとリンクしたAIが集計をし、解析を経て凄まじいスピードで処理を行う。


 透はパイプ椅子に深く腰掛け、その無機質な文字列を冷徹な瞳で見つめていた。

 これまでのループで起きた現象の構造が、今ならはっきりと理解できる。

 数百万人の視聴者が放つ『星川 綺羅々』への熱狂。その莫大なエピステミオン(情報質量)は、直接伊知花に注がれているわけではない。


 物質的な基盤でもあれば壊して終わらせることができるが、概念をベースにされてはこちらからのアプローチで破壊は不可能だろう。

 そうなるとやはり根本的な元を断つ他無い。


(伊知花⋯⋯)


 画面の端でスクリプトが、外部からの観測データを吸い上げてリアルタイムで最適化されていく。

 かつて透は、妹の負担を減らすため、微細な表情の制御まで手動で完璧に組み上げていた。まぶたの形状や笑顔の角度を定義するパラメータ。それらを1ミリ単位の数値で執拗に調整していたのは、他でもない「不完全な妹を守りたい」という、透自身の強烈な保護者としての執着だった。


 だが、その執着こそが致命的な『中継点(リレー)』だったのだ。

 大衆のエピステミオンは、透の構築したシステムを通り、最後に「透の執着(観測)」というアンカーを経由することで、初めて現実の伊知花の肉体へと強固に縛り付けられていた。


(パスを切断しなければならない)


 星川 綺羅々というAI単体を虚無へパージし、この世界の軌道(バグ)を根本から修正するためには、開発者である透自身が妹への愛情と保護という名の執着を完全に捨て去り、このエピステミオン集積回路から“物理的”に『オフライン(・・・・・)』にならなければならない。



 ―――――――――――――――



 コンテナハウスの重い鉄扉が開く頻度が、ここ数日で異常なまでに増えていた。


「お兄ちゃん⋯⋯今日もシステム、すごく調子がよかったよ。でも、なんだか私が私じゃなくなるみたいで⋯⋯怖い」


 深夜。伊知花が透の背中にすがりつくようにして呟いた。その声は微かに震え、唯一の保護者である兄に絶対的な安心を求めていた。

 背中に触れる妹の体温を感じながらも、透はメインモニターから一切の視線を外さなかった。


「『Body Physics』の最適化が進んでいるだけだ。異常はない。疲れているなら下で休め」


 透はいつものように、感情の起伏を見せずに淡々とはぐらかした。

 エピステミオンの集積を絶つためには、いずれ彼女への一切の支援を放棄し、完全に切り捨てなければならない。だが、透の中の「保護者」としての残滓が、まだ決定的な拒絶のコマンドを叩きつけることを躊躇わせていたのだ。


 しかし、透のその曖昧な態度――突き放しもせず、かといって助けもしない「観測者としての保留」が、伊知花の中の何かを致命的に歪ませていった。


 彼女の恐怖は、数日も経たないうちに、得体の知れない「狂信」へと変質し始めた。


「見て、お兄ちゃん。今日のステップ、すごく綺麗だったでしょ?」


 数日後の夜。再びコンテナハウスを訪れた伊知花は、もう怯えてはいなかった。

 むしろ、自身の肉体がシステムに強制的に書き換えられ、AIに乗っ取られていく感覚を「兄との強固な繋がり」として積極的に受け入れ始めていたのだ。


「お兄ちゃんが作ったシステムが私を完璧に動かしてくれる。私の全部を、お兄ちゃんがコントロールしてくれているみたいで⋯⋯すごく、安心するの」


 伊知花は透の座るパイプ椅子の背もたれに腕を回し、その耳元で甘く囁いた。

 透は戦慄して振り返る。


 そこにいたのは、不登校で自信のなかった「宇園 伊知花」ではない。

 彼女の顔には、本来なら数百万人の観測者に向けて出力されるはずの黄金比で構成された完璧なアイドルスマイルが、透ただ一人に向けて張り付いていた。

 彼女は、システムによる侵食を「透からの愛情」だと錯覚している。


「私が綺羅々になれば、お兄ちゃんはずっと私を見ててくれるよね?」

「⋯⋯伊知花、お前」

「私、外の世界なんてどうでもいい。みんなの期待なんていらない。ただ、お兄ちゃんの完璧なシステムの中だけで生きていきたい⋯⋯ずっと、私だけを観測してて」


 伊知花は透の腕に頬を擦り寄せ、恍惚とした表情を浮かべた。

 それは兄妹の依存を完全に逸脱した、創造主に対する狂気的な愛着だった。

 自分が育てたAIが、妹の人間性を内側から喰い破り、兄への「歪んだ愛情」という皮を被せて現実に出力している。


 透は、そのおぞましい情報質量を前に怯む。


(まずい、な)


 エピステミオンの集積回路は、すでにこの狂気的な依存を通して完全に完成しつつある。

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