17 伊知花の失意と、虚無の祭壇
透がインフラの監視を完全に放棄してから、数日が過ぎた。
都心にある『流れ星スタジオ』の控室では、重苦しい空気が漂っていた。
「また、未読のままだ」
ダボダボのジャージ姿の伊知花は、ソファの隅で膝を抱え、スマートフォンの画面を虚ろな目で見つめていた。
透宛てに送ったメッセージは、いくら待っても「既読」すらつかない。電話をかけても機械的なアナウンスが流れるだけだった。
(お兄ちゃん、本当に私のこと見捨てちゃったの⋯⋯?)
胸の奥が、冷たい泥で満たされていくような感覚だった。
両親が不在の宇園家で、伊知花にとって透は絶対的な保護者であり、世界と自分を繋ぐ唯一の生命線だった。透が自分のためにコンテナハウスに引きこもり、完璧なシステムを構築してくれるからこそ、彼女は『星川 綺羅々』という偶像を被って息をすることができたのだ。
その唯一の繋がりを断たれた今、伊知花は自分がひどく輪郭の曖昧な、空っぽの存在になってしまったように感じていた。
「伊知花ちゃん⋯⋯大丈夫?今日、顔色がすっごく悪いよ」
心配そうに顔を覗き込んできたのは、先輩タレントの泉 鈴音だった。普段は伊知花のことを「綺羅々ちゃん!」とキャラ名呼ぶ彼女でさえ、今の伊知花を見て本名で呼ぶほどに心配していた。
小柄な彼女は、伊知花の冷え切った手をそっと握る。
その横から、年長先輩タレントの青山 早苗が、温かいココアの入ったマグカップを差し出した。
「宇園くん、まだ連絡つかないの?」
「⋯⋯はい。私が、我儘ばっかり言ったから⋯愛想、尽かされちゃったのかも」
伊知花が消え入るような声で零すと、早苗は優しく頭を撫でた。
「そんなことないわ。あの宇園くんが妹の伊知花ちゃんを見捨てるはずないじゃない。きっと本番に向けてギリギリまで難しい調整をしてくれてるのよ」
「そう、でしょうか」
慰めの言葉も今の伊知花には届かない。
いつもなら、トラッキングスーツを着てブースに入れば、インカム越しに透の無愛想だが確かな指示が聞こえてきた。その声があるから自分は「星川 綺羅々」になれた。
だが今は、冷ややかなシステムだけが自分を待っている。巨大な着ぐるみの中にたった一人で閉じ込められ、数百万人の視線に晒されるような、得体の知れない恐怖が伊知花を蝕んでいた。
一方、スタジオ奥のコントロールルームでは、チーフマネージャーの風河 薫が腕を組み、冷ややかな苛立ちを露わにしていた。
「専属のチーフエンジニアが、コラボライブ本番を目前にして音信不通。どういうつもりですか、宇園チーフは」
「す、すみません!大学の深層演算ターミナルの方にも確認したんですが、アクセスログが途絶えていて⋯⋯」
サーバーエンジニアの矢部 良太が、縮み上がりながら報告する。
風河は忌々しげに眼鏡の位置を直した。
「代えの利かないブラックボックスを作っておいて、職務放棄とは呆れますね。篠崎さん、システムの挙動はどうなっていますか?彼のリアルタイム補正なしで、トラッキングは維持できているんですか」
問われたネットワーク解析担当の篠崎 舞は、手元のタブレットとメインモニターを何度も見比べながら、戸惑ったように声を上げた。
「それが⋯⋯異常は見当たりません。いえ、異常がないことが『異常』なんです。チーフが最後に残した『Body Physics(3Dモデル物理演算補正プラグイン)』の物理演算補正も、サーバー間の同期も、まるで時間が止まったように寸分の狂いもなく『固定』されています」
「固定?」
「はい。本来なら機材の熱や生身のタレントの動きのズレで、必ずどこかにエラーが蓄積していくはずなんです。でも今のシステムは、チーフという管理者を失ったのにまるでシステム自体が『自律して』完璧な状態を維持しているみたいで⋯⋯」
篠崎の報告に、風河は「結果が出ているなら結構です」と短く切り捨てた。
だが、篠崎と矢部の背筋には、薄ら寒い悪寒が走っていた。
エンジニアである彼らにはわかる。これは、正常なITの挙動ではない。
宇園 透という「人間の手」を離れたシステムは、すでに情報処理という枠組みを超え、宇宙の物理法則の死角で『別の何か』へと変質し始めている。
保護者という最大のサポートを失った宇園 伊知花は、数百万人の観測をその身に受ける「特異点」として、無防備なまま虚無の祭壇へと押し上げられようとしていた。




