24 特異点の変異と、日常を侵食するバグ
コラボライブが間近に迫った7月20日。
数日間、透はスタジオのコントロールルームから一歩も出ず、システムのログと睨み合い続けていた。だが、モニター上の数値はどこまでいっても「完璧」なままだ。エラーは一つも吐き出されていない。
異常が起きているのは、デジタル空間ではなく「こちら側(現実)」だった。
エントロピーの飽和は、スタジオという閉鎖空間の中で、徐々にその不気味な輪郭を物理的に視覚化し始めていた。
防音ブースの扉が開き、2時間の連続ダンスレッスンを終えた伊知花が出てきた。
透は無意識に、コンソールから身を乗り出して彼女を観察した。
「ふう、お疲れ様ー!今日の通しリハ、すごくいい感じだったね!」
伊知花は先輩の鈴音たちに明るく声をかけている。
しかし、誰が見てもその異常さは明白だった。
激しい有酸素運動を2時間も続ければ、どんなアスリートでも呼吸が荒くなり、大量の汗をかく。しかし、目の前にいる伊知花の額には汗一つ浮かんでおらず、胸の上下運動(呼吸)も極めて静かで一定だ。頬の赤らみすら、メイクのように固定されている。
人間の肉体には限界があり、疲労という「慣性」が必ず働く。
だが、3Dアバターには『スタミナ』という概念が存在しない。どれだけ動いても汗はかかず、息も切れない。透が構築したシステムにおいて、星川 綺羅々の状態は常に「初期値のまま一定」になるようプログラムされていた。
現実の伊知花が、その『初期値』に完全に上書きされている。
「宇園くん⋯⋯」
背後から、ひどく掠れた声がした。
振り返ると、獅堂 結が青ざめた顔で立っていた。彼女の手には、コーヒーの入ったマグカップが握られているが、その指先は小刻みに震えている。
「⋯⋯獅堂さん」
「私、もう限界かもしれない。ここ数日、あの子に触れるのが怖いの。あの子の筋肉、動くたびに『カチッ、カチッ』って、まるで歯車みたいな変な引っかかり方をするのよ」
それは、3Dモデルの骨組みと筋肉の追従の設定が甘い時に起きる、特有の挙動だ。透がシステム側で限界まで補正をかけた反動が、伊知花の肉体に「処理落ち」として現れているのだ。
「疲れているんですよ。獅堂さんも、伊知花も」
透は乾いた声で事実を誤魔化すように答えた。
「疲れてる?そうね、きっと私の頭がおかしくなったんだわ。だって」
獅堂が力なく笑った瞬間。
彼女の指から力が抜け、握られていたマグカップが床へと落下した。
ガチャン、という陶器が砕ける音を、透の耳は無意識に予期した。
だが、音は鳴らなかった。
透と獅堂は、同時に足元を見下ろした。
床にはマグカップの破片も、こぼれたコーヒーの染みも一切存在していなかった。
「⋯⋯え?」
獅堂が間抜けな声を漏らす。
透は息を呑んだ。
マグカップは割れるどころか、バウンドすらしていない。床に接触した瞬間、まるで水面に石を落としたように、固いフローリング材を『すり抜けて』下の階へと消失したのだ。
(クリッピング⋯⋯貫通バグだ)
透の脳内で、致命的なエラーコードが閃いた。
3D空間において、物体同士の衝突判定の計算処理が追いつかなくなった時、物体が壁や床をすり抜けて異次元へと落下してしまう、物理エンジンの典型的なバグ。
スタジオ一帯がシステムの空間を再現するかのように、ジリジリと侵食されている。
「宇園くん⋯⋯今、カップ⋯⋯どこに⋯⋯?」
獅堂が後ずさりしながら、ガチガチと歯の根を鳴らす。
透は答えることができず、ゆっくりとコントロールルームの中を見渡した。
一度その「綻び」に気づいてしまうと、この部屋の至る所に生じている異常が次々と目に飛び込んできた。
部屋の隅に置かれた観葉植物。正面から見れば普通の葉だが、ふと裏側に回り込んで見ると、葉脈も質感もない「のっぺりとした真っ黒な平面」になっていた。
壁に落ちているスタッフたちの影は、わずかだが光源の角度を完全に無視して足元に真ん丸な黒い円として貼り付いている。
(テクスチャの欠落、シャドウマップの計算エラー)
すべてが、透がシステム開発の中で嫌というほど直面し、そのたびにコードを書き直して修正してきた『3D空間特有のバグ』と完全に酷似していた。
透はコンソールに手をつき、絶望的な吐き気に耐えながら思考の海に沈んだ。
(前回は⋯⋯、どうだったんだ?)
目を逸らし、逃げ続けた前回。あの時もこうした現象は起きていたのだろうか。
少なくとも逃亡していた自分の周囲では、世界は形を保っているように見えた。だが、今回は自分が『観測者』として深く関わっている。それにも関わらず、起きているのは世界規模の崩壊ではなく、スタジオという局所的な異常に留まっている。
前回怯えて過ごしたあの圧倒的な「破滅の予感」とは、明らかに状況が異なっていた。
(いまだに要因がわからない。俺の介入が事象を食い止めているのか、それとも別の何かが働いているのか⋯⋯)
要因は不明だが、一つだけ確信していることがある。
このまま伊知花を見届け、崩壊のプロセスを記録し続けることで、何かが変わるかもしれない。
これが吉と出るか、あるいはさらなる最悪を招く凶と出るか⋯⋯それはわからない。
ふと、自分の姿がモニターに反射した。
かつては「妹に対して過保護すぎる」と自覚し、自分でも呆れるほど彼女を守ろうとしていたはずだ。
それなのに、今の自分はどうだ。
異変に怯える妹を、ただの観測対象のように冷徹な目で見つめている。
データを収集し、物理法則の相転移を観測するための便利なサンプルとして。
「⋯⋯つくづく最低な兄だな、俺は」
繰り返す世界で、自分という存在に変化が齎されていること気づいているのかいないのか、透は自嘲するように呟いた。
周りを見渡せば、まるで機械的な綻びが生じているかのうような異常な現象。
「俺の俺の書いたコードが世界を侵食してる⋯⋯か」
それは悪魔の証明だった。自分が伊知花のために良かれと思って組み上げたシステムこそが、この現実をバグらせ、妹から人間性を剥奪している「最悪の呪い」なのだと。
7月24日のXデーまで、あと数日。
完璧に作り上げられた物理エンジン(現実)の果てで、いよいよ決定的な破局が迫っていた。
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伊知花がスタジオを後にした深夜。
誰もいなくなったミーティングルームで、先輩タレントの泉 鈴音と青山 早苗は、チーフマネージャーでもあり現場総責任者ある風河の前に立ち尽くしていた。
「⋯⋯ライブの中止、ですか」
風河はタブレットから顔を上げ、冷ややかな視線を二人に向けた。
タブレットの画面には、先ほどまで行われていた通しリハの録画データが再生されている。そこに映っている『星川 綺羅々』のパフォーマンスは、過去のどのバーチャルアイドルも到達したことのない、まさに圧倒的で完璧なクオリティだった。
「理由を訊いても?」
「このままじゃ伊知花ちゃんが壊れてしまいます」
早苗がテーブルに両手をついて身を乗り出した。
「今日のあの子、明らかにおかしかった。あれだけ激しいステップを踏んでいるのに、息一つ乱れていないんです。まるで決められたレールの上を滑っているみたいで⋯⋯人間の動きじゃありませんでした」
「私も、早苗さんと同じ意見です」
鈴音も、青ざめた顔で同調した。
「伊知花ちゃん、休憩中もずっと壁の一点を見つめたまま、瞬きすらしていなかった。声をかけても返ってくるのは合成音声みたいな不自然に明るい声だけで⋯⋯見ていて背筋が寒くなりました。あの精神状態で大舞台に立たせるのは絶対に危険です」
二人の必死の訴えを、風河は感情の読めない無機質な瞳で静かに聞いていた。
やがて、彼女はタブレットの画面を指先で弾き、トラッキングデータのスコアを空間モニターに投影した。
「お二人の言いたいことは分かりました。ですが、この数値を見てください」
風河の指し示す先には、異常なまでに安定したグラフの波形があった。
「遅延はゼロ。モーションキャプチャーの同期率は、理論上の限界値である99.99%に張り付いています。宇園チーフの組み上げたシステムは完璧に機能しており、出力されている『星川 綺羅々』の映像に破綻は一切ありません。スポンサーも、待機している何百万人のファンも、この『完璧な星川 綺羅々』を求めているんです」
「画面の中の話をしているんじゃありません!現実のあの子の肉体が異常だって言ってるんです!」
早苗が声を荒らげた。
だが、風河は動じなかった。合理主義者である彼女にとって、重要なのは「出力される結果」だ。
心身に異常があれば必ず結果にも反映される。しかし伊知花にはそれがない。つまりコンディションも問題がないと判断する。
完璧な仕上がりに故に中止にする理由など風河には微塵もなかった。
「極度の緊張と集中状態が引き起こす、一種のトランス現象でしょう。彼女もプレッシャーを感じているはずです」
風河は手元の資料をまとめ、立ち上がった。
「本番は24日です。ライブの中止など、企業として絶対にあり得ない。お二人は先輩として、彼女が当日に疲れを残さないよう、メンタル面のフォローと指導に専念してください」
それだけを言い残し風河は足早にミーティングルームを出て行った。
重い扉が閉まる音が部屋に冷たく響く。
取り残された早苗と鈴音の間に重苦しい沈黙が落ちた。
「⋯⋯フォローと指導、だって」
早苗が、自嘲するように乾いた笑いを漏らした。
「あんな状態の伊知花ちゃんにどうやって触れろって言うのよ」
鈴音は自身の両腕を抱え込みガタガタと震え始めていた。
「早苗さん⋯⋯私、見ちゃったんです」
「⋯何を?」
鈴音が、怯えた子羊のように早苗を見上げた。その瞳には、はっきりとした恐怖の涙が浮かんでいる。
「リハの最中、伊知花ちゃんの足元。一瞬だけ床を貫通して、足首から下が消えていたんです。それに⋯⋯伊知花ちゃんの影が、途中で『四角く』バグみたいに欠けたように見えて⋯⋯」
早苗の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
自分だけではなかったのだ。鈴音もまた、このスタジオという閉鎖空間で起き始めている「物理法則の綻び」を視覚として認識してしまっていた。
「あの子、もう伊知花ちゃんじゃない気がする⋯⋯」
鈴音が震える声で絞り出した。
「何かが、伊知花ちゃんの皮を被って私たちを見下ろしているみたいで⋯⋯怖いよ、早苗さん」
早苗は鈴音の肩を強く抱き寄せた。
だが、早苗自身の手も酷く冷え切っていた。
完璧すぎるシステムの向こう側から、巨大で得体の知れない情報質量が、確実にこの現実を侵食してきている。
伊知花の肉体という「器」を使って、人間ではない何かが受肉しようとしている不気味な気配。
誰も止めることができないまま、一刻とXデーに近づく。




