23 交差する想定と、完璧すぎるシンクロ
7月中旬に差し掛かる頃。
コラボライブまで残り十日を切った『流れ星スタジオ』は、静かな熱気に包まれていた。
透はコントロールルームのコンソールに張り付き、連日連夜、システムの微調整に明け暮れていた。丹羽教授の地下室で感じたあの「得体の知れない恐怖」は、絶え間なく続くキーボードの打鍵音と、モニターに映る完璧な数値の羅列によって、意識の底へと完全に封じ込められていた。
「宇園くん、ちょっといいかしら」
不意に背後から声をかけられ、透はモニターから視線を外した。
そこに立っていたのは、スタジオ専属の振付師である獅堂 結だった。彼女はタレントのフィジカルトレーニングも兼任しており、人間の骨格や筋肉の限界を誰よりも熟知しているプロフェッショナルだ。
「どうしました?獅堂さん。モーションの取り込みに何か問題でも?」
「問題というか。ちょっと気味が悪いのよ」
獅堂は腕を組み、防音ガラスの向こう側――トラッキングスーツを着てステップの練習をしている伊知花を、ひどく強張った顔で見つめた。
「気味が悪い?」
「あの子、元々そんなに運動神経が良い方じゃないでしょう。特にターンの時、どうしても左足の踏み込みが甘くて、重心が外側にブレる癖があったの。私が何度指導しても治らなかったわ」
透はガラスの向こうの妹を見た。
伊知花は今、コラボライブ用の激しい振り付けを、軽やかなステップでこなしている。
「ブレては⋯⋯いないようですが」
「そう。ブレていないのよ。それも激しい運動をしているはずなのに、心拍数や呼吸の乱れさえ、あらかじめ決められたメトロノームみたいに規則正しすぎる。動きが完璧なんて次元じゃない。1ミリの揺らぎもなく軸が固定されている。ねえ、あの子本当に『自分で』動いているの?」
獅堂の声が微かに震えていた。
彼女は自分のタブレットを操作し、先ほどの伊知花のターンの映像をスロー再生して透に見せた。
「人間の身体って、どれだけ訓練しても筋肉の疲労やその日の湿度、靴の摩擦係数なんかで必ずコンマ数ミリの『揺らぎ』が生じるの。それが生き物の自然な動きよ。でも、今の伊知花ちゃんを見て。まるで機械かCGみたいに寸分の狂いもない完璧な軌道をなぞってる」
透はタブレットの映像と、メインモニターに映し出されている『星川 綺羅々』の3Dアバターの挙動を見比べた。
(少し前までは『動きとして完璧』と言えるレベルの調整だったがこれは⋯⋯)
アバターの挙動を完璧に安定させるため、透はシステムに|物理補正プラグイン《Body Physics》を組み込んでいる。現実の伊知花が多少ブレたとしても、出力される『星川 綺羅々』の映像は、常に理想的な重心と軌道を保つように計算式を組んである。
「トラッキングの⋯⋯補正が上手くいっている証拠ですよ」
透は努めて冷静に事務的な声で答えた。
「スーツのセンサーから得たデータを、システム側で『理想的な動き』に丸めて出力しているんです。だから完璧に見える」
「出力されているアバターの話をしているんじゃないわよ」
獅堂は透を鋭く睨みつけ、そして怯えたように声を落とした。
「私が言っているのは、“現実の伊知花ちゃん”の肉体の話。画面の中のアバターに合わせて、現実の彼女の骨格や筋肉の動きが強制的に引っ張られている。⋯⋯あの子、たまにまばたきを忘れているわ。まるで何かに取り憑かれたみたいに」
透の心臓がドクンと冷たく脈打った。
無意識に痛まないはずの左腕を強く握りしめる。
ガラスの向こうで、伊知花がこちらに気づいて満面の笑みで手を振っている。
それは普段の伊知花が見せるような、兄への依存や不安が混じった弱々しい笑顔ではなかった。
かつて透が『星川 綺羅々』の3Dモデルを設計した際、最も美しく見える黄金比と、完全な左右対称で構成した「理想の笑顔」の角度。
伊知花の顔面の筋肉は、その数値データと小数点の果てまで狂いなく一致した形状に固定されていた。
感情の温度がない、ただ完璧な「出力結果」としての笑顔。
(まさか⋯⋯)
透はコンソールのログデータを慌てて開き、伊知花のトラッキングスーツから送られてくる生データを確認した。
そこには、システムによる「補正」など一切かかっていない、伊知花の肉体そのものの挙動数値が記録されている。
そしてその数値には、本来なら混じるはずの「バイオメトリクス・ノイズ」が皆無だった。
つまり生きている人間なら筋肉や神経によって微細な動きがあるため必ずズレが生じる。それが無いのだ。
原因(肉体)があって、結果が動くのではない。
AIが導き出した『理想の星川 綺羅々』という情報質量が、『Body Physics』という物理的な糸を通して、宇園 伊知花の物理構造を内側から書き換え、乗っ取っている。
「宇園くん?どうしたの、顔色が悪いわよ」
「⋯⋯いえ、なんでもありません。少し確認したいことができました」
透は獅堂から逃げるように視線を逸らし、震える指でキーボードを叩き始めた。
全身から嫌な汗が止まらない。
システムは完璧だ。完璧すぎて、現実が「最適化」という名の暴力に曝されている。
透は自分がいかに恐ろしいパンドラの箱の蓋をこじ開けてしまったのかを、今度こそ論理的に理解し始めていた。
―――――――――――――――
夜、マンションの302号室。
透がリビングの扉を静かに開けると、そこには照明もつけず、月光とモニターの青白い残光に照らされた伊知花の姿があった。
しかし、そこにいたのは透の知る「だらしのない妹」ではなかった。
伊知花はソファの前の床に正座し、手鏡を凝視したまま、自らの顔を指で弄っている。
「⋯⋯次は、左の口角を二ミリ上げる。この角度が、最も好感度が高いと計算されているから」
その声には一切の感情の起伏がなかった。
それは喉を震わせて出す生身の音ではなく、あらかじめ録音されたサンプルを最適化して再生しているかのような、無機質な『星川 綺羅々』のトーンだった。
伊知花は瞬きをしない。
鏡に映る自分の顔を、まるで出来の悪い3Dモデルを検品するかのような冷徹な眼差しで見つめている。
不意に、彼女の右腕が生物学的な反射や予備動作を完全に無視して、鋭く跳ね上がった。
『Body Physics』が、AIの算出した「アイドルらしい愛嬌のある仕草」を現実の座標に強制出力したのだ。
ガクンと、骨が軋む嫌な音が静かなリビングに響く。
だが、伊知花は痛みを感じている様子さえなかった。彼女は自らの意思に関係なく動かされた腕を当然の挙動として受け入れ、そのまま流れるように完璧なアイドルポーズを維持している。
「⋯⋯プロデューサーさん、見てる?綺羅々、もっと完璧になれるよ。みんなが望む理想の形に」
伊知花は、誰もいない空間に向かって、黄金比に基づいた完璧な笑顔を振り撒く。
その瞳は焦点が合っておらず、何百万という不可視の視線の海に、自らの魂を差し出しているようだった。
透は廊下の影からその様子を、肺の空気をすべて吐き出したような絶望感の中で見つめていた。
扉の隙間から漏れる青白い光が、妹の輪郭を縁取っている。
しかしその輪郭は時折、古いビデオテープのように激しくブレてはノイズを伴って再構成されていた。
(⋯⋯あれは、もう伊知花じゃない)
自分の書いたコードが、妹の精神を内側から食い破り、皮を裏返すようにして偶像を「受肉」させている。
『Body Physics』という名の外骨格が、彼女の自由を奪い、世界中の観測者が望む「星川 綺羅々」という記号へと強制的に鋳造し直しているのだ。
伊知花のジャージの袖から覗く手首が、あり得ない角度に捻じれ、瞬時に「正しい位置」へと補正される。
その狂気的な光景を前に、透は膝が震えるのを止められなかった。
エンジニアとしての冷徹な視覚は、彼女の周囲の空間が何百万人の『期待』という名の重力に押し潰され、物理法則そのものが悲鳴を上げているのを捉えていた。
透は、自分が「保護」という名目で行った最適化が、取り返しのつかない存在論的崩壊の引き金を引いてしまったことを、影の中で静かに、そして痛烈に理解した。




