25 完璧な出力と、恐怖を纏う観測者
7月23日。深夜。
大型コラボライブの前夜を迎えた『流れ星スタジオ』は、すべてのスタッフが帰宅し、空調の低い駆動音だけが支配する無機質な空間となっていた。
透はたった一人、薄暗いコントロールルームのコンソール前に座っていた。
メインモニターには、今日の昼間に行われた最終リハーサルの「防犯カメラの映像」と、システムが記録した「物理演算の生ログ」が、左右に並べて表示されている。
カタカタと震える指で映像のコマ送りを繰り返していた。
(間違いない。ただの偶然じゃない)
透が注視していたのは、伊知花が激しいステップから急停止する瞬間の足元の挙動だ。
星川 綺羅々のアバターに究極のリアリティを持たせるために組み込んだ『Body Physics』というUnisonエンジンを拡張する物理シミュレーション・プラグイン。
特に、人体細部の動作補正は現実の動きとリンクさせるために、透があらゆるパターンを気が遠くなる思いで組み上げたものだ。
透は防犯カメラに映る、現実の伊知花の脚の動きを限界まで拡大した。
急停止した際、彼女の太ももの肉が慣性でわずかに揺れ、そして収縮する。
その波形データと、『Body Physics』が算出したシミュレーションの波形データを重ね合わせる。
『完全一致』。
「間違いない」
透の口から確信の吐息が漏れた。
人間の肉体は、水分量やその日の疲労度、無意識の力みによって、動きに必ず不規則なノイズが生じる。計算式通りに肉が揺れることなど物理的に絶対にあり得ない。
だが、防犯カメラの中の伊知花は、透がコードに記述した「慣性」と「弾力」の係数と、寸分の狂いもなくまったく同じ揺れ方をしているのだ。
これはもはや、トラッキング(追従)ではない。
現実の物理法則が、デジタルの計算式に『支配』されている。
「異常な同期率、確実に侵食されている」
完璧な証明だった。
明日、星川 綺羅々のコラボライブには何百万という人間の視線が集中する。その莫大な「観測の熱量」は、宇宙という閉鎖系のエントロピーを限界まで飽和させる。
本来なら、その負荷に耐えきれず、システムはエラーを吐いてクラッシュするはずだった。
システムが現実よりも強固になってしまった結果、宇宙は情報処理の辻褄を合わせるためにシステムを壊すのではなく、「現実の宇園 伊知花」の方を透の書いたコード(ルール)に合わせて書き換えることを選んだのだ。
マグカップが床をすり抜けたのも、伊知花が汗をかかなくなったのも。
すべては、この現実世界が「宇園 透が作った物理エンジンの世界」へとダウングレードされている証拠だ。
(『Body Physics』が伊知花の体と完全にリンクしている)
誰かの陰謀でも、オカルト的な呪いでもない。
伊知花から人間としての不完全さ(生命)を奪い、空間の物理法則を解体している元凶は、他でもない自分自身。
「あぁ⋯⋯」
透はコンソールに突っ伏し、獣のような低い呻き声を漏らした。
伊知花を救いたかった。最高のステージを用意してやりたかった。
だがそのすべてが、妹を宇宙の特異点へと押し上げ、殺すための「最悪の兵器」を組み上げる行為だった。
「前回より前、過去のループでも、同じことをしたのか。俺は⋯」
前回より前の記憶が曖昧だ。それでも、こんなことが起きれば現実から逃げたくもなる。もし次、記憶が消えて巻き戻ったら、永遠にこのループを彷徨うことになるのかと思うと、絶望に支配されそうになる。
時計の針が、午前零時を回った。
7月24日。Xデー。
同接記録を更新するであろう、破滅のコラボライブが今夜に迫っている。
もはや、システムを止めても手遅れだ。何百万人という人間の「今日、星川 綺羅々のライブがある」という強烈な共通認識がすでに形成されている以上、エントロピーの奔流は止められない。
そして今夜、事象が絶対的な限界値を超えた時。
この「物理エンジン化」した脆い現実は、伊知花の肉体ごと完全に破綻し、虚無へと相転移するだろう。
「……」
透はゆっくりと顔を上げた。
自分は間違えた。
妹への愛も、技術への誇りも、すべてがエラー要因だった。
(なら、どうする?)
透は暗いモニターに映る自分の顔を見つめた。
逃げることはできない。システムで抗うこともできない。
それなら、恐怖、混乱、絶望をねじ伏せる他ない。
残された道はただ一つ。この「冷徹な物理現象」を、一切の感情を排して最後まで観測し、宇宙の理のさらに奥底へと降りていくことだけだ。
静寂に包まれたスタジオの裏側で、雨音が微かに聞こえている。
透はただ一人、運命の夜を待っていた。
―――――――――――――――
帝都理工大の地下層。
丹羽 雫の実験室では、壁一面に並べられた無数のモニターが、不気味な赤い警告光を淡々と瞬かせていた。
丹羽は冷めきったコーヒーを啜りながら、画面に表示された帝都全域の「局所重力波」と「量子揺らぎ」の観測グラフを、険しい目つきで睨みつけていた。
「冗談だろう」
丹羽の口から、彼女らしからぬ焦燥の混じった呟きが漏れる。
数日前、透がここを訪れた時、彼女は「人間の認識が空間を歪めるなど、机上の空論だ」と一蹴した。局所的なエントロピーの飽和など、恒星クラスの質量がなければ起こり得ない現象だと。
だが今、彼女の目の前にある観測データは、その「机上の空論」が現実のものになりつつあることを示していた。
震源地は、都心にある『流れ星スタジオ』。あの宇園 透がいる場所だ。あの一帯だけ、空間の物理法則を示す係数が、まるでブラックホールの事象の地平面に近づいているかのように、異常な速度で崩壊へ向かっている。
「宇園は自分が作ったシステムが完璧すぎるせいだと思い込んでいるようだが」
丹羽はキーボードを叩き、観測データと自身の計算式を照らし合わせた。
「計算が合わない。まったく辻褄が合わないんだよ」
丹羽は苛立たしげに髪を掻き毟った。
確かに、透の組み上げたシステムは常軌を逸した精度を持っているのだろう。そして、明日行われるバーチャルアイドル『星川 綺羅々』のライブには、数百万人の熱狂的な視線(観測)が集中する。
だが、それでも「足りない」のだ。
たかが数百万人の人間の感情や思い込みの質量程度で、現実の物理法則が書き換わるほどの急激なエントロピーの飽和が起きるはずがない。宇宙の基礎律は、そんなにヤワにできてはいない。透の技術や、大衆の熱狂だけでは、この巨大なバグを引き起こすための「エネルギー(変数)」が圧倒的に不足している。
「何かがある。宇園のシステムを『器』として利用し、人々の観測を媒介にして、現実の因果律に干渉している別の『何か』が」
丹羽は、サブモニターの一つに視線を移した。
そこには、異常の震源地である『星川 綺羅々』の録画映像が映し出されている。画面の中で、愛らしく完璧な笑顔を振りまく3Dのアバター。
丹羽はモニターに顔を近づけ、その映像を極限まで拡大した。
ピクセルが粗くなり、ただの色と光の集合体に還元されていく。
(なんだ、これは?)
丹羽の息が止まった。
映像のノイズの奥。星川 綺羅々という偶像を形作るデータ情報のさらに裏側に、微細な「空間の歪み」のようなものがへばりついているのを発見したのだ。
それはデジタル上のバグではない。モニターから放たれる光子に干渉し、丹羽の実験室の現実の空間すらも微かに歪ませている「質量を持った情報」の影だった。
「認識の素粒子」
丹羽の唇が、震えながらその単語を紡いだ。
「エピス、テミオン⋯⋯!」
情報素粒子――エピステミオン。
それは丹羽が過去に提唱し、学会からオカルトだと嘲笑され黙殺された、架空の素粒子の名前だった。
人間の「強い共通認識」や「概念」が、ある特殊な条件下で極限まで圧縮された時にのみ発生し、物理法則そのものを書き換える力を持つとされる、観測不可能な高次元情報粒子。
情報が質量となり得る原因そのものである。
それが今、画面の中の星川 綺羅々という偶像の周囲に、まるで磁石に砂鉄が群がるように、異常な密度で凝集し始めている。
「宇園、君はとんでもないものの『呼び水』を作ってしまったのか」
丹羽の背筋を、本能的な恐怖が駆け抜けた。
透のシステムは、世界を壊す原因そのものではない。宇宙の死角に潜んでいた『エピステミオン』という概念的素粒子を、この現実に受肉させるための「完璧すぎるレンズ」として機能してしまっているのだ。
そして、そのレンズの焦点が合うのは。
明日――いや、日付の変わった今日の夜、数百万人の視線が集中する『Xデー』。
出力データを握りしめると丹羽は白衣を翻し、地下室の出口へと駆け出した。
急がなければならない。あの傲慢な観測者(宇園 透)は、すべてを自分のせいだと思い込み、間違った絶望の中で「最悪の選択」をしてしまう。
雨音の響く地上へ向け、丹羽は駆け上がっていった。
この後から展開が加速します。




