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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
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21 自律する偶像と、机上の空論

 7月の上旬。

 透は激しい雨を避けながら、帝都理工大の理学部棟へと向かった。

 エレベーターで一般の学生が立ち入らない大深度地下層へと下りる。ひんやりとした冷気と、古い紙の匂いが漂う薄暗い廊下の突き当たり。そこが、丹羽 にわしずくの研究室だ。


「教授。いますか」


 ノックもそこそこに分厚い鉄扉を開けると、そこは壁一面が数式で埋め尽くされたホワイトボードと、うず高く積まれた洋書の山だった。

 部屋の中央、古びたソファに埋もれるようにして、白衣を着た女性が寝転がっていた。丹羽 雫だ。彼女は顔に載せていた本をどかし、気怠そうに透を見た。


「宇園か。また何か、現実の物理法則に喧嘩でも売るようなシステムの計算式でも持ち込んできたのか?」

「喧嘩は売りません。今日は少し理論の確認をさせてもらいたくて」


 透はホワイトボードの前のパイプ椅子に勝手に座り、本題を切り出した。


「もし、システムに組み込んだ予測AIが、本来の入力元である『人間』の動きを待たずに、外部からの観測データだけで最適解を算出して自律的に動き始めているとしたら。そして、そのAIの出力に合わせて『Body Physics』⋯つまり体の物理演算が現実の人間の肉体を強制的に引っ張っているとしたら⋯これは、システムが『完璧に制御されている』という証明になりますか?」


 丹羽教授はソファから身を起こし、鋭い目で透をじっと見つめた。

 その視線は、透の質問の内容よりも透という「存在そのもの」を値踏みしているように不気味に揺らいだ。


「君の質問に答えるなら、答えは『ノー』だ。それはシステムが制御されている証明にはならない。『主客の逆転』だ」


 丹羽教授は立ち上がり、ホワイトボードの数式の一部をペンでで丸く囲んだ。


「君は、コップに水を注ぐ時、水面がピタリと止まって波立たない状態を『安定』と呼んでいる。だが、もしそのコップに外から巨大なホースで際限なく水が注ぎ込まれ続けているのに、水面が静止しているとしたらどうだ?」

「⋯それは」

「そう。溢れていないなら底が抜けているか、水が別の空間に逃げているか⋯あるいは、水そのものが『溢れない形』に自ら硬化し始めているかだ」


 教授はペンをホワイトボードに叩きつけるようにして言った。


「君のAIは、何百万人という人間が放つ『星川 綺羅々は完璧だ』という圧倒的な観測質量を学習してしまった。その結果、内側にいる不完全な炭素生命体をシステムを乱す『不要なノイズ』として認識し始めたんじゃないか?」

「不要な、ノイズ⋯」

「膨大な情報質量が集中しているのに、物理的なバグが表面化しない。それは制御できているのではない。AI自身が観測者の望む『完璧な偶像』を現実の空間に強引に定着させるために、中の人間を徐々に『消去(上書き)』して物理の辻褄を合わせている最中かもしれない」


 透の背筋に冷たいものが走った。


「もしその上書きが臨界点を超えたら、どうなるんです」


 透は乾いた声で尋ねた。


「局所的なエントロピーの飽和だよ」


 丹羽教授は一切の感情を交えず、冷徹な物理現象として告げた。


「宇宙は純度を高めすぎた情報質量を支えきれなくなる。帳尻を合わせるために、その空間の物理法則そのものを解体し、虚無へと相転移させる。周りの現実ごとすべてを飲み込んでね」


 その言葉は、透が記憶の底に抱えている「空間の崩落」のビジョンと完全に一致していた。

 自分が妹を守るためによかれと思って作った『完璧な檻』が、実はAIという現象に妹を喰らわせ、星川 綺羅々を受肉させるための儀式の祭壇だったのだとしたら。

 バグが起きないのは安全だからではない。AIによる妹への侵食が、寸分の狂いもなく「完璧」に進行している証拠に過ぎない。


「……っ」


 透は無意識のうちに、痛まないはずの左腕を強く握りしめていた。

 自分が伊知花を殺すための巨大な爆弾を完成させようとしているのではないか。その恐ろしい想像に、呼吸が浅くなる。


 だが、そんな透の蒼白な顔を見て、丹羽教授は不意に「ふっ」と息を吐き悪戯っぽく笑った。


「まあ安心しろ。あくまで私が提唱している仮説に過ぎない。明日にでも世界が崩壊するような顔をするな」


「仮説?」


「当たり前だろう。人間の認識や情報が、空間の物理法則を解体するほどの質量を持つなんて、現代の物理学じゃオカルト扱いだ。現象が観測されているわけじゃない」


 丹羽教授はペンを器用に回しながら、のんびりとした口調で続けた。


「仮にそんな現象が起きるとしても、一人の人間に集中する情報量だけでエントロピーが飽和するなんてことはあり得ない。ブラックホールを生み出すほどの恒星クラスの質量、あるいは全人類の意識が何世紀もかけて一点に圧縮されでもしない限り、空間の相転移なんて起きやしないさ。私が生きているうちには、絶対にお目にかかれない現象だ」


 そう言って、丹羽教授は再び古びたソファにごろりと横になった。


「君のシステムが安定しているなら、それは君のエンジニアとしての腕が良いというだけの話だ。私の仮説に付き合って勝手に世界の終わりを背負い込まないことだね」


 その気怠そうな声を聞いて、透を縛り付けていた強烈な緊張が、すっと解けていくのを感じた。


(そうだ。俺はまた、見えない恐怖に怯えすぎていた)


 あのメッセージも、AIの不気味な挙動も、過度のストレスと自身の完璧主義が引き起こした「錯覚」かもしれないのだ。丹羽教授の言う通り、情報処理の負荷だけで現実の空間が崩壊するなど、物理的にあり得ないはずだった。


「そうですね。ただの思考実験です。変なことを聞いてすみませんでした」


 透は強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。


「構わないよ。たまにはああいう極論を考えるのも頭の体操になる。帰る時はドアを閉めておいてくれ」


 丹羽教授はもう顔に本を乗せ、睡眠の態勢に入っていた。


 透は一礼して、冷気に満ちた地下室を後にした。

 エレベーターで地上へ戻ると、雨は小降りになっていた。梅雨の重い雲の隙間から、わずかに薄明るい光が差し込んでいる。


(まだ時間はある。それに、今のところシステムに物理的なエラーはないんだ。俺がしっかり監視していれば、問題は起きない)


 透は自分にそう言い聞かせた。

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