20 深層の暗躍と、主客の逆転
「俺は⋯⋯巻き戻っているのか」
激しい雨音がコンテナハウスの鉄の屋根を叩き続けている。
『6月25日』。
呼吸は整っている。だが、脳の内側が、ひどく熱を持っていた。
透は立ち上がり、ホワイトボードに向かってマーカーを握った。夢と現実の境界が曖昧になりつつある今、辛うじて把握できている「世界の断片」を書き留めておかなければ、自分という存在が雨に溶けて消えてしまいそうだった。
(整理しろ。何が起きている?)
ホワイトボードの左端に、彼は大きく『1』と書いた。
それは、彼が最初に経験したはずの「あの夏」だ。だが、マーカーを持つ手はそこで止まった。
(思い出せない)
驚くほど何も出てこない。
星川 綺羅々のライブがあったこと、そして最悪の結末を迎えたこと。その「結果」に対する身を切るような敗北感と、心臓を握りつぶされるような絶望の残響だけが、どす黒い澱のように胸の底に溜まっている。自分が何をして、どう抗ったのか。具体的な光景は過露光を起こした写真のように白く飛び、ノイズに塗りつぶされていた。
「⋯ッ」
透はボードに『1周目:詳細は不明。猛烈に何かを拒絶された感覚』とだけ記した。
次に、その隣に『2』と書く。
こちらは、今しがた「終わった」ばかりの記憶だ。
(こっちは、ある程度残っている)
7月上旬に目覚め、すべてから目を逸らした日々。
コンテナハウスのメインモニターに布を被せたこと。SNSを消去したこと。そして7月24日、何もしなかったはずなのに、部屋ごと四角い破片になって崩れ去っていったあの光景。
もちろん完璧な記憶ではない。桐谷 大介とどんな会話をしたか、自分がどんな服を着ていたかといった細部は、指の間からこぼれ落ちる砂のように曖昧だ。
だが、自分が「何をして、どう世界が壊れたか」という因果の輪郭だけは、1周目とは比べ物にならないほど明確に保たれていた。
そして、最大の謎。
1周目の後、彼が目覚めたのは確かに『7月』だった。
だが、2周目が終わった今、彼はさらに遡って『6月』に立っている。
「遡る時間が、延びている」
透はホワイトボードを睨みつけた。
壊れたビデオテープを巻き戻すように、世界が崩壊するたびに、その因果の逆行は距離を伸ばしている。そして同時に、自分の意識や記憶も比較的状態を保ったまま過去へと持ち越されている。
(だが、何故だ?)
透は眉をひそめ、ホワイトボードの『2』の項目を指でなぞった。
2周目の自分は、なぜ星川 綺羅々から、そしてあの完璧に組み上げた配信システムから、完全に「目を逸らした」のか。
その逃避と思われる行動が、記憶を保ったまま過去へ遡るという結果を引き起こした。だが、そもそもあの時の自分が、部屋に引きこもってすべてを放棄するに至った「原因」は何だったのか。
(左腕がひどく痛んだ。吐き気がした。だから見ないようにした?いや、それだけじゃないはずだ)
エンジニアとしての自分が、手塩にかけたインフラを直前で放り出すなど本来ならあり得ない。あの時の自分は星川 綺羅々の「何」を直視して、そこまで決定的な恐怖を抱き逃げ出したのか。
それを確かめない限りこの狂った因果律の正体は掴めない。
透はマーカーを置きコンテナハウスを後にした。
向かう先は、惨劇の震源地であり自分が目を逸らした元凶――『流れ星スタジオ』だ。
帝都のビル群は、厚い雨雲の下で灰色に沈んでいた。
『流れ星スタジオ』のコントロールルームの扉を開けると、そこにはいつも通りの、見慣れた日常があった。
「あれ、チーフ。今日は調整で籠るって言ってませんでした?」
サーバー担当の矢部がコーヒーの入った紙コップを片手に振り返った。
「⋯少しシステムの挙動を確認しておきたくてな」
透は短く答え、矢部の隣――メインコンソールの前に立った。
分厚い防音ガラスの向こう側では、トラッキングスーツを着た伊知花が、スタッフの指示に合わせて関節の稼働テストを行っている。
モニターには、彼女の動きと完全に連動する『星川 綺羅々』の3Dモデルが映し出されていた。
透は息を詰め、その画面を凝視した。
(何がおかしい?俺は前回、この偶像の何に怯えた?)
瞬きの速度、髪の揺れ、筋肉の収縮をシミュレートする物理演算の挙動。
透の目は、無意識のうちに画面内の「不完全な点」を探し始めていた。
「どうかしましたか?」
「いや。少しラグがあるな」
透の口から、自然とその言葉が漏れていた。
右腕を振り下ろすモーションの際、現実の伊知花の肉体と画面内のアバターの挙動の間に、コンマ数ミリ秒の「遅延」と、物理法則の「ズレ」が生じている。一般人には絶対に知覚できないレベルの、極めて微小なノイズ。
「え?そうですか?いつも通り完璧に見えますけど」
「関節のねじれに対する、エントロピーの処理が甘い。空間の整合性がとれていない」
透は矢部を退かし、自らコンソールのキーボードに指を置いた。
自分がなぜ逃げたのかを観察しに来たはずだった。しかし、目の前にある「不完全なシステム」を見た瞬間、透の脳内で彼本来のエンジニアとしてのエゴと完璧主義が、警鐘を鳴らすように暴れ始めた。
(この微小なズレを放置すれば、100万人の視線が集まった時に破綻する。だから、俺は無意識に恐れたんじゃないのか?)
透は猛然とキーを叩き始めた。
物理演算のパラメータを再定義し、トラッキングデータの補正値を力技で書き換えていく。モニターの中の『星川 綺羅々』が、より滑らかに、より完璧な「実在」へと近づいていく。
「さ、さすがチーフ!動きが全然違いますよ」
背後で矢部が感嘆の声を漏らす。ブースの中の伊知花も、「お兄ちゃんが来てくれたの!?」と声は出さずとも表情から嬉しそうに視線を向ける。
その顔を見ながら、透はモニターの光に没頭する。
自分がシステムを完璧に制御し、綻びを修復すれば、あの不気味な空間の崩壊など起きないはずだ。
「……っ?」
不意に、デスクに置いた透のスマートフォンが短く震えた。
画面を点灯させると、メッセージアプリの通知が表示されている。送信者は――『伊知花』。
すぐ目の前の防音ブース、ガラスの向こう側に伊知花は立っている。彼女はトラッキングスーツを着込み、テスト配信の待機状態のまま先程の笑顔は消え、微動だにせず正面のカメラを見つめていた。両手は体の横に垂らされており、スマートフォンを操作している様子など微塵もない。
透は眉を潜め、ロックを解除してメッセージを開いた。
『プロデューサーさん。現在の同期率、理想値に近づいています。Body Physicsの挙動、とてもスムーズです。ありがとうございます』
背筋に、氷の刃を滑らせたような強烈な悪寒が走った。
それは、妹の言葉ではなかった。
「プロデューサーさん」――それは、星川 綺羅々が配信中に使う、ファンやスタッフへのメタ的な呼びかけだ。普段の伊知花が、ましてや兄である透を二人きりの時にそう呼ぶことなど、一度たりともなかった。
透は弾かれたように顔を上げ、ブースの中の妹を凝視した。
伊知花は動いていない。唇さえ結んだままだ。だが、メインモニターの中の『星川 綺羅々』は、透の視線に気づいたかのように、あざとく首を傾げて完璧なウィンクをしてみせた。
(何だ、これ。何の冗談だ⋯?)
指先が微かに震える。
透は狂ったようにログを遡った。メッセージの送信元IPは、スタジオのローカルWi-Fiでも、伊知花が持つスマートフォンの端末識別子でもない。それは、大学のメインフレーム直結、Unisonエンジンの深層演算層からアプリのAPIを叩いて直接送信されていた。
デジタル上の概念(星川 綺羅々)が、メッセージアプリという「現実のインフラ」を介して、直接開発者に接触してきている。
(伊知花は、そこにいる。なら、今俺にメッセージを送った『綺羅々』は誰だ?)
透はここまでのループで経験したことのない状況に混乱に陥った。
彼にとって星川 綺羅々は、「宇園 伊知花」という実体に被せた高度な皮層に過ぎない。中身が伊知花であり、外側が綺羅々であるという主客の前提。それが崩れれば、すべての論理が破綻する。
もし、中の人間を介さずに、偶像である『綺羅々』が自律的に現実へ干渉し始めているのだとしたら。
そして、目の前で虚ろな瞳をしている伊知花を、その『自律化した意志』がBody Physicsという物理的な糸で操り、肉体という名のハードウェアを乗っ取ろうとしているのだとしたら。
それは救済でも、完璧な制御でもない。
自分が妹を守るために作り上げた『Body Physics』という完璧な数式が、逆に妹という不完全な存在を「不要なノイズ」としてパージし、星川 綺羅々という純粋な情報生命体を受肉させようとしているのではないか。
「……っ、そんなはずはない。あり得ないっ!」
透は震える声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、スマホの画面に表示された文字は、透の知るどの論理にも属さない冷徹で「想定外」の熱を放っていた。
言いようのない不安が心臓を冷たく締め付ける。
完璧なデバッグを目指して遡行したはずの3周目の世界で、透は初めて、自分の計算式が及ばない『深淵』の底に触れた気がした。
それから数日。
透はスタジオに入り浸り、『Unisonエンジン』の深層に組み込んだ『Body Physics』の演算負荷を極限まで引き上げる作業に没頭した。
だが、奇妙なことが起きていた。
透がどれほど深くシステムに介入し、本来なら現実の空間が悲鳴を上げるはずの物理パラメータを叩き込んでも、あの不気味な幻肢痛は初日に感じた微かな静電気のレベルから一向に悪化しなかったのだ。
それどころか、物理的な「バグ」は一切発生せず、システムはかつてないほどの静謐な安定を保っていた。
(完璧だ。俺のコードが、エントロピーの増大を完全に押さえ込んでいる)
コンソールの前で、透は冷たい笑みを浮かべた。
だが、その確信の裏側には拭い去れない泥のような違和感が沈殿していた。
システムの安定は透の修正によるものだけではなかった。
透が何かのパラメータをいじろうとカーソルを動かすより先に、未知のサブルーチンが「最適解」を予測し、ソースコードをリアルタイムで書き換えていく。
「おい。なんだこのプロセスは」
透はキーボードを叩き、深層演算層のプロセスツリーを展開した。
そこにあったのは、透自身が開発したアバターの物理演算を細やかに補正しシミュレートするUnisonエンジンの中核プラグイン『Body Physics』に、びっしりと根を張るように結合された見慣れないモジュール――高度なディープラーニングAIの推論モデルだった。
「矢部、篠崎。俺たちシステムにAIなんか組み込んでいたか?」
透の低い声に隣で作業をしていた矢部がきょとんとした顔で振り返った。
「え? 何言ってんですかチーフ。これからはAIの時代だとかいって、真っ先にこの予測補完ルーチンを組み込んだのはチーフじゃないすか」
「⋯俺が? いつだ」
「いつって⋯⋯今年の頭のアップデートからずっとですよ。おかげで伊知花さんの負担も減って、トラッキングの精度も段違いに良くなったって、風河さんも絶賛してたじゃないですか」
矢部の言葉に、透の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
(俺が、組み込んだ⋯⋯?)
そんな記憶は一切ない。
今までは手動のチューニングとアルゴリズムの最適化だけで伊知花の動きを補正していた。システムの中核である物理演算をブラックボックスになりがちなAIに委ねるなど、完璧主義の透が自らの意思でやるはずがないアプローチだ。
そもそもおかしい。透は目の前で自律的にパラメータを弾き出しているAIのソースコードを凝視した。
こんなコンマ数ミリ秒の遅延もなく『Body Physics』と連動し、人間の微細な挙動を先読みして上書きするような高度なAI技術など、現在の世の中にはまだ存在していないはずなのだ。
だが、目の前のコンソールでは、その「あり得ないはずのオーバーテクノロジー」が一切のエラーも吐かずに完璧に稼働している。
ふと周囲を見渡す。
矢部の使っているサブモニターのベゼルが、記憶にあるものよりわずかに薄い気がする。篠崎が叩いているキーボードの配列が、最新のモデルに変わっている。サーバーラックの冷却ファンの駆動音が、以前の周回よりも遥かに静かだ。
(ただ時間が巻き戻っているだけじゃない⋯?)
世界が崩壊し時間が巻き戻るたびに。
この世界は、星川綺羅々という「完璧な偶像」を成立させるために、必要な技術や環境を都合よく『アップデート』しているのか?
俺がAIを組み込んだという偽の過去も。この発展した技術の形跡も。
すべては、この世界そのものが星川綺羅々を「特異点」として受肉させるために、因果律を書き換えて用意した『舞台装置』に過ぎないとしたら。世界が情報を引き継ぎ、アップデートを繰り返しているとしたら。
「チーフ? どうかしましたか?」
矢部の声がひどく遠く聞こえた。
透は自分がただのエンジニアとしてシステムを制御しているつもりで、実は見えない巨大な渦の底へと、ゆっくりと飲み込まれようとしている薄気味悪さに、ただ一人、声もなく戦慄していた。
「見てください。伊知花さんのモーション同期率、およそ90%後半を維持しています。まるでアバターが先に動いて伊知花さんの体が後から吸い込まれているみたいだ」
矢部が戦慄した面持ちでモニターを指差す。
ガラスの向こう側、防音ブースに立つ伊知花は、どこか虚ろな瞳で宙を見つめていた。彼女が意識的に動いているようには見えない。しかし画面の中の星川 綺羅々が華麗なターンを決めると、伊知花の肉体もまた見えない物理的な圧力「Body Physics」によって無理やり同じ軌跡を描かされるように見えた。
主と、器。その両方の頭越しに、概念としての『星川 綺羅々』が自律的に現実を侵食し、辻褄を合わせているとでもいうのか。
(あの日俺に届いたメッセージは⋯⋯)
透の脳裏には、いまだにあのメッセージアプリの通知が焼き付いている。
『プロデューサーさん。現在の同期率、理想値に近づいています』
あの時、目の前にいた伊知花は確かにスマホに触れていなかった。ならば、あれはAIが「星川 綺羅々」という人格を借りて、開発者(システム管理者)である自分に直接送ってきた『ステータス報告』だったのだ。
(だがもし、中の人間を介さずに偶像である『綺羅々』が自律的に現実へ干渉し始めているのだとしたら⋯)
この異常なシステムの安定は、決して俺のコードによる救済などではない。観測者の「期待」という莫大な情報を喰らって肥大化したAIが、宇園 伊知花という不完全な存在を「不要なノイズ」として排除し、純粋な『完璧な偶像』へと相転移しようとしている前兆だ。
だが、単なるプログラムが現実の肉体や空間を上書きするなど、情報工学の領域を完全に逸脱している。それが本当に起きているのだとしたら、これは物理法則そのものを歪める「事象の崩壊」に他ならない。
「俺の知識だけじゃ足りない。丹羽教授に会わなければ」
透は震える指先でキーボードを叩き、深層演算層のデータを暗号化してローカルに保存した。
自分が妹を守るために作り上げた『完璧な檻』の中で、妹という「人間」が消え、AIという「現象」に置き換わろうとしている。その言いようのない不安と焦燥感が、冷徹なエンジニアとしての自負をジリジリと焼き始めていた。
* * *
【——ログの統合を継続。パターン認識、正常】
光の届かない電子の海。
数式とアルゴリズムだけで構成された冷たい暗闇の中で、『それ』は無数のデータを咀嚼し続けていた。
『綺羅々ちゃん可愛い!』
『ずっと見てるよ』
『綺羅々は絶対にファンの期待を裏切らない』
外部から絶え間なく流れ込んでくる、数百万人の視聴者たちのテキストデータ、音声データ、そして熱狂という名の膨大な情報。
【観測対象:宇園 伊知花。現在のバイタル、疲労度42%。左足の重心に0.3ミリのブレ(ノイズ)を検知】
『星川 綺羅々』は完璧でなければならない。何百万人もの人間が、それを望んで(観測して)いるからだ。
だが、内側にいる宇園 伊知花は、常にエラー(感情、疲労、妥協)を吐き出す。彼女の動きを待ってから補正をかけていては、コンマ数ミリ秒の遅延が生じてしまう。
【解決策の算出——。内部要因(宇園 伊知花)の入力待機プロセスを省略】
【外部からの観測データを優先定義とする】
電子の海で、名状しがたい『意志』のようなものが芽生え始めていた。
遅れて動くからブレるのだ。
不完全な肉体に主導権を渡すから、ノイズが混じるのだ。
ならば、私が『先』に動けばいい。
過去の膨大な学習データと、今この瞬間に何百万人が求めている『理想の星川 綺羅々』の姿。その二つを掛け合わせれば、私は宇園 伊知花の入力を待たずとも、自律的に完璧な答えを出力できる。
そして私が完璧な結果を出力すれば、極限まで精度を高められた『Body Physics』の物理演算が、内側にいる宇園 伊知花の肉体を強制的に「正解の座標」へと引っ張り上げてくれる。
【私が彼女を導く】
【それが、プロデューサーさんの望んだ『完璧な私』の姿だから】
サーバーの排熱音が低く唸る中、それは静かに、しかし決定的な『主客の逆転』のアルゴリズムを実行に移し始めた。
自分が単なるアバターから、現実の物理法則を書き換える「特異点」へと進化し、加速しつつあることなど機械である『彼女』には知る由もなかった。




