22 雨の匂いと、忘却のデジャヴ
地下研究所を後にし、エレベーターで地上へ戻ると、空気がわずかに軽くなっていた。
数週間にわたって帝都を覆っていた梅雨の分厚い雲に、ほんのわずかな切れ間ができている。そこから差し込む淡い陽射しが、雨に濡れたキャンパスの中庭を乱反射して白く光らせていた。
透は歩みを止め、中庭の隅にある木製のベンチに腰を下ろした。
丹羽教授の「ただの思考実験だ」という言葉が、強張っていた神経を少しずつ解きほぐしていく。冷たい雨の匂いと一緒に深く息を吐き出し、透はぼんやりと自分の足元を見つめた。
その時だった。
「ん?」
透は、ふと自分の『隣』に違和感を覚えた。
小降りになったとはいえ、まだ雨粒は落ちてきている。なのに、透が座っているベンチの右半分だけが、不自然なほど完全に乾いているのだ。
目を凝らすと、さらに奇妙な物理現象が起きていた。
上空から落ちてくる雨粒が、ベンチに到達する数十センチ手前の空中で、見えない『曲面』に当たって弾け飛んでいる。
まるで、透の隣に誰かが座って、透明な傘を差しているかのように。
(なんだ、これは)
空間のバグではない。重力の異常でもない。
ただ、そこに「いるはずの誰か」の輪郭だけが、雨という物理現象を通して世界に浮かび上がっている。
『――星が、また一つ消えました』
不意に、脳の最深部をノックするように、ひどく薄くて静かな声が響いた。
囁く声。雨の匂い。
記憶の底のさらに下、欠落したデータファイルの奥底から『少女』の残像が浮かび上がりそうになる。
透は無意識のうちに、その見えない曲面に向かってゆっくりと右手を伸ばしかけた。
誰だ?
なぜ俺はこの気配を知っている?
「おーい!透!」
その刹那、無遠慮で大きな声が繊細な静寂を粉々に打ち砕いた。
「ッ……!」
透は弾かれたように顔を上げ、声のした方へ振り向いた。
水たまりを避けながら大介がこちらへ向かって小走りで近づいてくる。
「何一人で黄昏てんだよ。雨上がってよかったな」
「大介⋯⋯」
桐谷 大介。透と同じ帝都理工大に通う同級生だ。気難しい透が気を許す数少ない友人だった。
大介の屈託のない笑顔を見た瞬間、透の脳内に浮かびかけていた気配の残像は、ブツンと電源を切られたように完全に消失した。
ハッとして隣の空間に視線を戻す。
そこにはもう見えない傘の曲面はなく、ベンチの右半分は、何事もなかったかのように雨に濡れた色に変わっていた。
「どうした?なんか落としたか?」
「いや、なんでもない。ちょっと、考え事をしてただけだ」
透は伸ばしかけていた右手を誤魔化すようにポケットに突っ込んだ。
気のせいだ。疲れているだけだ。
目の前にいる大介の、圧倒的な「現実」としての質量が、透の感覚を強引に日常のレイヤーへと引き戻していく。
「考え事って、またあの仕事のシステムのことか?お前も大概ワーカホリックだな」
大介は呆れたように笑い、透の肩を軽く叩いた。
「飯まだだろ?佐久間に学食の席取らせてんだ。たまには付き合えよ」
「ああ。わかった」
透はベンチから立ち上がり、大介の背中を追った。
見えない何かの気配は、もう完全に消え去っていた。
―――――――――――――――
帝都理工大の学生食堂。
昼時を過ぎたにも関わらず、熱気と喧騒が充満するいつもの空間。
窓際のテーブル席に近づくと、工学部の同級生である佐久間が、スマートフォンを横向きに構えて画面を食い入るように見つめていた。
「おっ、遅えぞ二人とも!早く座れって!」
佐久間は透と大介の顔を見るなり、興奮した様子でスマートフォンの画面をテーブルの中央に突き出した。
「見ろよこれ!今度の24日の夜にやる『星川 綺羅々』の大型コラボ、告知の段階でもう待機所の人数がとんでもないことになってる!オカルト板じゃ、もうちょっとした騒ぎだぞ!」
佐久間は興奮した様子でスマートフォンの画面をテーブルの中央に突き出した。
大介はトレイに乗せたカツカレーを置きながら、興味なさそうにため息をついた。
「ただの絵が動いてるだけだろ?何がそんなにヤバいんだよ」
「ただの絵じゃねえよ!これだけの生きた人間の『視線』と『熱狂』が、一つの架空の存在に集中するんだぜ!?界隈じゃ一種の超大規模な『降霊術』とか、集団無意識が生み出す『タルパ(人工思念体)』の生成儀式だって噂されてる。何百万人もの信仰を集めた偶像が、本物の怪異に成るかもしれないんだ!なぁ、宇園もそう思うだろ!?」
同意を求められ、透は自分の席に座りながら佐久間と大介の顔を交互に見た。
佐久間 蓮。同じ工学部の学生でありながら、重度のオカルト・都市伝説マニアだ。最新のデジタルテクノロジーやネット上の事象を、常に「呪い」や「魔術」といった非科学的なフィルターを通して楽しんでいる。
普段の透であれば「非論理的だ」と鼻で笑って一蹴する相手だ。だが、皮肉にも今の佐久間が興奮気味に語る『集団無意識が偶像を怪異にする』というオカルト論は、先ほど丹羽教授が語った『情報質量によるエントロピーの飽和』という冷徹な物理学の仮説と、ひどく不気味な一致を見せていた。
佐久間の熱弁。
大介の呆れ顔。
カツカレーの匂いと、雨上がりの湿気。
その光景を見た瞬間、一瞬息を忘れるほど強烈な既視感が走った。
(これだ)
思い出した。
すべてが「あの夏」の始まりと同じだ。
一周目の記憶は靄がかかっているが、この学食での何気ない会話だけは、恐ろしいほどの精度で記憶と一致していた。あの時も佐久間はこうして星川 綺羅々の熱狂を語り、大介はカツカレーを食べていた。
そして、あの時の自分は――。
「ああ。あれは、完璧なシステムだ」
自分に言い聞かせるためか、皮肉にも透の口からあの時ととまったく同じ傲慢なエンジニアとしてのセリフがこぼれ落ちていた。
「どんなにトラフィックが集中しても、俺が構築したインフラと物理演算の補正があれば、あの偶像は絶対に破綻しない。最高のライブになるはずだ」
「やべぇ!絶対とんでもねぇことが起きるって!」
佐久間は嬉しそうに笑い、再びスマートフォンの画面に視線を戻した。
雨上がりの日差しが食堂の窓から差し込んでいる。
破滅のXデーとなる7月24日まで、あと2週間強。
時計の針は、再び最悪の結末に向けて正確なリズムで時を刻み始めていた。




