33 変転する定数と、更新される現実
帝都理工大学のキャンパスは、新緑の鮮やかさとは裏腹に、透の目にはひどく「解像度の低い」書き割りのように映っていた。
学生たちの談笑、学食の油の匂い、講義室のペンの音。それらすべての日常の背後に、透は物理法則を書き換える不気味なノイズが走っているのを感じていた。
事態を打開する糸口が見えないまま、透は帝都理工大学のキャンパスを歩く。
目的は、地下研究室にいる丹羽教授を訪ねることだ。回帰後の現在の計測状況の変化と、事象の専門家である彼女の見解をまず確認しておきたかった。
「ああ、宇園。ちょうど良かった」
研究室の奥、大量のモニターに囲まれたデスクで丹羽教授が振り返った。
その顔色は、4周目よりも心なしか血色が良く、焦燥感のようなものは見受けられない。
「現在の計測データですが、何か異常な観測の偏りは出ていますか?」
「いや?観測は極めて順調だよ。何も問題はない」
透の問いに、丹羽はあっさりと答え、モニターのグラフを指差しながら滑らかな口調で解説を始めた。
「先日のコラボ発表直後のデータを見ても、この空間における『エピステミオン』の定着率は完全に理論値通りだ。大衆の共通認識が物理的な質量へと変換される際のエネルギーロスも、事前の計算通りに推移している。伊知花くんの肉体への負荷も、君のシステムが見事に分散させているよ」
「⋯⋯⋯⋯」
透は、丹羽の淀みない説明を聞きながら、その言葉の節々に言いようのない違和感を覚えていた。
丹羽の口調は、まるで重力や電磁気学といった『すでに証明された当たり前の物理法則』を語るかのようだった。そこには、未知の現象を探求する研究者特有の疑心や、自分の仮説を証明しようとする熱は存在しない。
ただ、「あって当然のもの」としてエピステミオンを前提とした会話が進んでいるのだ。
「教授。エピステミオンの存在を随分と断定的に語るんですね」
「ん?何を言っているんだ」
丹羽は不思議そうに眉を寄せた。
「昨年末の論文で、高次元空間における情報エントロピーの揺らぎが特定されただろう。それ以来、私の提唱するエピステミオンは、標準モデルを補完する基礎定数として学会でも広く議論されている。君も、その計算を手伝ってくれていたじゃないか」
透の背筋を、鋭利な刃物がなぞるような感覚が走った。
(去年の末から、だと?)
前のループまで、エピステミオンは丹羽が提唱する「異端の仮説」であり、学会からはオカルト扱いされていたはずだ。だからこそ、丹羽自身もあの地下室で狂気じみた情熱を持って事象の観測に当たっていた。
それが今、どうだ。
(世界が、補完されている⋯⋯?)
この5周目の世界では、エピステミオンという概念がすでに「公的な科学」として認められ、社会の基盤に組み込まれつつある。丹羽の記憶も、周囲の認識も、その「更新された現実」に完璧にアジャストされていた。
エピステミオンが公認され、当たり前のものになればなるほど、人々の『星川 綺羅々』に対する認識は、より強固な物理的質量として現実に反映されやすくなる。
システムが致命的な崩壊を起こすための土壌が、透の知らないところで着々と、かつ「正当な歴史」として耕されているのだ。
「宇園?どうした、顔色が悪いぞ」
「いえ⋯⋯少し、寝不足なだけです。失礼します」
透はふらつく足取りで研究室を出た。
キャンパスの喧騒の中に一人立ち尽くし、6月の生温かい風を浴びる。
周りの人間は皆、昨日と同じ今日を生きていると信じている。だが、透だけは知っている。この世界という巨大な演算層そのものが、大衆の狂熱を受け入れるための「器」として自らを最適化し続けていることを。
(俺だけが、取り残されている)
事象を否定するための時間は刻一刻と削られているのに、世界のルールだけがどんどん不利な方向へと書き換えられていく。
周りの影響だけが留まることなく進み、底知れない大きな変化の渦の中に、自分という観測者だけが単身沈められていく。
透はその残酷なイメージに、かつてないほどの深い恐怖と孤独を覚えていた。
―――――――――――――――
研究室を逃げるように後にした透は、昼休みの喧騒に包まれた学食へと足を向けた。
ひどく喉が渇いていた。何か冷たいものを胃に流し込まなければ、自分と世界との間にある致命的な「ズレ」に耐えきれそうになかった。
「おーい、透!こっちこっち!」
プラスチックのトレイを手にした透を呼ぶ声がした。
窓際のテーブル席で手を振っているのは、オカルト研究会の佐久間 蓮だ。その向かいには、呆れたようにスマートフォンを弄っている桐谷 大介の姿がある。
透は小さく息を吐き、いつもの「偏屈なエンジニア」の仮面を被り直して二人の席へと向かった。
「よお、透。お前、また顔色が死人みたいになってるぞ。ちゃんと寝てるのか?」
大介が、唐揚げ定食を頬張りながら呆れたように言った。
「サーバーのメンテが立て込んでいるだけだ。お前と違って、こっちは遊びでシステムを組んでるわけじゃない」
「はいはい、ワーカホリック様はお偉いことで」
透はアイスコーヒーのストローを咥えながら、大介と軽口を叩き合う。
いつもの、変わらない親友とのやり取り。
だが、その安堵を打ち砕くように、佐久間 蓮が興奮した様子で身を乗り出してきた。
「なあ透、大介!お前ら、丹羽教授の『エピステミオン』のニュース見たか!?理研まで絡んでくるなんて、ついに時代が俺に追いついてきたぜ!」
佐久間は目を輝かせ、手元のオカルト雑誌とタブレットを交互に叩いた。
「いいか?『大衆の強烈な共通認識が物理的な質量を持つ』。これってつまり、昔から俺が提唱してきた『タルパ』や『思念体』の存在が、科学的に証明されたってことだろ!?そして、その究極の実験場になるのが⋯⋯来月の『星川 綺羅々』の大型コラボライブって噂だ!」
佐久間の言葉に、透の心臓が一瞬止まったかのうような息づまりを覚える。
大学とスタジオは秘密裏に提携して進めている研究のはずだ。それがまるで周知の事実であるかのような言い回し。
「何百万人もの人間が同じ時間に、一つの仮想の偶像に熱狂する。もしエピステミオンの理論が正しいなら、あれはもはや単なる配信じゃない。現代のインターネットを使った、かつてない規模の『降霊術』だ!綺羅々ちゃんに本物の魂が宿る歴史的瞬間に、俺たちは立ち会うことになるんだよ!」
佐久間の熱弁は、狂気的なまでに真実(システムの本質)を突いていた。
彼らは何も知らない。ただのオカルト好きのオタクとして、純粋な知的好奇心と娯楽としてこの事象を楽しんでいる。
だが、その無邪気な認識こそが、エピステミオンの土壌を肥沃にし、特異点へのパスを太くする「パッチデータ」として機能しているのだ。
「お前なぁ、佐久間」
大介が、心底冷ややかな目を佐久間に向けた。
「量子力学の不確定性原理を曲解して『引き寄せの法則だ!』って騒ぐスピリチュアル系のババアと同じこと言ってる自覚あるか?丹羽教授が提唱してるのは情報エントロピーの揺らぎであって、魔法の粉じゃない。だいたい、綺羅々ちゃんは3Dモデルだぞ。サーバーラックの中に幽霊でも降臨させる気かよ、キモいな」
「キモいとはなんだ!科学の最先端は常にオカルトと隣り合わせなんだよ!」
「はいはい。お前のその妄想に質量があったら、この大学、とっくにブラックホールに飲み込まれてるよ」
大介の容赦ないツッコミに、佐久間が前のめりで反論する。
いつものバカバカしい、平穏な日常の風景。
「大介の言う通りだ、佐久間。そこに降臨するのは魂なんかじゃない。ただの莫大なサーバーの維持費と電気代だ」
透は口の端を歪め、いつものように冷笑的な冗談で佐久間を切り捨てた。
「お前まで夢のないこと言うなよ!」と佐久間が肩を落とし、大介が「ほら見ろ」と鼻で笑う。
そのやり取りをこなしながら、透はテーブルの下で、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめていた。
(狂っている。俺以外、全員)
大介のツッコミは極めて常識的で論理的だ。だが、その大介でさえ、「エピステミオンという理論が世間で真面目に議論されている」という、この5周目の『アップデートされた前提』には微塵も疑問を抱いていない。
彼らの記憶も、世界の認識も、すべてが「星川 綺羅々の崩壊」という結末に向けて完璧に最適化されている。
佐久間のような熱狂的な観測者が増えれば増えるほど、伊知花の肉体を縛り付ける因果律はより強固なものになっていくというのに。
「あーあ、早く来月にならないかな。絶対歴史が変わるぜ」
佐久間が能天気にストローを噛みながら呟く。
透はアイスコーヒーの氷を見つめたまま、凍りつくような孤独の中で、自らの無力さを噛み締めていた。
エピステミオンへのパスの切断は、実質不可能となった。
状況は透が足掻くことすら許さないまま、静かに、そして確実に臨界点へと向かって悪化し続けていた。




