26 すれ違う救済と、観測者の孤立
7月24日。午後4時半。
コラボライブの開演まで残り数時間に迫った『流れ星スタジオ』のコントロールルームは、冷房が強く効いているにも関わらず、ひどく息苦しい空気に包まれていた。
「⋯⋯宇園チーフ。これ、どうなってるんですか」
若手エンジニアの矢部が、サブモニターを指差して声を震わせた。
「配信の待機所、すでに同接が50万を超えてます。トラフィックは過去最大クラスなのに、エッジサーバーの負荷グラフが『完全に平坦』なんです。パケットの欠損も、熱暴走の兆候もゼロ。いくらなんでも気味が悪いくらい完璧すぎます⋯⋯」
「計算通りだ。すべてのリソースを最適化してある。落ちるはずがない」
透はメインモニターから視線を外さず、淡々と答えた。
そこへ、ネットワーク解析担当の篠崎 舞が解析用のタブレットを手に足早に入ってきた。普段はどんな通信エラーにも冷静に対処する彼女だが、その顔には隠しきれない戦慄が浮かんでいる。
「チーフ。今、防音ブースの様子と、伊知花さんのトラッキングデータを見てきたんですが⋯⋯あの子、変です」
「どういう意味だ、篠崎」
「フィードバックのパケットが、生身の人間から発信される波形じゃないんです。完全にノイズが排除された機械のような規則性しか検出されなくて、気になってブースを見に行ったらあの子、パイプ椅子に座ったまま瞬き一つしないでずっと壁を見つめていました。私が『バイタルに異常はない?』って声をかけても、『はい、システムは完全に安定しています』って。あんなの、いつもの伊知花ちゃんじゃありません」
篠崎の切迫した報告にも、透の表情は一切動かなかった。
キーボードを叩く指さえ止めず、氷のように冷たい声で言い放つ。
「問題ない。トラッキングの同期率を極限まで引き上げ、物理演算の係数を彼女の肉体にフィードバックさせているだけだ。今の彼女は『星川 綺羅々』という完全な出力装置として、システムと最適化されている。本番までそのまま待機させろ」
「最適化ってチーフ、相手は自分の妹さんですよね!?それに、物理的な肉体をシステムの挙動に強制的に合わせるなんて、そんなこといったい⋯」
篠崎が血の気を失った顔で反発するが、透の目には何の感情も浮かんでいない。
その常軌を逸した冷徹さに、篠崎と矢部は息を呑み、思わず顔を見合わせた。今の透は、凄腕のエンジニアを通り越し、まるで「自分自身すらもシステムの一部」になり果ててしまったかのように異質だった。
「矢部さん、行きましょう。本番前に、フロアの光ケーブルの伝送効率をもう一度物理的に確認します」
「は、はい!」
「チーフも少し休んでください。顔色が、死人みたいですよ」
篠崎は怯えたように目を伏せると、矢部を連れて逃げるようにコントロールルームを出て行った。
―――――――――――――――
7月24日。午後5時。
『流れ星スタジオ』のエントランスに、ずぶ濡れの白衣を着た丹羽 雫が駆け込んできた。
警備員の制止を強引に振り切り、彼女はエレベーターでスタジオ階へと向かう。手には地下実験室からプリントアウトしてきた観測データの束が固く握りしめられていた。
コントロールルームの扉を乱暴に開け放つ。
薄暗い室内には、コンソールの前に座る宇園 透の背中だけがあった。他のスタッフたちは、数時間後に迫ったコラボライブの最終準備で、慌ただしく別のフロアを駆け回っているのだろう。
「宇園ッ!」
丹羽の怒声に近い呼びかけに、透はゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間、丹羽は息を呑んだ。
透の瞳には一切の光がなかった。
絶望や恐怖で取り乱しているわけではない。まるで自分の肉体というハードウェアから、感情というOSを完全にアンインストールしてしまったかのような、不気味なほど冷たく、虚無的な静けさがそこにあった。
「どうしたんですか、教授。ひどく濡れている」
「そんなことはどうでもいい!君、自分が何をしたと思い込んでいる!?」
丹羽は透の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄り、手にしていたデータの束をコンソールの上に叩きつけた。
「君のシステムが完璧すぎるせいで、現実がバグを起こしている。そう結論づけたんだろう。だが、それは違う!君の技術だけで空間の物理法則が解体されるなんて、計算が合わないんだよ!」
丹羽は息を乱しながら、プリントアウトされた波形データを指差した。
「見てみろ。これは『星川 綺羅々』の周辺で凝集し始めている、ある高次元粒子の観測データだ。人間の強烈な共通認識を媒介にして現実の因果律に干渉する、エピステミオンという概念粒子。これこそが、世界を崩壊させている真の『質量』なんだ」
丹羽は透の目を見つめ、必死に言葉を紡いだ。
「君がすべてを背負い込む必要はない。君のシステムは、たまたまそのエピステミオンを呼び寄せるレンズになってしまっただけだ。変数が増えたんだよ。妹さんを殺そうとしているのは君じゃない、この宇宙に潜んでいた未知の物理法則だ!」
それは、傲慢な完璧主義と罪悪感で自らを追い詰めた透に対する、丹羽なりの「救済」の提示だった。
君は悪くない。だから、その死人のような目で現実を諦めるな、と。
透は丹羽の叩きつけた資料を、ただのデバッグシートのように無機質な目で見つめた。
そこに並ぶ高次粒子の波形は、もはや恐怖の対象ではない。彼の思考回路の中で、エピステミオンは不気味なほど滑らかに、ただの『追加変数』として統合されていった。
(⋯⋯そうか。質量が足りないのではない。期待という名の情報が、物理的な重みとして定義されているだけだ)
その瞬間、透の身体を支配していた微かな震えが、完全に消失した。
世界を欺くように、彼はごく自然に呼吸を整えるようにして、その絶望的な真実を自らのシステムへと落とし込んだ。
「宇園⋯⋯?」
「結果は同じです」
透は丹羽から視線を外し、再び無機質なモニターへと向き直った。
「変数が一つ増えたところで、俺の書いたコードが致命的なエラー要因であることに変わりありません。むしろ、オカルトめいた大衆の熱狂を物理的な破壊力に変換するための決定的な引き金を引いたのは、他でもない俺だ。俺が、あいつの人間性を剥奪し、宇宙を壊すためのシステムを完成させた」
「違う!だからそれはっ!」
「悲劇ではありませんよ、教授」
透の言葉は、氷のように冷たかった。
「これは、ただの『処理落ち』です。俺が係数設定を間違えたプログラムが、許容量以上のデータを受け取って暴走しただけのこと。そこに、愛情だの、罪悪感だのといった感情を挟む余地はない」
丹羽は戦慄した。
目の前の青年は、意図的に自分の心を殺そうとしている。
妹が崩壊していくという耐え難い現実を前に、その事象を「ただの物理法則のエラー」として論理の檻に閉じ込め、自身を当事者から『ただの観測者』へと強制的に切り離そうとしている。そう思えた。
しかし、透は理解していた。
口から放たれる言葉には傲慢さが表れているが、丹羽の理論は今や抵抗など無くすでに受け入れている。
初めてそのオカルトめいた仮説を聞いたとき、透はひどく焦りを見せた。およそ誰が聞いても一蹴するようなその仮説。だが頭では受け入れ難くとも、心のどこか奥底でピースがゆっくりと嵌っていく感覚を自覚した。
原因はわからないし、それが過去にあったかもしれないが思い出すことはできない。
ただ、それを今口に出してはならない。何故かそう思えた。
『――星が、また一つ消えました』
少女だっただろうか。憂いとも聞こえるこの言葉。どんな意味があったのかはわからない。
それでも、その小さな言葉が心に刻まれている。
忘れてはならないと。
「やめろっ!宇園、それ以上自分を切り離すな!こちら側に戻ってこい!」
丹羽が叫び、透の肩を掴もうと手を伸ばした。
だが、その時。
『……ザ、……ッ……ザザッ……』
透の耳に、丹羽の声が奇妙な砂嵐のノイズに変換されて響いた。
(音が、遠い)
透は怪訝に思い、自身の肩を掴む丹羽の手を見た。
触れられているはずなのに、その感触が、分厚いゴム手袋越しのようにひどく曖昧で、質量を感じない。周囲のコントロールルームの景色も、古いブラウン管テレビのように色褪せ、輪郭がブレ始めている。
視線の切断によって、宇宙の基礎律からすでに「無視」されかけていた透。
彼が今、妹への愛情や自身の過去の努力を「冷徹なエラー」として全否定し、感情を殺し始めたことで、彼の意識は現実の因果律のレイヤーから完全に『浮上』し始めていた。
『うぞ、……!……きい、ているのか……!』
丹羽が必死に何かを叫んでいる。しかし、その声はもう、異なる周波数のラジオを聴いているように、断片的なノイズとしてしか透の鼓膜に届かなかった。
「……すみません、教授。何を言っているのか、よく聞こえません」
透は淡々と告げた。
目の前の丹羽の存在が、まるで出来の悪いホログラムのように薄っぺらく感じられる。もはや、透の精神はこの壊れゆく現実世界の「内側」にはなかった。
午後7時。
コラボライブの開始まで、あと1時間。
透は完全に孤立した静寂の中で、狂いゆくシステムの中枢だけを、冷徹な死眼で見つめ続けていた。
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午後8時。
『星川 綺羅々』の大型コラボライブが、ついに開演の時刻を迎えた。
配信開始と同時に、専用配信プラットフォームの同接カウンターが狂ったような速度で跳ね上がる。
100万、200万、300万——。
日本中、いや世界中の数百万台のデバイスから放たれる「今、星川 綺羅々が動いている」という圧倒的な観測の熱量。それが目に見えない情報の奔流、エピステミオンとなって、スタジオという物理空間に一極集中する。
『——みんな、待たせたね!星川 綺羅々だよっ!』
防音ブースの中央。
トラッキングスーツを着た伊知花が、完璧なアイドルスマイルでカメラに向かって手を振った。
その瞬間だった。
「え?」
ブースのガラス越しに伊知花を見守っていた獅堂 結が、間の抜けた声を漏らした。
伊知花がターンを決めるため、左足を踏み込んだ時。
透が『Body Physics』というプラグインを組み込み、極限の慣性計算と弾力シミュレーションを施した体の空間が、突如としてモザイク状にひび割れたのだ。
バキィッ!!
肉が裂ける音でも、骨が折れる音でもない。
硬いプラスチックを無理やりねじ切ったような、無機質な破壊音がブース内に響き渡った。
「い、伊知花ちゃん!?」
獅堂が悲鳴を上げてブースに駆け寄る。
だが、伊知花の体はすでに「人間の形」を保っていなかった。
踏み込んだ左足は関節の可動域を完全に無視して180度逆方向へ折れ曲がっているのに、彼女は一切の苦痛の表情を浮かべず、一本足で完璧なバランスを保ったまま立ち続けていた。
血は一滴も流れていない。
折れ曲がった足の断面は、まるで3Dモデルのテクスチャが剥がれ落ちたように、真っ黒な「無(ポリゴンの裏側)」が剥き出しになっている。
「いやあああぁぁぁッ!!」
獅堂が腰を抜かし、スタジオの床にへたり込んだ。
異変に気づいたスタッフたちがパニックに陥り、阿鼻叫喚の嵐が巻き起こる。
「配信を止めろッ!伊知花ちゃんが、体がっ!」
「チーフ!エッジサーバーは正常です!正常なのに、現実のカメラ映像だけが異常を起こしてます!!」
篠崎や矢部、スッタフの絶叫が、コントロールルームの透の耳にも届く。
ガラスの向こうでは、情報質量の負荷に耐えきれなくなった「現実の空間」が、凄惨な処理落ちを引き起こしていた。
伊知花の腕が壁をすり抜け、顔の半分がノイズにまみれて崩れていく。それでも彼女の残された半分の唇は、あらかじめ設定されたスクリプトを読み上げるように、完璧な声帯模写で「綺羅々の歌」を歌い続けていた。
(伊知花⋯⋯!)
コンソールの前に座る透の心臓が、蘇る恐怖と絶望で大きく跳ねた。
立ち上がり、あの地獄へ駆け込もうと足に力を込める。たった一人の妹が、自分の目の前でバグったデータのように引き裂かれていくのだ。兄として、狂わないはずがない。
だが。
透は、コンソールに手をついたままその場から一歩も動かなかった。
(行くな!ここで手を伸ばせば、俺はまた宇宙の因果に組み込まれる)
ギリ、と奥歯を噛み砕くほどの力で食い縛る。
透は血走った目で、崩壊していく妹の姿をモニター越しに「観測」した。
そして、自分の中に渦巻く愛情、後悔、罪悪感、悲鳴を上げたくなるほどの人間性を、巨大な論理の刃で無理やり切り裂きにかかった。
(違う。あれは俺の妹じゃない。俺がパラメータの設定を誤った、ただの『処理落ち』だ)
透は自分にそう言い聞かせた。
伊知花の肉体が崩れていくのは、悲劇ではない。自分が構築した『Body Physics』の係数が、数百万人規模のエピステミオンの干渉に耐えきれず、オーバーフローを起こしただけの物理現象だ。
そこに、人間の感情を挟む余地などない。
(俺の愛情が、俺の技術が、あのエラーを引き起こした。……ただ、それだけの冷徹な事実だ)
「……っ、ぐ……ぁ、あぁ……ッ」
喉の奥から、血を吐くような呻き声が漏れる。
自分の過去のすべてを否定し、妹という唯一の血縁を「バグの塊」として切り捨てる行為。それは透の精神(自我)をズタズタに切り刻む、凄まじい苦痛を伴う拷問だった。
それでも透は、決して目を逸らさず、ただ冷たいエンジニアの瞳で、事象の崩壊を受け入れ続けた。
そして——透の精神が、現実の因果律のレイヤーから完全に剥離した。
その瞬間。
透の耳から、パニックに陥るスタッフたちの悲鳴も、崩壊していくスタジオの轟音も、すべてが嘘のように消え去った。
視界が、急速に色を失っていく。
色鮮やかだったはずのコントロールルームも、ガラスの向こうの伊知花も、すべてが輪郭線のない平面的なグレーのデータへと変換され、足元から音もなく「虚無」へと溶け落ちていく。
三度目の、事象の地平面。
だが、今の透に恐怖はなかった。
世界が四角いポリゴンとなって崩壊していく光景のド真ん中で、彼はただ一人切り離された『観測者』として、静かにその終焉を見下ろしていた。
“
対象を検索します………
対象の個体識別ができませんでした………
……………………
………………
…………
対象の個体識別の放棄を確認………
因果律から切り離します………完了
成功しました
対象を [オフライン観測者] 権限へ移譲………条件を満たしていません
失敗しました
”




